第八章 ファンカルチャーと生活の創作術

 ポップカルチャーの世界の構成員は、当然のこと作者や作者の制作に協力する者たちだけではない。作品を買い求め、愛好するファンたちの存在を忘れてはならない。この章では、ファンたちがいったいどのような行動原理に基づいて作品を享受しているのかに注目する。その享受は良くも悪くも多様な側面を持つ試みであり、それ自体一つの「ファンカルチャー」と呼ぶべきものだということがわかる。

ヒューマニストの誤謬

 かつて、批評家のイーグルトンは「ヒューマニストの誤謬」について語った。それは「文学テクストを、生身の男や女が私たちに語りかけてくる生きた声を書き写したようなものとみる、ナイーブな観点」(1) である。彼はここでは文学作品の読者について語っていたのだが、このような鑑賞の態度はポップカルチャーの受容の際にもしばしば見られる。特に、小説やマンガやゲームなどの作者の顔が直接見えないジャンルではなく、音楽や演劇や話芸といった、アーティストがパフォーマンスをするジャンルについてよく観察される。仮にここでは前者を物質的作品、後者を再現的作品と呼んで区別しよう。

 物質的作品の受容においては、ヒューマニストの誤謬はファンたちの間でも冷ややかに受け止められている。例えば、キャラクターや主人公のモノローグを通じて、作者が私たちに語りかけているなどというのはほとんど不快で興の醒める想像である。だからこそ、ご都合主義な物語に対して向けられる「作者の願望が出ている」という言葉が、作品としての失敗を告げる侮蔑として通用するのだ。作品は生きた人々の対話でも独話でもなく、生きた人々から切り離されているということは、いまや物質的作品のファンたちにとって馴染み深い考えだ。もちろん、中にはフィクションのキャラクターを本当に生きている人物のように愛好するファンや、作者の発言やパフォーマンスを、アイドルのそれを見るように楽しむファンも存在するのだが、それについては後ほど見ることにしよう。

 他方、再現的作品のファンの間では「ヒューマニストの誤謬」は健在どころか、ますます力を増しているように見える。再現的作品の受容においては、アーティストの作品を楽しむことと、実際に生きている人間同士としてアーティストと交流しようとすることの区別が曖昧である。このため、作品それ自体を批評する言葉が、アーティストとのコミュニケーションに水を差すものとして圧殺されることがある。

 例えばその具体的な指摘は、英国のカルチャー誌『i-D』に掲載された「ファンカルチャーは批評のあり方をどう変えたか?」という記事の中でなされている。その記事の筆者は、アーティストの作品に批判的な言及をした人物やメディアがアーティストのファンから攻撃されるという事例をいくつか取り上げ、「率直な批評が難しくなっている」と述べている。

 そのような状況の背景にあるものこそ、ファンたちの「ヒューマニストの誤謬」である。この記事の筆者によれば、熱狂的なファンたちは、アーティストの人生の「心に響く物語」と作品自体とを密接に関連させている。

「Pitchfork」に掲載されたリゾのアルバムレビューは、ボディポジティブ、メンタルヘルスの回復など、アルバムを取り巻く物語に敏感に反応している。ただ物語に言及しているわけではなく、むしろ支持している。ただ、収録曲が少々均質で、ベースラインやビート、ハーモニーには、リゾが実生活で実現してきた勝利の数々に似た迫力や喜びが欠けている、という指摘もあった。

それがリゾのファンに、リゾの物語への攻撃ととられた。彼らは物語のなかにいないライターによる、リゾの名誉を毀損しようとする意図を感じ取ったのだ。「Pitchfork」によせられた批判では、このレビューがアルバムを「理解」していないとする意見がみられた。作品自体の質と、作品にまつわる物語やパーソナリティが、切り離されづらくなっているのだ。

