「バカな犬ほど可愛くて」番外編



ドラマCD「バカな犬ほど可愛くて」、ブックレットより再録。
(2006年発売/制作会社倒産により廃盤)

原作はガッシュ文庫より電子書籍で販売中です。
後輩(ヘタレワンコ)×先輩(面倒見のいい隠れゲイ)





★「Love to give, Love to get」


「先輩! リンゴ剥きました。食べてください」
 俺は意気揚々として、先輩が仕事場兼寝室として使ってる部屋に飛び込んだ。
「リンゴ? わざわざ買ってきたのか?」
 ベッドに横たわった先輩は、俺の顔を見てかすれた声で呟いた。
「はい。病気の時はリンゴを食べるのがいいって、いつもうちのばあちゃんが言ってました。あと、こっちはハチミツ大根」
「ハチミツ大根……? なんだ、それ」
「ハチミツに小さく切った大根をひと晩漬けたものです。そのまま飲んでもいいけど、今日はお湯で割ってレモン汁も入れてみました。喉の痛みに効きますから、飲んでみてください」
 パジャマ姿の先輩は身体を起こし、「それもばあちゃん仕込みか」と笑った。
「苅谷はおばあちゃん子だもんな。そういや、ばあちゃんは元気か?」
「はい。この前、実家に寄ったら、また先輩を連れてこいってうるさかったです」
 トレイを持ってベッドの端に座ると、先輩は俺の手元を覗き込んで口元をゆるめた。
「それ、もしかしてウサギのつもりか?」
「……見えませんか?」
「見えないこともないけど」
 皿の上には不細工な形をしたリンゴが載っている。ウサギ型にしようと悪戦苦闘したけど、やっぱり上手くできなかったのだ。ウサギは俺には難しすぎた。
「すみません。こんな形じゃ、食べる気しないですよね」
 先輩は何も言わず美味しそうにリンゴを全部食べ、ハチミツ大根も残さず飲んでくれた。
「先輩。熱計ってください」
 俺は電子体温計を持ってきて、またベッドに腰かけた。先輩は「ん」と頷いて、パジャマのボタンをふたつほど外した。白い胸が露わになり、少しだけドキッとしてしまう。病人相手に不謹慎だと思うけど、好きな人の肌を見てそわそわしてしまうのは、男として当然の心理だよな、と俺は自分のスケベ心をもっともらしく正当化した。
「三十七度五分……。なかなか平熱まで下がりませんね」
 一昨日の金曜日の夜、俺が仕事から帰ってきた時には、先輩はすでに具合が悪そうだった。頭痛と悪寒がすると言っていたので風邪だろうと思っていたら、案の定、翌日には高い熱が出た。そんなわけで俺は昨日と今日、休日返上でずっと先輩の看病をしていたのだ。
 泊まり込んで食事をつくったり──といっても、お粥やうどんくらいの簡単なものだけど──、氷枕を替えたり、身体を拭いてあげたり。先輩はすまなさそうな顔をしていたけど、俺は内心で喜んでいた。普段、先輩が俺に頼ることなんて、まったくと言っていいほどない。だからいつも世話になっている分、ここぞとばかりに甲斐甲斐しく先輩の世話を焼きまくった。自己満足でも好きな人に何かしてあげられるのは嬉しいに決まってる。
「なあ、そこに置いてる本取って──ゴホッ」
 先輩が軽く咳き込んだ。熱はマシになったけど、咳はなかなか治らない。
「大丈夫ですか? 無理しないで寝ていたほうがいいですよ」
 先輩は「うん」と答えつつも、咳が治まるとまた本を取ってくれと頼んできた。机の上に置いてあったのは、京都の観光ガイドブック。手渡すと先輩は本を膝の上に置いて、黙々とページをめくり始めた。
 先輩が旅行に行くわけじゃない。今書いている小説の中で主人公が京都に行くシーンがあるから、資料として眺めているのだ。風邪を引いてるっていうのに、本当に仕事熱心な人だ。
「ずっと看病させて悪かったな。今夜は自分の部屋で寝ろよ。俺ならもう大丈夫だから」
「今日まで泊まっていきます。まだ心配ですから」
