♡の内側




 一学期の中間考査が終わり、本日の正午をもって試験中の部活動禁止期間も終了した。俺もすぐ練習に出たかったが、部室のノートパソコンの中には生徒会に提出する資料の作成やら部誌サイトの更新作業やらの雑務が溜まり、部室にこもって一つずつ片づけていたらあっというまに窓の外が暗くなってしまった。

「お疲れさまです、部長」

 ドアの開く音とともに呼びかけられ、顔を上げたら夏服姿の一年生が立っていた。先月入部したばかりの新入生だけど、一年の中では実力が頭一つ抜け、なおかつなかなかに生意気な物言いをするヤツだ(以前鳳にそう話したら「一年の頃の日吉ほどじゃないよ」と返されたが)。

「どうしたんだ。もう練習は終わったんだろ」
「あ、部活の用事じゃなくて……。申し訳ないんですけど、これ副部長に渡しておいていただけますか?」

 そう言って、一年生はA4サイズの本をこちらに差し出した。それは地理の授業で使う日本国内の地図帳で、裏表紙には〈2年C組9番 鳳 長太郎〉と記名されていた。

「……なんで地図帳?」
「俺、きのう図書館で副部長に勉強を教えてもらって、そのときに間違えて自分の鞄に入れちゃってたみたいで……。直接お返ししたかったんですけど、副部長が見つからなくて」
「ああ、なるほど。わかった、渡しておくよ」
「ありがとうございます、助かります!」

 俺に向かって折り目正しい一礼をよこした一年生は、頭を上げても部屋を出ていこうとしなかった。どことなく物言いたげな表情で、地図帳を持った俺の手元を見下ろしている。

「なんだ? まだ何かあるのか」
「あ、その……。ちょっと気になったんですけど、日吉部長と鳳さんっていつから友達なんですか?」
「はぁ?」

 思わず声が低くなる。一年生は俺に凄まれても臆することなく、涼しげな顔で俺の目を見続けていた。

「なんだよ、急に」
「だって全然タイプ違うのに仲はいいから気になって……。幼稚舎から一緒だったんですか?」
「ああ、そうだけど……」
「へ~。クラスが同じだったとか?」
「まぁ……同じだった年もあったな」
「どっちから先に話しかけたんですか?」
「……んなことお前には関係ないだろ。さっさと帰れよ」

 無遠慮な一年生につられて、俺までトゲのある言い方になってしまう。彼はごく軽い調子で「はぁい」と答え、「お先に失礼します」と続けて部室を出ていった。俺は地図帳を机に置き、パソコン作業に戻る。

 胸の中が妙にざわついた。あの一年生はいったい何を知りたくてあんなことを聞いてきたんだろう。それとも彼にとってはただの世間話で、こんなふうに過剰に気にしてしまう俺のほうが変なんだろうか?

 部誌サイトの編集ページで〈保存〉のボタンをクリックし、OSをシャットダウンしてノートパソコンを閉じる。時計は下校時刻の十分前をさしていた。鳳は十五分前に部室に顔を出すと言っていたが、まだ姿を見せる気配はない。

 俺は帰る準備を整えてからソファに座り、鞄の奥に残っていた缶コーヒーを飲みながら例の地図帳を眺めた。地図帳にはところどころ書き込みが入っていたり付箋が貼られていたりして、所有者のマメさを窺わせた。

 各地方の地図のページが終わると、巻末の索引が現れる。地名が五十音順に羅列された索引ページをめくっていた俺の手は、「は行」に至ったところでピタリと静止した。無機質な紙面のうえに広がる異様な光景に目を奪われていると、ふいにガチャリとドアの開く音が鳴り、地図帳の持ち主が部屋に入ってきた。

「日吉、おつかれさまっ」

 急いで走ってきたのか、鳳は赤い顔をして、学生鞄とラケットバッグの両方を持ったまま俺の前に駆けてきた。

「ごめんね、遅くなっちゃって……。あれ、なに読んでるの?」
「お前の地図帳だ」
「えっ?」

 と、鳳は驚いた様子で目をまるくした。

「俺の? 地図帳って……」
「さっき一年が返しに来た。きのう間違えて持って帰ったとかで」
「あ……そっか、俺あのとき忘れて帰っちゃってたのか。ありがと、受け取ってくれて」