「ファンカルチャーは批評のあり方をどう変えたか?」 強調田原

 これが、「文学テクストを、生身の男や女が私たちに語りかけてくる生きた声を書き写したようなものとみる、ナイーブな観点」でなくて何であろう。もはや再現的作品の難点を指摘することは即ちアーティストの人格への攻撃であり、逆にアーティストの人生物語に共感を寄せなければ作品の真価は測れない。ヒューマニストの誤謬が行き着くのは、批評の不在と「アーティストの圧倒的なすばらしさを常に称える」予定調和の礼賛であるようだ。

拝金主義的アイデンティティ戦略

 だが、再現的作品のファンたちも、自分の好むアーティストが一種の芸として作品を作っていることを認めないわけではない。ファンたちとアーティストとの関係を友人関係と区別するのは、両者の間の少なくない金銭の介在である。実際、「私は私の好きなアーティストやアイドルに金を出すことで、その人を支えている」と自負する人々がいる。その行為を、彼ら彼女らは「推しに課金する」「貢ぐ」と呼び習わしている。

 しかし、このような自負を大真面目に口に出せるとするならば、その傲慢さには呆れかえるばかりだ。誰かを支えるというのはそんなに甘いものだろうか?

 ではあなたは日々の労働をし、その労働により取引を行う他人から対価を得て、生きているという自覚をもっているのだろうか。私の生は私の労働の成果に価値を見出してくれた人の支援によっているなどという、殊勝な心意気で働いている人がどれほどいるのだろう。アーティストたちが本当にそう信じて働いていると、どうしてあなたが言い得るだろう。

 あなたは通勤列車や飛行機に乗るためにも、あるいは近所のガソリンスタンドで給油するためにも多くの金を出している。あなたはその度、鉄道各社・航空各社で働く人やガソリンスタンドの関係者たちを支えているという自負を持つのだろうか。むしろなぜ持たないのだろうか? 「そんなもの」に金出してる人なんて珍しくもないし、別にそれで誰かから尊敬されたりしないから? それらの取引はあなたのアイデンティティ確立に寄与しないから?

 市場において、人が金を差し出すのは生身の生活者に対してではない。個人だろうと法人だろうと、ある事業の主に対してでしかない。あなたが関わっているのはある人の商売人としての側面であってその人の生活全体ではない。それ以上のことを考えるのは思い上がりというものではないか。ある生活者がいて、その全人格を支えるというのは、単に銀行口座に入金してやるほど甘いものではない。絶対にそんな甘いものではない。何億積もうと帳消しにはできない労苦がこの世にはあるのだから。

 例えば、精神を病んだ人、死を宣告された人、自分に全く見返りをくれないどころか排泄物を投げつけてくるようになった人に、生活の殆どを費やして寄り添い続けることができる者は非常に稀である。そういった事情のもとでは、その被介護者と交際していた友人、恋人、配偶者までもが、しばしば彼・彼女のもとを去っていく。それはその他人たちが特別に薄情なわけではない。過酷なケア労働を各家庭に押し込め、ごく限られた人々に任せきりにし、さもそんな労働が存在しないかのように澄ましている世の中では当然の帰結なのである。私たちはこれらの労苦をあまりに軽く見積もっているのだ。

 商品に金を出しているのにすぎないのに、「誰かを(これほどまでに)支えられる自分」などという幻想に固執して、ある人の商売人としての側面をその全体とみなすのは愚かなことだ。自分の愛する創作者の活動のためという名目で投じられる資金とは、「自分は自分の大事にしたい生活があって、それをそのまま提供することはできないし、あなたが日常生活で持っている自分にとって不快な面と真剣に向き合うのも御免こうむるけど、一時いい気分にさせてくれてありがとう。せめてこれだけは」という気持ちで差し出されるお情けでしかない。ほとんどの人が慣れているこのケチ臭い保身と、他人の生活を支える絶対的な困難を忘れたところに、先の拝金主義的アイデンティティ戦略がある。

