アクションスターから大きく変化した

【1983年2月】

最近、少しずつだけれど、いい顔をした男が増えてきた。なにかを突き抜けたようにやさしくてそのくせ強い光を放つ目を持った男が。彼、松田優作もそのひとり。髪を切ったから、髭を剃ったからじやなく、彼のなかになにか大きな変化が起こったようなのだ。NHK『新·事件』での演技がそんないまの彼を象徴していた。優作さん、すてきになったね。いったいなにがあなたを変えたの?

いまのぼくの99パーセントは、彼女から得たものですね。

なんのてらいもなく、彼はさらりとそう言った。一瞬、耳を疑った。彼の口からそんな言葉が出てくるとは思ってもいなかった。が、黒いサングラスをはずした彼の目は、笑っていなかった。なにか満ち足りたものを感じさせる、やさしい光であふれていた。

そして、そのあとさらにこう続けた。

いまのぼくは、まっすぐに彼女を見て、率直な気持ちで彼女と話しているから自分が見えるんです。彼女はぼくの全部なんです。

一枚のタブロー(油絵)が、一冊の本がその人のそれまでの生き方を、大きく変えてしまうことがある。彼、松田優作にとてのそれは、一二歲年下の彼女と出会ったことだった。

なんてすてきな才能を持った女優なんだろう。

初対面の彼に、強烈な印象を残した彼女は、それまでの彼にとって未知の世界を持っていた。まるでなにかに吸い寄せられるかのようにぐんぐん彼女に魅かれていった。そんな彼の思いに彼女もこたえた。彼の熱い思いにはこたえたけれど二一歲という若さにもかかわらず、自分の世界を持った彼女は、彼の望むとおりにはならない。

彼女をつかまえたと思った瞬間、彼女は彼という枠のなかからはみ出していく。いまつかまえたと思った彼女とは別の彼女がそこにいる。彼はそんな彼女をつかまえようと必死で追いかける。そんなことが何回もくり返された。

彼女は会うたびに、きのうとはちがった顔をのぞかせた。無邪気な少女の笑顔を見せたかと思えば、女優としての彼女のすごみを見せつけた。何歳も年上の、そう、まるで母親のような大らかであたたかな一面をのぞかせた。そうかと思えば、キュートで甘ったれな、それでいて割りきりの早い現代娘の一面をのぞかせる。彼と意見のくいちがいがあれば、納得のいくまで、意見の交換を求めた。無理に押さえつけようとすれば、牙をむき出しにしてくってかかってきた。

凸凹道でボール遊びをしているようなものだったのかもしれない。彼女の反射角度はさっぱりつかめない。

凸凹道で弾んで転がる彼女というボールが、どこに飛んでいくのか、彼にはさっぱりわからない。

そんな彼女を追いかけつかまえていくうちに、なにかがひとつずつ彼のなかに残っていく。

いっとう最初は“いい女、おれのものにしたい”そんな気持ちが、彼になかったとは言いきれない。だけど、まったく未知のそのボールを追いかけ続け、ハッと気がついたときには、彼の心は彼女で占領されていた。

自分には、一一年間暮らした妻と五歲になる娘がいるんだと、いくら言い聞かせても、それは一時のブレーキの役割しか果たさない。

燃え上がった恋の炎は、消しても消してもまた燃え上がる。彼にとって彼女は、それまで出会っただれともちがっていた。

彼女は自分の場を持ち、自分の呼吸のリズムを知っていたのである。

かといって、その時点で生活のパートナーである妻にはそれがないか、といえばそれはうそになる。妻には妻のリズムがあった。彼とのキャッチボールの呼吸はぴったり合い、ボールが転がり落ちることはない。が、初めは目にはとまらないほどの小さなひび割れが少しずつ広がっていった。彼自身が引き起こしたこととはいえ、一一年間の結婚生活に終止符を打つことになるまでに、どれだけの葛藤があったことだろう。

身勝手な男のエゴ、といわれてもそのとき彼はもう引き返せなかった。去年の暮れ、離婚した。

そのときのことは、言葉では說明できないんですけどね……。おかしくなりましたね。自分がバラバラになりましたね。男とはこうすべきものだって従来の常識の枠で考えている自分と、本能的に未知のものへと魅かれていく……そのバランスがもう……。

