公開原稿 

2018年東北大学入試 国語【一】

コメントと解答例(©入不二基義)

 2018年東北大学入学試験の国語第一問において、拙著『足の裏に影はあるか?ないか? 哲学随想』(朝日出版社)所収の「『私たち』に外はない」が問題文として使用された。

問題はこちら⇒  東北大学2018年国語

 出題された文章の著者自身が、その文章につけられた設問に対して解答例を作成し、さらに解説を加えるというのは「変なこと」かもしれない。しかし、私には『哲学の誤読 入試現代文で哲学する!』(ちくま新書)という「変な」著書がすでにあるし、かつて予備校で教えることに、通常の大学院生ではあり得ないくらい深くコミットした経験もあって、「ふつうの著者」ではないので、大目に見て頂きたい。

 以下で公開するのは、他人ー野矢茂樹・永井均・中島義道・大森荘蔵ーの文章(入試出題文)を扱った『哲学の誤読』の、こんどは〈自文章バージョン〉であり、『哲学の誤読 Part 2─自註篇─』のようなものである。

Ⅰ.全体的なコメント

 私の文章(「私たち」に外はない)の議論構造(手順)全体は、次のようになっている。

(1)「私たち」とことばの二者について、誘導的な「問い」で始めて、その誘導方向─両者の外のなさ─に対して想定される「反論」と「同意」をとりあげる。

(2)「反論」も「同意」もどちらも退けて、二者の「外のなさ」を別様に考える。

(2−1)「私たち」の二重の働き=落差の反復に、「外のなさ」を見る。

(2−2)「私たち」の二重の働き=落差の反復を、地平線のあり方に擬える。

(2−3)「外のなさ」への想定「反論」と想定「同意」のどちらも退けて、むしろ、その両者をカップリングし続ける反復運動に「外のなさ」を見る。

(3)ことばのほうについて、「外のなさ」を考える。

(3−1)「反論」側の考え方を「同意」側の考え方によって崩す

(3−2)「同意」側の考え方を「反論」側の考え方によって崩す

(3−3)再度「反論」側の考え方を「同意」側の考え方の内へと回収する

(3−4)この反復自体を(「私たち」のあり方と同型の)「外のなさ」と見なす。

 東北大学の「問い」の設定は、この議論構造(手順)をうまく反映するように作成されていて、きわめて洗練された問題になっている。

 まず問二は、冒頭の「想定反論」に関わる箇所で作られていて、筆者(私)が意図があって持ち出した想定反論という箇所なので、「筆者がそのように考えるのはなぜか」を問うことが効果的な箇所である。捻れた(?)私の意図が、「・・・などと、何を寝ぼけたことを言っているのだろう、・・・」という表現(自己ツッコミ)に読み取れることを、出題者は見逃していない。

 (問二とは違って)問三や問四は問い方を変えている点に注目したい。こんどは「本文の内容に即して」という問い方になっている。それは、問三と問四が本文の中心的な議論内容(落差の反復による「外のなさ」)に関わる設問だからである。冒頭のような「あえてする反論の設定」場面では、(「自己ツッコミ」に表れるような)「筆者の意図」の読み取りが重要である。というのも、それが「議論の流れ」を読み取ることに繋がっているからである。しかし、議論の核心部分・中心主張において重要なのは、(そのような意図よりも)むしろ議論の構造や内容そのものである。

 この文章では、落差の反復を「私たち」とことばという二者に即して論じているが、そのことに対応して、その二者が問三と問四にきちんと配分されている。つまり、問三が「私たち」を問い、問四がことばを問うている。適切な「設問配分」である。

 それでだけではない。「二重の働き=落差の反復」には、当然「二面性─上昇と転落、全体化と局所化─」があるが、問三ではその「上昇・全体化」の局面を、(地平線の比喩に即して)問うているのに対して、問四ではもう一方の「転落・局所化」の局面を問うている。きわめて正確な「設問配分」になっている。比喩(地平線)が重要な働きをしていることも、見逃すことなく設問の中に組み込まれている。

 問五は、最後の設問に相応しく、「筆者が・・・同時にとりあげているのはなぜか」という「筆者の意図」寄りの側面と、「本文全体の趣旨を踏まえて」という「議論そのもの」の側面の両方を、総合する形で問うている。このような「問二⇒問三・問四⇒問五」という問い方の流れは、問題として「美しい」とさえ思う。

 筆者(私)が、「私たち」とことばの両方を取り上げているのは、両者の「同型性」を利用することによって、「落差の反復による外のなさ」というあり方を説得的に論じるためである。この水準においては、「「私たち」とことばは、ともに落差の反復によって外のないあり方をしている」という「本文全体の趣旨」と、「私たち」とことばを同時に取りあげる「理由(意図)」は一体のものとなっている。だからこそ、「総合する形で」問われているのである。「趣旨」「理由」「意図」が読み取れることと、(1)〜(3)で示したような「議論構造・手順」が見えていることとは、一つのことなのであって、別物ではない。