「責任を取らない愛」

 先に見たように、「推し」という概念はファンカルチャーの拝金主義的傾向を深く刻印している。その傾向とは、金銭の介在によって関係する相手との間に一定の距離を確保することである。これを新しい愛の形とみることもできるが、その内実は他人への無責任なのではないだろうか。

 「推し」という言葉は、恋愛的なニュアンスを含まない好意や、そのような好意を抱いている相手自体を指す言葉として使われているようだ。アイドルを推すことと、アイドルに恋することの違いを簡潔に述べた文章として、電通のWebメディア記事の一部を引用しよう。

かつてのアイドルファンはアイドルに「恋」していて、ファンレターを書いたり、同じ番組を何度も見たりと「恋人」に近い応援が主流でした。

令和女子の「推し」は、かつての「恋人」とは少し違うように思います。「恋人」ではなく、「パートナー」なのです。「推し」に恋い焦がれるというよりは、成長を見守る、キラキラしているところだけでなく少し泥くさい努力の姿も見るなど、「パートナー」に近い存在となっています。また、「推し」自身もファンに対して常にポジティブで「パートナー」のような存在でいてくれます。互いに応援し、味方でいる存在が「推し」と令和女子の関係性なのです。 (2)

 推しとの関係が恋愛と異なる点は、自分の気持ちを相手に届けようしたり、相手の生活に干渉することはもはや重要ではないということらしい。推しに対してファンが関与できるのは、作品やパフォーマンスの対価である金銭、もしくはよくて固有名の認知程度のものである。それ以上の干渉は迷惑行為とされ、ファンの間でも忌避される。「推す」とは遠くから見守るような愛情であり、生活への不干渉を前提としている。相手を束縛する・しないが永遠に問題とされる恋愛感情とは、この点大きく異なっている。

 この不干渉主義は賢明さともとれるが、次のような実感で表されることもある。

「推し」という言葉は「責任を取らない愛」のことだと解釈してる(3)

責任をとらないということは、つまり相手の全人格に対する貢献では決してないということだ。より積極的に言えば、この無責任は「ファンカルチャーは…」の記事で示唆されていたファンたちの攻撃性にも関わってくる。

 彼ら彼女らはアーティストを心の底から愛している。ただし愛しすぎることはなく、その愛の大きさを主に金銭に換えて表現している。ところが、顔も知らない他人がその愛するものを貶めたと見なせば、彼ら彼女らは徹底的にその存在に攻撃を仕掛け、ときには団結して社会的に葬り去ろうと努める。その攻撃は、(「ファンカルチャーは…」の記事執筆者が正しく指摘したように)たいていインターネットを通して匿名で行われ、何の社会的責めも与えられない。ファンたちは、名を名乗る批評家と違って、自らの言動が引き起こした事態に決して責任を取らないのだ。批評家の率直な批評からまともな対話が立ち上がらなかったのは、まさにファンたちが匿名であって、批評家への反論に誰も責任を持とうとしないことに一因がある。

 また、ファンたちの「推す」行動を、アーティストに対する不干渉と見なすことができるのかは厳密には疑わしい。実際、その負の影響力を指摘する声はファンの側からも上がっていた。例えば二〇一八年、「ジャニオタエゴイズム」という概念が密かに生み出された。ジャニオタとは、「株式会社ジャニーズ事務所」所属のアイドルを好むファンを意味する言葉だが、そこに「エゴイズム」という批判的ニュアンスを含む言葉が連結されている。

 この言葉の考案者であるスズキアイコは、KAT-TUNというアイドルグループが終わっていった過程を振り返り、その終わりは彼らを愛していたファンたちが導いたものだと結論する。

 彼女が前提するのは、ある人間たちがアイドルグループとしてパッケージ化されていることだ。ファンたちはそのパッケージを永遠と考え、そのメンバー一人ひとりにもパッケージの構成要素であり続けることを期待する。その期待こそが、アイドル一人ひとりの生活の重荷になっていたと、スズキは厳しい言葉で指摘する。