 なんて言ってみたけど、実際は単に先輩の近くにいたいだけだ。毎日顔を合わせているのに、俺って奴はどれだけ先輩と一緒にいても、まだ足りないと思ってる。できることなら二十四時間、三百六十五日、先輩の隣にいたいくらいだ。
 我ながら呆れてしまう。いくらつき合い始めてまだ一か月だからって、そんなにも四六時中ベタベタしたいのかって。……いや、ちょっと違うかな。別にベタベタしたいわけじゃない。ただ顔を眺めて声を聞いて、先輩の存在を身近に感じていたい。同じ空気が吸える場所にいたい。先輩の隣が一番落ち着くから。すごく気持ちが安まるから。
「お前、心配性だな。それに過保護すぎないか?」
 先輩がちょっと呆れたふうな顔で言ったので、俺はギクリとした。
「……もしかして、俺って鬱陶しいですか?」
 つき合う前から毎日のように顔を合わせていたけど、恋人の関係になってからは、俺が先輩の部屋に居座る時間はもっと長くなった。先輩は嫌がらずに、しょうがない奴だなって顔で自然に許してくれている。だけど毎日毎日べったりそばにいる俺のことを、本音では邪魔だと思ってないだろうか?
 先輩と両思いになってずっと浮かれ気分でいたけど、自分の鈍感さを思い出して急に不安になってきた。俺は自慢ではないが、他人の感情の機微には疎いほうだ。
「あの。今さらかもしれませんけど、ひとりになりたい時はそう言ってくださいね。俺、鈍いから言われないとわかんないし」
 真剣な顔で言うと、先輩は苦笑して俺の膝を軽く叩いた。
「馬鹿。何気をつかってんだよ。鬱陶しかったら、はっきりそう言ってるって。お前に遠慮なんかするかよ」
 率直な返事を聞いて心底ホッとする。先輩が不意に俺の手を握った。熱があるのでいつもより温かい手のひらだった。
「病気の時ってひとりだと気弱になって、結構落ち込んだりするんだけど、今回はお前がずっと一緒にいてくれたおかげで、なんだか心強かったよ」
「先輩……」
「うち、母親がずっと忙しく働いていただろう? だから俺が風邪引いても、会社を休んだりできなくてさ。しょうがないって理解してたけど、子供の頃はやっぱ心細かったりしたんだよな」
 うちは祖父母と両親と兄貴と妹の大家族だけど、先輩の家はお母さんとふたりきりの母子家庭だ。そのお母さんも三年ほど前に会社の同僚と再婚して、今は旦那さんの転勤先であるシンガポールで暮らしている。先輩は「もう母親が恋しいって年でもないだろう」って笑うけど、たったひとりの家族と離れて暮らしているんだから、やっぱり少しは寂しい気持ちもあるはずだ。
「だから昔も、俺が熱を出した時にお前が泊まり込んで看病してくれたの、すげぇ嬉しかったな」
 いきなり思い出話をされ、俺は「え?」と大きな声を上げた。
「それって、いつの話ですか?」
 先輩は俺を見て、「なんだ、覚えてないのか?」と薄く笑った。
「大学の時だよ。冬休みだったかな。お前、家族と温泉旅行に行くはずだったのに、俺が寝込んでるって知って、予定を変更してうちに来てくれたじゃないか」
「ああ。あの時のことですか」
 俺はやっと思い出して、大きく頷いた。
「でもあの時、確か先輩に怒られた気がするんですけど」
 確か旅行出発直前に、先輩から電話がかかってきたのだ。熱を出して動けないから、暇だったら飲み物とレトルトのお粥でも買ってきてくれないか、という内容だった気がする。旅行をキャンセルして大急ぎで駆けつけた俺に、先輩は「お前は馬鹿かっ。俺のことなんていいから、さっさと旅行に行け!」と不機嫌に言い放ったのだ。怒られておどおどしながらも、俺は「で、でも心配だから、一緒にいます」と答えて、先輩の看病をしたんだっけ。
「怒ったのは、お前に迷惑かけた自分が嫌だったからだ。後輩のお前に甘えるのも気が引けたしな。本当は旅行をやめて飛んで来てくれたお前を見て、泣きそうなくらい嬉しかった。……ごめんな。ありがとうって言わなきゃいけなかったのに。俺、妙なところで意地っ張りだから」