 鳳は笑顔で礼を言って俺のほうに手を伸ばし――次の瞬間、俺は立ち上がって鳳の眼前に地図帳の紙面を突きつけた。鳳は「わっ」と声を上げて一歩あとずさった。

「なっ、なに?」
「お前……なんなんだよ、これ」
「え……」

 鳳は地図帳に視線を走らせ、それから目を見開いて派手に赤面した。もともと赤かった顔が、さらに何段階も濃い赤に染まる。

「……いやっ、それは、その……」

 言葉に詰まる鳳の前で、俺はふたたび紙面に目を落とした。「は行」の索引の三列目――神奈川県の地名である“日吉”の二文字が、ペンで描き込まれた小さなハートマークに囲われているのだった。しかもご丁寧にピンク色の描線で。

「なに恥ずかしいことしてるんだよ。お前は小学生の女子か!」
「っ……で、でもそのペン、こすると消えるやつだし!」
「消してない状態で人に見られてたら意味ねーだろ!」
「えっ……それ、誰かに見られちゃったのか?」

 鳳はにわかに眉を下げ、不安そうな表情で俺の目を覗き込んできた。そんな顔をするなら最初からこんなリスキーな落書きはするんじゃねえよ、と言いたくなった気持ちを抑えながら、俺はため息をついた。

「さっきの一年に聞かれたんだよ。俺と鳳がいつから友達なのか、とか色々。これを見て勘繰ったんだろうな、多分」
「……そうだったんだ。ごめん……」
「いや、俺は構わないが……。お前のほうが気にするだろ、そういうの」

 男同士で付き合っていると周囲に知られたら、まあ愉快じゃないことも起こらなくはないだろう。幸いさっきの一年生は悪意的な雰囲気ではなかったけれど、世間には口さがない人間もいる。

 神経の細い鳳にそういう人間の言葉を聞かせたくはないと思った。しかし鳳はピンときていない様子で、「へ?」と間抜けな声を漏らした。

「俺はべつに気にしないよ。……誰にどう思われたって、日吉と一緒にいられるならそれでいい」

 それは静かで感情のこもった言葉だった。鳳は澄んだ瞳でまっすぐに俺を見つめてから、神妙に目を伏せて「でも」と続けた。

「俺はよくても、日吉に迷惑がかかったら申し訳ないからさ」
「……いや、俺だって迷惑なんて思わねーよ」
「え、ほんと?」
「俺はそんなに小さい男じゃない。……ただ、お前が嫌な思いをするのは避けたいと思っただけで」
「そんな、嫌な思いなんて……」
「……」
「……」

 無言で顔を見合わせる。鳳はやがて表情を和らげ、けろりとした様子で「なーんだ」と笑った。さっきとは打って変わって軽いノリだった。

「日吉がそう思ってくれてるなら問題ないじゃん。その書き込みもこのままでいいよな?」
「いやっ……それとこれとは別の話だろ。この落書きは今すぐ消せ」
「え~、なんでだよ?」
「こっぱずかしいからだよ! 大体この『日吉』はあくまでも地名であって、俺とは何の関係もないだろ」
「それはそうだけど……日吉の名前と同じってだけで、なんか目に入るたびにうれしくなっちゃうんだもん。消すの、もったいないなぁ」

 鳳は不本意そうにぼやきながらも、ソファの足元に座って鞄からペンケースを取り出し、ガラステーブルの上に置いた。地図帳を渡すと、目を細めて問題の落書きを見る。そのまなざしがあんまり優しくて温かかったから、俺はまるで俺自身がピンク色のハートマークの中に捕らえられたような気がした。

「地下鉄に乗るとさ、車内に路線図が貼ってあるだろ? あれのすみっこに載ってる『日吉駅』も絶対探しちゃうな、俺」
「……ほんとに恥ずかしいな、お前」

 正直すぎる鳳の語りに、顔がじわりと熱をもつ。俺はソファに座り直し、ほてりを冷ますべく缶コーヒーの残りを飲みながら鳳の手元を見下ろした。鳳は大きな手でペンケースの中からペンを取り出すと、慎重な手つきで落書きを消し始めた。

 ペンの先端についたラバーが紙の上をすべり、ピンク色の線を消していく。ほんの少しだけ惜しく感じながらその様子を見ていたら、ハートマークを消し終えた鳳が突然「もし男同士で結婚できたら、俺の名前もいつか『日吉』になってたのかな」とか言い出したので、俺はもう少しで口の中のコーヒーをテーブルの上にぶちまけてしまうところだった。



[24.02.19]
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