第一章 「卵の比喩」について

 私は中学生の頃からブログを書いてきたが、あるときまではブログで他人の創作物について詳細に語るなどということは全くしなかった。どうして私が語りたくなかったかというと、「ネット上の批評=怖い」という印象が先行していたからだった。

 特に個人ブログでは「この作品はここが本当にダメだ、インクと紙の無駄遣いだ、時間返せ」という記事、それに感情的に噛み付くコメント、それに対して羽虫を蹴散らすかのごとくコメントを連ねていく管理者……という、戦闘的な光景を実際に見かけていた。さらに昨今では、作品の評価をめぐる闘いに作者自身が直截的に参加するなどということもあるらしい。そのようないざこざには絶対に関わりたくないというのが正直なところだった。

 しかし、私のそういう事なかれ主義に対してこう思う人もあるだろう。「そういう批判は感情的で雑だから人の顰蹙を買うわけで、作品に愛情をもってていねいな批判をすれば受け入れられるはずだ」と。

 本当にそうなのだろうか? マンガ批評家の紙屋高雪はかつて次のように語った。

だが、つまらないものはつまらない、というサイトもやっぱり必要だし、何よりも書評をする側の欲求として、そういうもの——ひとの批判を書いてみたいじゃないか。

 しかし、自分の書いたものが何がしかの影響を与えるのではないかと思うと、ブレーキが働くのも事実。そこで向かうべき方向としては、より「ていねいな批判」を心がけるということになる。「愛のある批判」といってもいいが、多くの人が納得してもらえる批判ということだ。

 しかし、そんな難しいものが簡単にできるわけがない。

 きれいごとに近い。

 とくに、批判された作者本人は、いくらていねいに批判をしてみたところで、いじける奴はやっぱりいじけてしまうのである。ていねいな批判はしばしば本質的な批判になってしまったりするので、乱暴な批判以上に、逆に徹底的に落ち込ませることになったりする。

「批判は才能をつぶすか」

 紙屋は「ていねいな批判」や「多くの人が納得してもらえる批判」が具体的にどのような条件を備えるべきなのか、それがなぜ難しいのかということはこの文章では語らない。そも後者などは批判そのものの性質というよりそれがもたらす結果をいうものでしかないから、どう実例を示すことができるのか検討もつかない。

 私がここで注目すべきだと思う紙屋の洞察は、「いじける奴はやっぱりいじけてしまう」ということだ。創作者にとって、自分の作品に対する批判は、その語り口に関わらずどこか根本的に耐え難いものがあるのではないか。こういったことを紙屋は経験的にか直観的にか感じ取ったわけである。

 私はこの耐え難さをなんとなく知っているような気がする。そもそも、私がずっと誰かの作品を批判することを恐れていたのは、作家側が批判にどれほど苦しめられるだろうかと想像したからだった。私はかつて小説を書いていたとき、もしその小説を批判されようものならどんなに苦痛を感じるだろう、とよく思っていた。

 また、紙屋は先に引用した記事の中で「創作者は自分の作品への評価に異常と思えるほどの関心を払っている」とも断言する。この言葉は、一度でも何か作品を書いて公開したことがあるとか、ブログやホームページを作ってコメント欄を日々チェックした経験があるとか、そういう人にとっては納得しやすいものであるだろう。しかし、これも一体どうしてそうなのかわからないところがある。作者が、これほどまでに自身の作品に密着しているのはどういうわけなのか。

親と卵の比喩

 そのことを考える際、私にヒントを与えてくれたのが、香魚子「もう卵は殺さない」という短編マンガである。この作品は、物語の作者がその物語に対して持つ思い入れを、親が子に対してもつ感情として捉えている。

 この物語は、現実世界と「主人公斡旋所」という二つの世界で話が進む。現実世界では、「江藤という人が子供の頃にオリジナルのマンガを描いて投稿したが、選外だった」という前提がある。成長した江藤は、その過去作のことをすっかり忘れ去っていたが、あるとき作品をもう一度描き直して公開してみたいと思うようになる。彼女がそう思うようになったきっかけは、彼女のもとを訪れた商業マンガ家の次のような言葉だった。

「私 いつも

こういうプロット状態の作品は

卵だと思ってるんです

(中略) もちろん 自分の力不足で卵を孵らせることができない時もあるんですが

それはそれは申し訳ないっていうか……

卵のなかで

きっと何も知らずに眠ってるんだろうなって

ごめんねって思うんです

まるで 自分が親になったような…」

(171~172頁)

 作者を親に、物語の原案を卵に喩える比喩を、この物語は作劇上の工夫により読者に受け入れさせる。その工夫というのは、江藤が長らく忘れ去っていた自作マンガの主人公・笹木綾子が「主人公斡旋所」に待機させられるという事態の描写である。