ぜんぶぜんぶ、私たちのせいじゃないか。

熱愛が悪いか。ジャニーズは恋愛禁止じゃないのに、彼女がいると叩かれるのか。ファンが減るのか。だからアイドルを辛く思うのか。

ストレスが大きいか。ヤラカシが生活を逼迫させるか。普通の生活が送りたいか。匿名の袋叩きにあうのか。だからアイドルを諦めてしまうのか。

グループの仲が悪いか。強制的に形作られる関係性のなかで息ができないか。一度口論しただけのことが取り沙汰され気まずいか。もう部活のようにやっていた頃に戻れないことが寂しいか。だから、アイドルでいられないのか。

だから、アイドルをやめてしまうのか。

それは、ファンが悪いじゃないか。

「ジャニオタエゴイズム」

 「推し」という言葉を発明し、時代遅れの「恋愛」が連想させるハラスメント性を洗い流したつもりになっても無駄である。アイドルたちは今も昔も、生きる姿の一部を作品として顧客に差し出す人たちだ。そしてスズキが「そういうコンテンツじゃん」と正しく指摘するように、ある人の商売人としての側面と、その人の生活全体とを巧みな情報操作で曖昧にすることで、「自分はその人の全人格と関わっている」という幻想を顧客に抱かせるビジネスモデルは何も変わっていない。そして、その幻想自体がハラスメントの根源である。

 例えばアイドルの恋愛報道、結婚報道が未だに取り沙汰されるのは、それがファンたちの幻想を少なからず毀損するからだ。私生活を気前よく公開するアイドルにも決して知り得ない生活があるということを、ファンたちに思い出させるからだ。アイドルのパフォーマンスについて、それが演出されたものだ、商品だと思いながら楽しむなど、ファンたちにとってはやはり興が醒めることである。ファンたちは、アイドルのすべてを知っているとまさか信じているわけではないが、だからといって目の前でそれを反証されて良い気分はしないのである。

 ファンたちが推しを愛することの暴力というのは、彼ら彼女らが札束で隠しおおせた気になっている「相手と全人格で関わっている」という幻想それ自体のことなのである。その涼しい顔をした権力行使が、アイドルたちの今後の人生の選択すら捻じ曲げかねないとスズキは危惧する。

彼が本当にやりたいこと、したい仕事、あるいは働きたくないという心の叫びを、わたしたちファンの「好きです」が封じているとしたら? ファンが「好きです」と言う限り、アイドルでいてくれるとしても、ファンがその「好きです」に責任を持つのなんてその瞬間だけで、彼の人生には決して責任を持たない。

あるいは、ファンが好きです、ということで続けられているアイドルがいたとして、でもそのアイドルが過労による病気を抱えていたとしたら? もう止まらなければならないのに、ファンの「好きです」の力で走り続けられたら、わたし(たち)は責任を持てるのだろうか?

もちろん、アイドルは一人の人間であり、それぞれの責任において選択をし得る。だからこそ、錦戸亮はもうジャニーズでも関ジャニ∞でもないし、最近ではジャニーズアイドルも病気を理由に休むことができるようになってきた*

でも、その選択をするとき抵抗力となるのがファンの力だとわたしは思う。それこそがファンの「好きです」の力であり、それがアイドルを傷つけないか、わたしにはそれが怖くてたまらないのだ。

(同)

 ファンはアイドルの人間としての生活にも、アイドル自身の人生にも責任を負っていない。だからといって、ファンの行動が軽やかな消費に終始するわけではない。実のところ不干渉など不可能なのだ。ファンが存在するという事実がアイドルに対して提示されている限り、それはアイドルの人生に影響を与えるからである。アイドルをやっている人がどのように生活し、今後どのように生きようと、いま彼や彼女に入れ込んでいるファンたちにとってはどうでもいいのだが、どうでもいいから踏み込まないし何も望まない、という他に、どうでもいいから意識せずに踏みにじっているということもあるのだ。