そんなふたりがパートナーとして生活を始めてから一年近くになる。

いま、彼の目は、彼にとっての最愛の女(ひと)、熊谷美由紀という窓(フイルター)を通して、外に開かれ、同時に自分自身を見ている。

結果的には、彼女との出会いが、男の神話の部分で生きてきた彼の殻を破り、彼を解放させることにつながったようだ。

“ジーパン刑事”と“拳銃”に象徴される従来の男らしさ、男たちの観念と幻想で構築したニヒルでハードなアクションスターの仮面を彼は、はぎ捨てた。

演技することっていったら、ぼくにはもうピストルを持って走ること以外できないんじゃないかって……·セリフのひとつも満足に言えない。

と真剣に思い悩んだ時期があったという彼の言葉が信じられない。演技者としてのいまの彼には、水に解き放たれた魚のようなみずみずしい美しさすら感じられる。NHKのドラマ人間模様『新·事件』での、小児科医の役は、観念的な男の世界から解放されたいまの彼だからこその演技だった。透きとおった無垢(ピュア)な人間性を感じさせた役柄と、彼自身とが、どこかでオーバーラップしているように見えた。

そんな彼の変化を敏感に感じとり、その変貌ぶりにうれしい驚きの声をあげる人がいる。

そのもう一方には“ハードで男っぽい松田優作でいてくれたほうがよかったのに”と不満と困惑の目で彼を見る人もいる。

もう、もとの場所にはもどれない。

そう彼は言う。

ぼくはいままで、ずっと自分自身に対して不満があったんだ。その不満がどこかへはじけ飛んでいったみたいな感じですね。

いい部分も悪い部分も含めて誇張のない目で自分自身を見つめる彼の変化は、その芝居のなかだけではない。

最近、親しい周囲の人たちの目を見張らせていることがある。

これまで、無口で初対面の人に会うことを拒んできた彼が、なんと自ら電話でアポイントを取りつけて人に会いにいくようになったのだという。以前の彼を知る人にとっては大、大変化。

こだわりや、ツッパリなんてさらさらない。

もう伝說的にすらなりかけていた、ムッツリ、ダンマリ、ブアイソという松田優作の汚名も返上した。

なんか自分が話すことに、たてまえもかまえもなくなっちゃったんですね。

そしていま、彼は通りすぎてきた日々を、ゆがめることなくクールにふり返った。

この一年間、少しずつ考えて、ようやくわかってきたんですね、自分の気持ちが。

自分自身が引き起こしたこととはいえ、離婚の傷跡は消えたわけではないだろう。

別れた妻へ、置き去りにした娘へ、心のうずきを感じながらも、彼女との生活を選んだことを後悔はしていない。が、あともどりはもうできない、と彼女と暮らしながらも、いつも心のどこかに住みついている別れた妻と娘への、断ちきりがたい思い。彼女へのすまなさ。

「美由紀への気持ちとこれは別のものなんだから心配しないで」と言いつつも、そんな自分の思いを果たして二一歲の彼女が理解してくれるだろうか……とも考える。

いくつもの思いが複雑に重なり合った彼の心は一本の糸では結べない。

そんな立場のちがった三人が、この一年間で少しずつ心を開き合ってきた。

それぞれがお互いの心を思いやる余裕のようなものも生まれてきた。

彼の五枚目のアルバム『インテリア』で、娘の紗綾(さや)ちゃんが三歲のときに描いた絵をジャケットに使った。表にはパパの絵、裏にはママの絵を。それは三人のあいだのなにかが氷解してきていることを意味する、ひとつの表れだろう。彼の意図した音楽と、紗綾ちゃんのその絵のイメージが、ぴったり一致したからだ、と彼は言う。紗綾ちゃんの手元にあったその絵を、借りに走ったのは彼だった。

あのジャケットは“娘とおれとのひとつのメモリアルだ、それでいい”って自分のなかで納得しようとしている。それを決めないでいると、見るたびに涙がこぼれてきたりするからね。まずいなあと思ってそう決めた。いまは、別れて暮らしてもあの子は、おれの娘なんだってはっきり思えるからね。ぼくは、自分が片親だったから、娘にはそんなふうにはさせないって思い込んでいたんです。でもそれは結局、自分に欠けていたものを、こどもができたことによって満足させようという自分のエゴだったということに、逆に気づかされたんですね。

彼がそれを見たのは、そんなときだったのだろうか。久しぶりに訪れたかつての家に、大きな真新しいマホガニ—の机が置かれていた。

机の上にはシナリオの本や原稿用紙が並んでいた。

彼の変化に呼応するかのように、かつての 妻(パートナー)もまた変わっていた。

自分の人生に、自らの力でレールを敷こうとする彼女のスタンディングポイントがマホガ二ーの机だったのである。一一年間、家庭の主婦であり続けた彼女が、通信講座でシナリオの勉強を始めていた。

そして、課題で提出した彼女のシナリオ『さいなら、お父ちゃん』が、なんと雑誌に掲載されたのである。

すごいなあ、イヤー、すごい!

