松田優作にとっての“語る”ということ

山口 猛

はじめに

一九六八年一〇月下旬号の「キネマ旬報」に内田吐夢と鶴田浩二との対談が載っている。内田吐夢監督『飛車角と吉良常』の撮影で、初顔合わせのふたりの対談だが、こういうやりとりがある。

「僕はね、内田さん、映画が好きで、映画のとりこになった人間です。他にくらベるもののない、映画のよさ、その素晴らしさにとことん打ち込んで映画界に入った人間ですよ。(中略)でもね、映画会社が、フィルムにただ絵を印刷するだけの会社になってはいけないと思う。割切れませんね。自分を映画にとりつかせた、あの往年の名作がもっていた、忘れられない素晴らしさ。それが映画から失われてしまっていくのは、情として忍びない思いがします。本当に映画はこれでいいのか、と思いますよ」

「僕はね、鶴田君、芸術というものを、基本的に信頼しているんだ。人間が作る芸術というものは、永遠に滅びはしませんよ。それを僕は、信じている。現状には大いに反発するけれども」(「われら映画を愛するものの真情」対談内田吐夢、鶴田浩二)

六八年といえば、映画人口一一億人を越えた五八年のピーク時に比ベれば、三億人と三割にまで落ち込み、斜陽産業を囁かれていたころだが、それでも、ここには疑う余地のない絶対的な映画への信頼と、監督、主演俳優の確固とした位置がある。

だが、松田優作はそうした地点とはほど遠いところから出発した。確かに松田優作も村川透監督と日本のアクション映画において新しい地平を切り開き、また既成の映画概念を変えた森田芳光と組んだことにより、俳優としてスケールが大きくなり、新しい日本映画を模索する同志的つながりを得ることができた。さらに吉田喜重、深作欣二監督という一時代を築いた監督との出会いでも、彼の発言からは監督や映画に対する信頼の大きさは充分うかがえる。

にもかかわらず、鶴田浩二が内田吐夢と出会った時代と、松田優作が深作欣二と出会つた時代とはまったく異なっていた。内田吐夢監督が生きていた時代、あの傑作『飢餓海峡』が予算や仕上げの問題でもめたときでさえ、六〇年代は映画に希望が持てていた。だが、松田優作が深作欣二と出会った八〇年代は、作品を撮ること自体がむずかしくなり、斜陽産業どころではなかった。

内田吐夢は、家庭があるにもかかわらず、フラッと出かけて帰らず、七〇歳を過ぎても小田原の狭いアパートで自活していた。それはボヘミアンとしての内田吐夢の生き方として周囲が納得するようなところがあった。だが、深作が同じことをしても、「フォーカス」の餌食になるのが関の山であり、受け入れられる状況があまりにちがっていた。

松田優作が「深作欣二のように映画についてさまざまな角度を見られるような監督から映画を勉強したい」というとき、それは鶴田の内田吐夢に対するそれとは違っていた。

『ア・ホーマンス』のインタビューで山根貞男に対して、小津安二郎、黒澤明の作品を認めたうえでの松田優作の発言にはおそろしく醒めた眼差しで映画を見ていることが感じられる。

「ぼくらはぼくらの時代の角度を見つけていかないと。それでとやかく言われたってしようがないなとぼくは思いますね。(中略)初めからゼロなんですから。しようがないですよ。ゼロから始まってるんだから、ゼロにもどったって同じことですからね」

出発点からゼロだったという認識、映画に対する熱い思いがある一方で、松田優作には常にそうした醒めた眼差しがあった。

“語る”ということについて

彼がさまざまな雑誌のインタビューを受け、それに答えている記事を見ながら驚くのは、そのインタビュー量の多さである。

今回、彼の発言集をつくるにあたって、重複することがあって、分量的に一冊の本にはならないのではないかという懸念も多少あった。だが、彼は見事なまでに雑誌によって発言を使い分け、集めるということよりも、むしろ、どれを残すかで苦労したほどである。ある意味において、戦後のスターで、松田優作ほど明確な主張をもって、雑誌で一定の時間を発言し続けた俳優はいなかったのではないかとも思われた。