ファンカルチャーの極限1 都市のエンパワメント

 なるほど、ファンは自分の推し(の生活)に対してなんら責任を有していない。しかし、だからといって彼ら彼女たちが何に対しても距離を取り、誰の生活にも責任を取ろうとしない、とまでは言うことができない。むしろ、ファンたちは自らの推しと取り結んだ関係ならぬ関係を契機に、自分自身と、自分自身に関わる身近な他人たちの生活に責任を負おうとすることがある。

 具体的には、同じ領域で同じようなものを愛好することで出会った同好の士たちは、単なる趣味上の協力関係を超えて、互いの世話をし合うようになることがある。これは同人誌やファンコミュニティによって結び付けられた人々が実際に体験することでもあるし、フィクションの中にもしばしば描かれてきた。

 沙嶋カタナ『君がどこでも恋は恋』は、アニメ鑑賞で意気投合した職場の女性三人を中心とする物語だ。物語開始時点では、たんに同じ職場のオタク趣味仲間と見えた三人の関係は、主人公の波川充己がある作品のキャラクターに深く心酔したことをきっかけに変化していく。充己の友人、篤乃と円香はまず、「(推しの美しさに見合うように)きれいになりたい」という充己の欲求を肯定する。続いて、彼女のダイエットを応援し、服や化粧品を一緒に見繕い、そうした身繕いの努力と努力の成果を認め合う。また、心ゆくまで推しのグッズに囲まれることができるように、充己の一人暮らしを提案し手助けもする。もともと彼女たちを結びつけたのはアニメの視聴であるが、彼女たちはもはやそれとは直接かかわりのない領域でも連帯し始めている。この相互承認の中で、充己は次のように一人自室で喜びにむせび泣く。

かわいい いいねって…

あんなに たくさん言ってもらったの

初めて…

う 嬉しいものなんだなぁ…

いやお世辞もあるだろうし…

うぬぼれるわけじゃないけど…!!!

(69頁)

 また、彼女は推しキャラへの投資を強化するためにより多くの収入を求めるようになり、職場の先輩でもある篤乃に誘われて「大きめの案件」に取り組むことになる。そのうちに彼女は残業手当を獲得するにとどまらず、自分の仕事を肯定的に見ることができるようになる。

「今までと

量も内容の難しさも段違いだけど…

なんかすごく充実してるんだ——

私 結構

この仕事好きだったんだなーって…」

(110頁)

(最初はお金目当てだったけど…

仕事で頼られるって嬉しいなぁ…

…楽しい‼)

(114頁)

 ここには、日々の労働に対する無関心や軽蔑はもはやない。充己が推しへの愛情表現を徹底的に追求していくことは、彼女自身を「責任を取らない愛」に溺れさせるどころか、結果的に彼女が職業人として、また自分自身の生活の維持者として、日常的に関わる他人たちに対して有している責任を強く意識させたのである。そして、その責任を担っていることについての誇りや喜びも。

 ただし、この充己の自己変革は、「推し」と出会えさえすれば自動的にもたらされたものではない。作者はこれを「サクセスストーリーとして企画した」と単行本あとがきで打ち明けている(186頁)が、どんなサクセスストーリーにも、その成功をもたらす隠れた要因が用意されている。『君がどこでも恋は恋』におけるその要因は、「大都市の」「そこそこ大きな会社勤務」という充己の社会的・地理的位置にある。つまり、充己のような自己変革は、都会のそこそこ大きな企業に勤めているという条件が揃わなければ成立しなかっただろう。

(試読はここまでです。商品ページに戻る

(1)『文学とは何か 上』、284頁。 (2) 辰野アンナ「令和女子の「推し」を因数分解してみた。~令和女子をファンにする五つのポイントとは~」より引用。 (3) Masahiro Oba(@hironica)午前0:49 2020年1月17日 https://twitter.com/hironica/status/1217836392996147201