 江藤のかつて描いたマンガは本当に拙く、商品価値がなかった。ゆえにその作品は世の中に広まることはなく、ほとんど誰にも読まれていない。この状況を、物語は次のように表現する。笹木綾子は「主人公斡旋所」に何十年も待機させられ、外の世界に出ることができない閉塞感を持つようになるのである。誰にも選ばれず、生まれ落ちたことを嘆き始める彼女の姿は、割れやすく、誰かに温められなければ孵化できない卵と同じく無力で憐れだ。この描写が、彼女を外の世界に出してあげたい、卵を温めて孵してあげたいという慈しみの情を読者の心に呼び覚ます。

 この作品の楽しみ方の一つは、この慈しみの情をもって江藤に感情移入し、彼女の「過去のマンガをちゃんと描きたい」という決断を支持することだ。その体験のうちに、読者は先の「卵の比喩」を自然と受け入れることになる。

卵の比喩から「特殊な思い入れ」へ

 「もう卵は殺さない」が利用していた「卵の比喩」は、作者と作品の関係について何を教えてくれるのだろうか。おそらく、究極的には「物語は『その作者にとっては』唯一無二の価値を与えられている」、「どんな批評も論理も市場評価も、その価値を剥奪し得ない」ということである。

 ただしこれは通俗的な価値相対主義と同じではない。作者にとっては価値があるんだから無価値な作品など存在しない、だから作品の格付けのようなことをやめるべきだといった主張をこの作品が行うわけではないし、私が代わりに主張しようとも思わない。ここに「みんなちがってみんないい」という論理はない。

 実際、娯楽としての目的をどの程度達成できたかによって、物語には価値づけが日々行われている。そのような現実は「もう卵は殺さない」という作品の形式にも内容にも織り込み済みである。実際、この作品自体も、少女マンガの表現のルールや流通形態を前提としつつ、れっきとした娯楽商品として作られた側面を持っているのだから。主人公斡旋所に召喚された主人公の一人は、笹木綾子にこう諭していた。

「あたし達の使命は同じで一つだけ

自分の物語で 外の人たちを楽しませることなんだよ?」

(149頁)

ここで言われている「外の人たち」とは、娯楽作品を買って楽しむ読者のことである。売られている物語の目的の一つが、「読者を楽しませること」であることを否定できる人はいないだろう。

 「卵の比喩」は作品の市場取引を否定するために現れたものではない。むしろ、その取引の成立条件を説明するのである。そもそも作家が少しでも自分の物語に何の思い入れもなければ、それは完結も叶わず、他人の目に触れることもなかっただろう。作品が生まれなければ当然、批評や市場も成立しない。この「原初的なえこひいき」があるから、様々な作品が出揃い、公平であるとか公平でないということを問題にできるような場が成立するわけである。

 作品というものが初めて世に出てくることができるのは、そうした「特殊な思い入れ」があったからである。自分が産んだものが存在するということへの肯定(積極的な否定とも積極的な肯定とも違う、フラットな肯定)が。もし、多くの人から面白いとお墨付きを得られた作品しか市場に出てこないとしたら、どうして誰もがくだらないと考えるような物語がそこに出回ることがあるのだろうか。どんな事情があったのか知らないが、ともかく誰かがそれを仕上げようと思ったからだ。駄作だ名作だとマニアたちが偉そうに分別することができるのは、それらの作品が実際の制作者以外の誰のお墨付きもないにもかかわらず、世に出てきてしまっているからだ。

 作品の評価は、この特殊な思い入れとは別の次元に生じてくる。もっとも作品が公開されて、親と子以外の者が現れてきた場合には(複数の作品が並ぶ場面においては)、その思い入れは「えこひいき」としての側面をたしかに持つだろう。とはいえ、それは作品を積極的に尊び大事にする行動に直結するとは限らない。世の作者の多くは、自分の子が世界で一番優れていることを証明しようと裏工作を仕掛けたりはしない。ただ他人から、作品が優れていないと言われると不快なだけである。

 つまり、その思い入れは、否定的に言及されたときにしかはっきりと確認できない。たとえば親あるいは子のことを、普段とりわけ尊敬も肯定もしていない人でも、赤の他人からそれを単純に侮辱するような発言があれば、その発言が的を射ているとしても、多少の苛立たしさを覚えるようなものだ。「良い点だろうと悪い点だろうと、一体あなたは作品のことをそんなによくわかっているのか?」と思うのだ。

 実際「もう卵は殺さない」を読み直してみると、笹木綾子の物語に対する酷評の言葉の多さに驚く。この作品は、江藤がかつて書いた物語に対する否定的な評価を繰り返すことで、彼女自身や、彼女の視点で物語を読んでいく読者に、「特殊な思い入れ」を確認させようとしているかのようである。

 世に出た作品のその後について最も激しく傷つき、最も快感を覚えることができるのは作者に違いない。作品の産みの苦しみや思い入れと契約しているかどうかが、作家とそれ以外の人間を区別している。作品がこうした思い入れと契約することでしか生まれることができないということ、そして、その契約を任意に放棄することはできないということ、それが、作品が完成を見て世に出たとき(他人の評価に先んじて)喜びを感じることのできる理由であり、作品をめぐる言説の獰猛さや、批判の耐え難さの理由なのだろう。

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