そのインタビューを通してみると、彼の精神的な充実ぶりもみてとれるし、インタビューに対して一定の意図、つまり語ることもまた松田優作自身の自己表現のひとつとしてみることもできる。もちろんインタビューを通しての松田優作像は、松田優作本人そのものではなく、あくまでインタビュアーの目を通して語られたものである。たとえ松田優作の話した言葉、一語一句正確に書き起こしたところで松田優作そのものにはならない。ただ、これだけ多くの人々に語り、それが活字として表現されると、それぞれの松田優作像がつくられる。当然、そこでつくられた像にはずれがあるが、ずれの範囲内で、彼の真実の姿 というのはおおげさだが、確固としたかたちが浮かび上がってくるのではないか。

そして、それこそがこの本の狙いである。

こうした松田優作に対するインタビューを、いまとなっては貴重なことだが、山根貞男が三度おこなっている。いちばん古いインタビューは一九七七年の『人間の証明』、それから九年後の八六年、松田優作が監督した『ア・ホーマンス』、そして八八年の『嵐が丘』である。

いちばん最初の『人間の証明』は、女性週刊誌、スポーツ新聞を別にした初めての本格的インタビューといってよい。だが、いわゆるスター・インタビューとほとんど変わってはいない。それは水谷豊との対談でもそうだが、松田優作の映画に対する思い入れはあっても、具体的な言語表現とはなっていないからである。山根と嚙み合うこともなく、映画に対する熱い思いと、一生懸命さのみが感じられる。

それが『ア・ホーマンス』ではがらりと変わっている。そこには明らかにひとりの映画人、芸術家に成長した俳優松田優作の姿がある。その内容も興味深く、松田優作自身の映画的な原点、そして彼を精神的に支えているものについても素直に語っている。その対話には距離感はない。彼は思うがままに語り、聞き手である山根も映画をテーマに絞り込んで突っ込んで聞いている。

デビュー当時のスポーツ新聞、女性週刊誌における松田優作のイメージは明らかに言葉少なにトツトツと語るアクションスターだった。最初のインタビューで山根は「言葉が少なく、しゃベることで発散するタイプではない。自分に苦しいことを課して、それに耐える俳優である」と書いてあるが、実際にもそうだったのであろう。

それがある時期から変わった。彼自身の発言からみても、精神的にもっとも追いつめられたのは、鈴木清順監督『陽炎座』のときだっただろう。松田優作は既成イメージから脱しようともがき続けるなかで、強烈な挫折感を味わい、同時に襲った離婚間題と熊谷美由紀との出会いがそれに輪をかけた。

だが、そうした苦しみから抜け出したときから、彼は自信を持ち、以前とはガラリと変わったかのように饒舌に発言を始める。そして、この時期、彼を女手ひとつで育てた母が亡くなった。松田優作は『家族ゲーム』を終えた一九八三年から、読者や観客に語りかけることについての明確な意思を持ち始めたが、母の死はそれを決定的にした。

端的に現れたのが女性誌を中心とするインタビューの数々であり、松田優作は女性インタビュアーたちの映画以外の質問にもていねいに答えている。松田優作が人気があったのはなにも「キネ旬」の読者やアクションスターとしてのカリスマ性にひかれる若い男性だけではない。強烈な男としてのセックスアピールを備えていた彼は「理想の男性像」として女性にも圧倒的な人気があった。それが女性向きの月刊誌におけるインタビュー量の多さにもつながっていった。

そこでの松田優作は無防備ともいえるほど、自分、女性観、妻、こどものこと、またかつてはタブーであると思われていた出生や母親のことについても、あけすけに語っている。これはインタビュアーが女性ならではのものだろう。彼女たちは松田優作に対して「怖い」という先入観を持って最初は接したのだろうが、実際に「話す」という皮膚感覚で接した瞬間から、かなり大胆にプライベート面でも突っ込んで聞いている。

それに対する松田優作は、彼女たちが松田優作に対して明らかに好意的であるのを知ったうえで、決して距離を持った答え方ではなく、実に自然にふるまい、答えている。

彼が本気で立ち向かわなければならなかった映画をテーマに絞ったものではなく、映画をきっかけにして松田優作の人生観、女性観を聞き出すということだけに、気楽に話せたのではあろう。

いや、そればかりではない。彼は女性といるときのほうがゆったりとできたのではないかとも思える。明らかに松田優作のことについて事前に調べず、ときにはぶしつけな質問であっても、相手が女性の場合にはていねいに応対している。