 知ってる。先輩にはそういうところがあるんだ。年上だから、先輩だから、いつもしっかりしていなきゃって、俺の前だと無理をする傾向がある。長いつき合いだけど、先輩が俺に何かを相談したり、本気の愚痴をこぼしたことは一度としてなかった。
 俺は年下だし駄目な男だから、先輩から頼りにされなくてもしょうがない。そう思い込んでいたけど、本当は寂しかった。俺のこと、もっとあてにしてくれたらいいのにって、ひそかに願っていた。
 ──だけど、今は違いますよね? 俺の前でもう無理なんかしてないですよね?
「お前にはいつも感謝してる。……ありがとな、苅谷」
 照れくさそうな顔が無性に愛おしくて、俺は先輩の熱い手を強く握り返した。
「お前がいてくれて、本当によかった」
 囁く声に込められた先輩の真摯な気持ちが、握り合った手から自然と伝わってきて、胸がじんわりと熱くなる。鈍い俺だけど、その言葉が今のこの状況だけに向けられたものじゃないとわかった。
 自分の人生にお前がいてくれてよかった。先輩はそう言ってくれているんだ。そんな先輩の姿に、俺は願わずにはいられなかった。
 いつも、どんな時も、この人のそばにいたい。困ったことがあれば真っ先に相談に乗って、辛い時は全力で支えて、楽しい時は一緒に笑い、悲しいことがあれば一緒に泣きたい。何もかも、それこそ人生そのものさえ、この人と分かち合って生きていきたい。
 俺は勇気を振り絞って、「あの」と口を開いた。
「先輩。あのですね。ええと、なんて言うか……。その、すごく自分勝手な話だから、先輩は呆れるかもしれないけど、俺ずっと考えていたんです」
 しどろもどろになりながら、必死で言葉を探した。
「こんなこと言うと困らせちゃうかもしれないけど、でも俺、本気だから、真面目な話だから、一度ちゃんと言っておきたくて。その、あの、俺……」
 緊張してなかなか本題に入れない。いつもなら「前置きはいいから、さっさと言えよ」と怒るはずの先輩も、今日はなぜだか何も言わないで俺の言葉を待ってくれている。
 俺は先輩の手を握り締めながら、スッと大きく息を吸った。
「もし先輩さえよかったら、俺と一緒に暮らしてくれませんか? ここじゃなくて、もう少し広い部屋を借りて」
 視線が絡み合う。俺の緊張はもうマックスで、心臓が大騒ぎしてうるさいったらない。
「苅谷」
 先輩が静かに俺の名前を呼んだ。
「はい」
「お隣さん同士で毎日顔を合わせて、メシだって一緒に食ってるんだから、今だって一緒に暮らしているようなものじゃないか?」
 先輩は笑いをこらえるような顔をしていた。俺は顔を赤くして、ぎこちない笑いを返した。
「そ、そうですよね! 今さらですよね。ハ、ハハ、俺ってば何言ってんだか」
 トレイを持って俺はいそいそと立ち上がった。
「これ、片づけてきます」
 一世一代の決心だったのに、さらっと流されてしまった。ショックというより俺ひとりだけで盛り上がって恥ずかしい。穴があったら逃げ込みたいほどだ。
「苅谷」
 ドアを開けた時、後ろから声が飛んできた。振り返ると、先輩はベッドの上から俺を見つめていた。
「来週の日曜、開けておけよ」
「え? なんでですか?」
 キョトンとして尋ねると、お前って奴は本当に馬鹿だなぁっていうふうに、先輩はふわっと微笑んだ。
「決まってるだろう。部屋を探しに行くんだよ。俺たちの新居」
「せ、先輩……」
 先輩は本に視線を落として、「いい部屋が見つかるといいな」と呟いた。いつも通りの先輩だったけど、耳朶だけがほんのり赤くなっている。
 胸が詰まって俺は何も言えなかった。鼻の奥がツンとして、次の瞬間、眼鏡の向こうに映る先輩の姿がにじんで見えた。




-END-




禁無断転載・複写
copyright (C) 2019 saki aida All Rights Reserved.
Report abuse