一歩を踏み出した彼女に、素直に声援を送る。そして、こんなこと言っちゃなんだけど、と前置きして、

おれと別れて、むしろそのほうがよかったんじゃないかな……。

その言葉はいや味なく響いた。

私生活をふり返るのと同じように淡々とした口調で仕事上での変化を語る。それは、私生活でのそれと同時期に起こっていた。

この何年間でいちばん印象深いのが、向田邦子さんの『春が来た』なんですね。その半年ほど前から“ぼくにはもうピストルを持って走りまわることしかできないんじゃないか”と思う最悪の状態が続いていた。

そんな状態を引きずって仕事に入ったんですが、あの作品に出たことで、次から自分がなにをやっていかなきゃいけないのかってことがわかったんですよ。

一九八〇年の角川映画『野獣死すべし』を終わったとき、彼は自信に満ちていた。大藪春彦氏原作のスーパーマン的な主人公とは逆の“生身の肉体を持たない”ヒーローを演じきった心地よさにも酔っていたのかもしれない。

彼は四本の奥歯を抜いて顔をそげさせ、体重を10キ口減量したうえで役に取り組んだ。生身の肉体を持たないヒーローを演じるために、彼は文字どおり自分自身の肉体の一部をそぎ取ったのである。184センチの身長を、なんとか低くできないものか、と自分の足を切り落とすことまで考えたという。

撮影終了後、傲慢にも、ぼくが演じるものはもうない、そう思ったんですね。

そんな彼が一年後、アクション映画を離れ、一種、幻想的な美の世界を描いた『陽炎座』に主演した。その映画では、それまで彼がアクションスターとして積み上げてきた演技は、なんの役にも立ちはしなかった。

頭のなかでは、それがわかっているつもりなのに、いざ、それを役者として表現しなきゃいけなくなったとき、自分にはそれができない。

やればやるほどちがっていっちゃうんですね。

なにをやっているのか、ほんとうにわからなくなってきたとき、監督に“それでいいんです”と言われて……それでもわからなかったんですね。もう、くやしくてね。

山の頂上に立っていたつもりだったのに、その山は消えていた。

私生活での出来事とも重なって、自問自答の六カ月を送ったという。

その六カ月のあいだにどうしても見えなかったものが『春が来た』の撮影と同時進行で見えてきた。

彼が求めていたものは、向田さんの作品のなかにあり、共演の桃井かおりの演技のなかにあった。

芝居全体の流れではなくほんのワンセンテンス、なにげない指の動き、ふだんは見すごしてしまいがちな、そんなもののなかにこそドラマがあるんじゃないかと気がついたのだと彼は言う。

ぼくは観念的なもの、意識的なものを、自分の芝居に取り込みすぎていたんですね。で、一度自分のなかに取り込んだものは捨てられない。

そしてなにかを演じるときについ、ぼくはあれもできる、これもできるってふうになってきてしまう。 頭ばっかり大きくなってっちゃってね。

日常生活のディテールのなかに、ドラマがあったりするでしょ。

ぼくはそんな簡単なことに長いあいだ気がつかないでいたんですね。

かなり男性的な面で芝居を続けてきた彼にいわば女性的なものの見方、思考性を自分のなかに取り入れていかなくては……と決意させた作品が『春が来た』だったのである。

ぼくがいま、こんなふうになるなんて、想像もできなかったですよ、あのときは。

なんとかなるものなんですね。続けていくしかないんですね。

自分に言い聞かせるように、そうくり返した。そして、自分自身の変化をこう言った。

ぼくが変わってきたことのほとんどは、女性から学んで得たものですね。

男から学びとれるものにはなにか限界があるように思うし……。

だから女の人に近づくことによって、ぼくは自分自身を知ってきたんですね。

そう言いながら彼が思い浮かベたのは、きつと彼女の顔だったのかもしれない。

十数年、彼は映画にこだわり、そのなかで活躍を続けてきた。

ところが、役の演技の幅を広げ、方向を変換させたのは、なぜかテレビだった。

最近は映画を意識して見ない。

ぼくがいちばんやりたいメディアは映画なんだけど、いまは逆に離しておきたいんです。

言いたいメッセージがゴチャゴチャありすぎて、なにを言っているのかわからないような映画が多くてつまらなくなってきてる。

いまは逆に、日常生活のなんでもない一場面を演じるときテレビしかないでしょ。

だからいまはそういうものをやれるまで、テレビにこだわっていたいと思っているんですよね。

彼のなかにはいま、二〇本の映画の企画や、演じたいもののイメージがあふれている。次々と湧いてくるその断片がキラキラと見え隠れするが、なかなかうまく伝わらない。

彼がそれを表現するのは言葉ではないのだろう。あくまでもシンガーとして役者としての部分で彼はそれを表現し続ける人なのだ。

「自分自身のなかにある女性的な部分を、見つめていたいのだ」と言い「彼女はぼくのすべて」と気負いなく言ってしまう彼のすてきな変化は、これから彼が演じるもののなかにどんどん表現されていくだろう。そして、そんな彼の傍らには、いま、彼女がいる。

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《松田優作、語る》

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