一転、映画雑誌を含め、インタビュアーが男のときには彼は聞き手としての資質を計りながら慎重に答えている。それは彼らが映画に対する思い、意味をぶつけ、その反応を聞くことで記事にするために、発言の引き出し方によって相手を探り出し、試そうとしている部分があるからである。それは互いの緊張感にもつながり、こうした一種の真剣勝負のときにはぶっつけ本番で松田優作に向かうことなど問題外である。

だが、彼女たちのそれにはそうした緊張感がない。そして松田優作自身も、そんな彼女たちに踏み込まれることを喜びに感じているようにもみえる。プライペートを語るといっても、視き趣味の露惡記事とは対極にあり、そのため好感が持てる記事となっている。

女性に対する松田優作の態度は彼自身のかなり強い母親コンプレックスからきているとも思える。彼が語る母親像は単なる母親への愛情というには不充分なほどである。男ばかりの三人兄弟を女手ひとつで育て、一家を支えた母。『ア・ホーマンス』で彼が演ずる“風”が菩提樹の陰で阿木燿子に膝枕をして寝ているシーンは象徴的であり、死んだ母への鎮魂のようにも思える。ひいては女性に対しては、そこに一定の信頼感さえあれば、ある安らぎを感じたのではなかったのか。

素顔の松田優作像とはこうしてつくり上げられていっただろうし、それは俳優としては幸福なことだったとも思える。

こうしたなかで、通常のインタビューとちがって、相手の姿が見えない、いわば松田優作が裸の姿で多くの人々と対峙せざるをえなかった貴重な記録がある。

それは一九八六年の湯布院映画祭通信である。彼は司会者、白井佳夫、そして何人もの観客の質問に答えているのだが、この記録が忠実なだけに彼の心境がよく読み取れるものになっている。

映画祭では、すべての観客が松田優作についてくわしいわけでもないし、味方でもない。そのとき上映された『ア・ホーマンス』にしても観客は初めて接するのである。感想はそれこそ千差万別であり、シナリオのないドラマと同じで、映画に対して好意を持つものもいれば、そうでないものもいる。実際にも「つまらない」と彼に面と向かって発言した観客もいた。

だが、そのときの松田優作の受け答え、それは読んでいただければ分かるが、ときにユーモアをもって答え、適当にいなすこともあっても、映画に対する真摯な思いだけは持ったまま誠実に答えている。そこに松田優作の人間的な成熟もみてとれる。

単に演ずるだけの俳優ではなく……

積極的に活字媒体に出ることも含め、松田優作にとっての俳優の仕事とは、監督、観客の前で演技をすることだけではなかった。松田優作は「俳優が俳優だけの仕事をしているだけでは、日本映画はダメになる」ということをくり返しくり返し語った。

それ自体は決して新しいことではない。初期の映画界には阪妻プロ、寛プロなと、戦後も三船プロ、石原プロなどのスター・プロダクションがあり、俳優が自ら経営に乗り出したことも多かった。

だが、そうした俳優プロダクションは収益の分配率を多くするだけだった。そして映画の衰退とそれに伴う資本力の差からほとんどが消滅するに至ったのだが、松田優作はそうした映画界の消長を見ながら、ゼロの地点から俳優の道を歩んでいったのである。

彼が肝に命じたのは、現代日本で俳優としても力を持っためにはプロデューサーとしての資質を身につけなければならないということだった。

もちろん、それ以前のスターであっても、プロデューサー的な資質を持っていた俳優はいた。戦前の片岡千恵蔵、戦後では石原裕次郎などがそうだろう。だが、彼ら俳優プロデューサーには、俳優としての自分のイメージをどれだけ戦略的に見せるかということが根底にあったように思える。

さらに飛躍して映画全体へ広げた志向を持っていたのは、おそらく勝新太郎だけだっただろうが、その勝プロダクションも倒産し、本人も思うような映画製作をできないままでいる。

松田優作も、勝とはちがった意味で映画について真剣に考えていた。いや、考えざるをえなかったというほうが正しいかもしれない。

そうしたことを彼自身が意識し始めたのは、すでに村川透監督と組み始めた『遊戯』シリーズからだった。同時に松田優作が生涯信頼することができた黒澤満というプロデューサーとの出会いのときでもあり、黒澤満の映画製作をみているなかで、松田優作は自分がやるベきことがなにかを理解していったのではなかったのか。

もっとも大きかったのは脚本家、丸山昇一を得たことだろう。自分を対象化できない俳優にとって、脚本家は自己の鏡でもあり、脚本家がつくり上げる人物像を通してあらゆる冒険が可能になった。