Ⅱ.私の解答例と設問へのコメント

問二

ことばの働きは、その外部の物や事柄を表すことだという反論がありうると、筆者は想定しているから。(47文字)

問三

「私たち」とは、私たちと彼らという対比の一方であると同時に、その対比(分割)自体を作り出し続けていく越えられない反復運動であるというあり方。(70字)

問四

世界全体を分節化して秩序づけるという働きをしていることばが、その世界の中で起源等が説明できるような一部分として位置づけられてしまうこと。(68文字)

問五

落差の反復ゆえに「外がない」というあり方を説明するために、「私たち」とことばの同型性が役立つから。(49字)

 問二へ解答するときのポイントは、二つあるだろう。

 一つは、(「私たち」には外があるという想定反論に続いて)「ことばには外部がある」という反論を想定しているという点であり、もう一つは、想定される反論とは(傍線部の次に書いてあるように)ことばの外部とは、その指示対象(ものや事柄)であるという考え方だという点である。

 後者のポイントは分かりやすいが、前者は、議論の手順と筆者の意図を十分に把握していないと、単に「一般的な考え方だから」や「一般的とみなしているから」という解答を作成してしまう可能性がある(以下の「Ⅳ.誤読についてのコメント」を参照)。

 しかし、「何を寝ぼけたことを言っているのだろう」という自己ツッコミからは、単に「一般的に言ってそういう考え方がある」というニュートラルな認識を示そうとしているのではないことが分かるだろう。このいささか「過剰な」言い方(ツッコミ)に、筆者の意図を読み取るべきなのである。

 問三・問四・問五にも関連してくるが、「想定反論」と「想定同意」の両方を退けて、むしろ両方をカップリング利用することで、「落差の反復による外のなさ」を導くというのが議論の大筋である。

 この議論のあり方が、「誤読」されてしまうかもしれない。その「想定同意」側の考え方が、そのまま筆者自身の考え方であると誤解されてしまうかもしれない。正しくは、「上昇・全体化」の局面のみを採り上げて「外がない」と言っているのではなくて、「上昇・全体化」の局面と「転落・局所化」の局面のあいだの繰り返しの運動自体によって、「外のなさ」が産出されると言っているのである。「反復」「繰り返し」というダイナミックスが導く「外のなさ」が理解できていないと、解答も不十分なものにしかならないだろう。

 問三では「上昇・全体化」の局面を(地平線の比喩に即して)問うているのに対して、問四では「転落・局所化」の局面を問うている。問三の「どこまで行ってもこちら側であり続ける」という地平線のあり方は、(国境線などとは違って)更新や繰り返しの運動が産み出しているのだから、それと同型の運動を「私たち」に即して言う必要があるだろう。

 また問四では、ことばを「歴史」の中に位置づけて、その「起源」や「獲得」について語り、ことばを自然史(誌)の一部として捉えることが「転落・局所化」である点を、ことばの分節する機能(上昇・全体化)と対照する形で説明する必要があるだろう。

 問五の解答ポイントは、次の二点であろう。言いたいことの中心は(2)であり、それを言うたための場として、(1)の同型性・共通性が利用されている。

(1)「私たち」とことばの同型性・共通性

(2)その同型性・共通性の内容が「落差の反復による外のなさ」「外/内の分割運動の繰り返しによる外のなさ」であること。  

Ⅲ.東北大学の「出題意図と講評」

 東北大学自身が「出題意図と講評」を公開していることを、後で知った。

東北大の「出題意図と講評」はこちら⇒  東北大学2018年国語「出題意図」

 設問も素晴らしいものであったが、この文書もまた優れた解説文になっている。リンク先で全文読むことをお薦めしたい。「出題意図」の部分を引用しておこう。

入不二基義『足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想』所収の「『私たち』に外はない」からの出題です。この文章は「私たち」と「ことば」が共通して持つ「外がない」というありかたを論じたものです。「私たち」「ことば」のいずれもが、それ以外のあり方を生み出しながらも、それをさらに内に取り込みつつ、またその外を立ち上げるということを繰り返すために外がない、ということを主張する文章です。本文は論理の構造が文章展開・文章構成に反映された、そして、ある程度の抽象性を持った文章です。こうした論理的な文章の内容と展開を正確に読み取る読解力、また、定められた字数の中で要点を的確に説明する表現力を問うことが、この設問の趣旨です。

 Ⅳ.誤読についてのコメント

 私が知りえた予備校等の解答例の中から、いくつかを採り上げて、コメントを加えておこう。

【問二】

(解答例) ことばはその対象である外部としての物や事柄と結びつくことで 意味を持つと、一般的に考えられているから。

(解答例) ことばはその対象である外部の物や事柄と結びつくことで意味を持つものと一般的にみなされていそうだから。

(解答例) 常識的には、ことばはある事物を指示・表現し、それらの事物はことばの外部にあると思われているから。

(解答例) ことばは、ことば以外の物や事柄と結びつくことでその機能を果たすというのが一般的な考え方だから。

 これらの解答例に共通しているのは、「一般的に考えられている」「一般的に見なされている」「常識的に思われている」「一般的な考え方」という箇所であるが、これでは、設問が求めている「筆者の意図」を表現するに至っていない。上記でもふれたように、これらは、「何を寝ぼけたことを言っているのだろう・・・」という表現の意味(意図)が捉えられていない。「筆者がそのように考えるのはなぜか」で問われている筆者の意図は、当該表現を議論構造(手順)の中に位置づけてみれば、「反論の想定」であることが分かるはずである。想定される反論側の語気の強さ(鼻息の荒さ)のようなものを、「何を寝ぼけたことを・・・」という表現からは読み取ることができる。

 東北大学の「講評」は、次のように述べている。

問(二) 指示された箇所について、筆者がそのような表現を用いた意図を前後の文脈をふまえながら、的確に説明できるかを問うものです。全体としては良好な結果でしたが、筆者の表現の意図の説明ではない解答も少数ながらみられました。  

 上記の解答例は、その「少数」の中に入ってしまうのではないだろうか。このような不十分な読みが生じてしまう背景には、「一般論(常識)と筆者の主張」という二項対立を使って読むという方法・態度が、予備校などの場では蔓延している事情があることを、予備校講師かつ研究者の知り合いが教えてくれた。私もその指摘は正しいと思う。この文章は、固定的な二項対立では済まない、もう一段上の水準の論理(方法)によって書かれているので、ふだん慣れ親しんだ方法・態度が、逆に「陥穽」として働いてしまったことになるだろう。

 次のような解答例もあった。

(解答例)ことばはその外部の物事を指示することで機能するので、筆者の考えは非常識だと見なされるはずだから。

 先ほどの解答例とは違って、逆側から表現している。しかし「同じ穴の狢」である。「(常識の側からは)非常識だと見なされるはず」という表現が、「何を寝ぼけたことを言っているのだろう・・・」という表現(自己ツッコミ)と符合しているようにも見えるが、それは表面的なことにすぎない。筆者の意図は、仮想的な議論の対立を設定することなのであって、常識(一般論)と非常識(独自主張)のような二項対立の中で、その一方を主張することなのではない。いずれにしても、常識と非常識、一般論と筆者の主張という固定化した「枠組み」を超えて、読解・思考することが求められている。

【問三】

(解答例)「私たち」と異なるあり方を区別し、外部と定義しても、この対立項を生み出すのは「私たち」なので、結局は外部を見いだすことにはならないあり方。

(解答例)「私たち」と異なるあり方を区別し、外部と定義しても、この対立項を産み出すのは「私たち」なので、結局繰り返しても外を見出すことはないあり方。

 この解答例は、間違いではないにしても、どこか不完全感の残る記述である。なぜだろうか。このような微妙なところ(わずかなズレ)にこそ、重要な問題点が伏在している。抉り出そう。

 上記のような解答例は、「分割の結果として作られる外部」が「分割するという行為の内にある」という点を、「外がない」と解釈している。その解釈の仕方を、ことばの場面に移して言えば、「ことばが指示する外の指示対象もまた、ことばの分節化という働きの産物である(ことばの網の目の内部にある)」という解釈に相当する。すなわち、この解釈は、「私たち」やことばの「全体を覆うように働く(全体化)」という側面を、そのまま「外がない」こととして解釈していることになる。比喩である「地平線」の場面に移して言えば、「地平線の越えられなさ」を、あたかも「絶対境界線のようなものが引かれている」かのように考えていることになる。

 しかし、「全体を覆うように働くこと(全体化)」は「落差の反復」という「外のなさ」を生み出す運動の半面にすぎないし、「どこまで行っても地平線のこちらであり続ける」のは、「絶対境界線のようなものが引かれている」からではない。そうではなくて、「(乗り越え可能な)とりあえずの境界線を引き続けることをやめない」ことがそのつど地平線を生み出しているのであって、その繰り返しが「地平線を越えられない」ことに他ならない。同様に、全体化そのものではなくて、全体化と局所化が繰り返すことが、「外のなさ」を生み出しているのである。

 この点が重要である。「外のなさ」は、「全体化」と「局所化」がカップリングした「落差の反復」という運動の内部にあり続けることなのであって、その半面である「全体化」が、「私たち」やことばの「外のなさ」なのではない。ことばの場面では、この点が、(3−1)(3−2)(3−3)(3−4)という構造(手順)を通して強調されている。「解答例」から感じ取ることのできる不完全感は、この微妙ではあるが重要な差異の捉え損ないに由来していたのである。

【問四】

(解答例)ことばがその内部で全てを秩序づけるという考えは、外部の物事の分節化のために獲得された、起源を持つものに過ぎないという考えにより力を失うこと。

(解答例)ことばがその内部で全てを秩序づけるという考えは、外部の物事の分節化のために獲得された、起源を持つものに過ぎないという考えにより力を失うこと。

 この解答例の「・・・という考えは、・・・という考えによって力を失う」「・・・に過ぎない」というまとめ方は、適切であるとは言い難い。一番重要なことは、「全体⇒局所⇒全体・・・」という落差の反復(繰り返し)の運動の中に「墜落」を位置づけることである。つまり、ここで生じている「墜落」は、もう一方の「上昇」と一体化している運動の半面であるし、「全体がその全体の中の一要素となる」というパラドクシカルな性格も帯びている。そのような運動性や緊張が、解答例のようなまとめ方からは、失われている。次のような解答例のほうが、その点への顧慮が感じられて好ましい。

(解答例) ことばはすべての事物を取り込んでいるように見えて、実は人間による獲得物であることから、全体の中の一部にすぎないとみなされるということ。

(解答例) ことばが分節化によって万物をその内部に秩序立てる存在から、ことば自体の歴史性が明らかになることによって部分的な存在へと成り下がるということ。

【問五】

(解答例) 両者ともに、対象を分割することと結びつけることとを永遠に繰り返していく点が、同じだと訴えたいから。

(解答例) 両者ともに一般的な常識とはまったく異なり、外部をもたないという意外な共通点があることを訴えたいから。

 脱力感に襲われるような、あるいは「的外れ」の感を強く抱いてしまうような解答例である。まず、全体と局所の「落差」は、「対象を分割することと結びつけること」ではない(そもそも本文中で、分割と結合という対など問題になっていない)。次に、「一般的な常識とはまったく異なり」とか「意外な共通点」という表現は、先述した予備校的・受験勉強的な「二項対立偏重」に毒されているとしか思えない。

 次のような解答例は、固有の問題点を含んではいるけれども、上記の解答例よりは「的をかすっている」ように思われる。

(解答例) 両者は自身とそれ以外との分割を反復して外部を持たない点で、人間特有の認識のあり方をしているから。

(解答例) 他者や世界といった外部は、「私たち」や言葉が不断の更新を繰り返すなかで産出されるものにすぎないから。

 前者の解答例に対しては、落差の反復という共通性は、「人間特有の認識のあり方」のような人間論的かつ認識論的な次元だけに限定されるものではないとだろうと述べておきたい。また後者の解答例では、本文の読解からは逸脱する「外部は・・・にすぎない」という価値判断が加わってしまっている。勇み足だと思う。

(了)

地平線という比喩についての追補

 「地平線」が、「私たち」という外部のないあり方の比喩として用いられていることから、「地平線は近づくと離れるし、その距離は保たれ続けられるので越えられない」という点を読み取ることは、重要な一歩です。

しかし、それだけではまだ、地平線を「私たち」の比喩とすることの妙味を、十全に汲み尽くしているとまでは言い難いでしょう。というのも、「私たち」が局所かつ全体として働くという二重性と、「地平線」が一見固定的に引かれた線であるかの如く見えるが、実はそのような境界線のようなものではないという二重性が、対応しているからです。

「地平線」は、とりあえず地表に引かれた線であるかのように見えることと、(近づいてみれば)そうではなかったことが分かることの組み合わせからできている、ということです。そして、その一方ではなく、両方がセットになって初めて成立するのが「地平線」というあり方であり、だからこそ、そこには「運動」が介在するのです。

つまり、「私たち」にしろ「地平線」にしろ、そのあり方(二重性)を成り立たせているのは「運動」です。分割された一方と分割すること自体、地表にいったん固定されているように見えることとそれが実は固定された線のようなものではないこと、その両者は「向こう側(外)に見えるところに向かって歩み続けること」という運動が生み出しているものであるという点こそが、比喩のポイントです。

ちなみに、出典となった [2009『足の裏に影はあるか?ないか? 哲学随想 』(朝日出版社)]には、「地平線と国境線」も収録されています。上記のポイントは、その文章からの方が、読み取りやすいだろうと思います。

【2018年8月21日追記】