それだけではない。彼は自分がやりたいことを言葉に出さずともわかり合えるスタッフを、撮影、音楽、照明、美術などをつくろうとした。そうした信頼関係、緊張感をも持ちうる関係が日本映画にとって、ひいては自分が俳優として生きるうえでもどれほど大切なものかを実感していたようだった。

その時期から、彼は、作品を選び、自己をプロデュースしながら、さらに将来の視野を見据える俳優になっていったのである。

俳優としての道程

彼には抜き身の刃の魅力ともいうべきものがあり、それは他人を緊張させたが、翻って自分自身に対してもそうだった。

初期の、デビューしたての作品においては、彼のしなやかな肉体と同時に、心のなかにまるで炎のように燃えるマグマがあり、それがなにかを探している。そして、それがわからないために、たえず苛立っていた。

そうした緊張感は最後まで消えることがなかったし、それが彼の強烈なカリスマ性を支えていたのだが、彼の側からみれば、彼のなかにあるマグマをどうコントロールしていったのかということが、俳優としての転機、成長につながっていったのではなかったのかと思える。

便宜的ではあるが、俳優としての松田優作の歩みを映画の上で分けてみよう。

一 『太陽にほえろ!』から『野獣死すベし』まで

アクションスターとしての松田優作が確立した時期であり、黒木和雄監督『竜馬暗殺』という異色作があるにせよ、かなりをアクション映画のヒーローとして出演。ただし、本人のなかでは『野獣死すベし』で足を5センチ切ろうと思うなど、既成のアクション映画のヒーローとはまったくイメージの異なる主人公像にし、脱却を図ろうとしていた。

二 『ヨコハマBJプルース』『陽炎座』

松田優作は、そのころ音楽、特にブルースにひかれ、実際にも歌い始めていた。この作品も、ジャンルとしてはアクション映画の範疇に入るのかもしれないが、そうした区分けが無意味に思えるものに仕立て上げた。ただし設定は探偵であり、一定の枠組みを完全に払拭することはできず、どこか中途半端さが残ったことは確かである。

それが『陽炎座』という作品で、松田優作は何度も自ら語っているとおり「どう演技してよいのかわからない」状態になり、彼のなかでは挫折感として残る。

三 『家族ゲーム』から『それから』まで

本来ここでは、向田邦子との出会いと、彼女の原作で、桃井かおりが共演したテレビドラマ『春が来た』に出演したことが大きい。ここで初めて演技における日常生活の部分を発見し、それが松田優作に新しい境地を開かせたのである。

ただし、それがひとつの結晶としてのかたちとなって現れたのは、やはり森田芳光監督との出会いによる『家族ゲーム』であろう。何度もくり返すようだが、そこで現れた吉本という正体不明の家庭教師は既成の松田優作像をぶちこわすとともに、あらゆる可能性を秘めた俳優に変えさせた。

俳優と監督の幸福な出会いであり、継続するかとも思えたが『それから』で終えた。

この時期、一九八二年から八四年までの間、意図的かどうか、集中的に単発ドラマなどのテレビに七本出演、崔洋一監督『断線』をはじめ、連続ドラマの『熱帯夜』など、きわめて印象深い役を演じている。また、インタビューにおいても積極的に取り組むようになったのもこの時期からだった。

四 『ア・ホーマンス』

途中での監督交代劇があり、松田優作自身が初めて監督を手がけたのだが、この作多くの問題を孕んでいた。湯布院映画祭で観客の質問に対し、森田芳光がアクション映画をしなくなったから自分が手がけた旨を半ば冗談まじりで語っているが,森田芳光との訣别が彼に与えた衝撃はかなり大きかっただろう。「なぜアクション映画を撮るのではなく、『そろばんずく』なのか」というのは彼に深刻な問題提起を投げかけたと思われる。

松田優作はどんなときでも森田芳光を弁護し、暖かい愛情を注ぎ続けたが、ほんとうは森田芳光監督、松田優作主演のアクション映画を撮りたかったのではなかったのか。松田優作があれほどアクションの演技について語らずとも、万一、森田芳光が監督をしたならば、アクション映画もちがう角度で、松田優作自身にも予測のつかないものになる。

それがある時期無理になり、監督交代劇も起こり、自ら監督をする羽目になったのだが、皮肉なことに松田優作のちがう側面をもたらすことになった。彼自身常日ごろ思っていたことが、この作品中に素直にぶつけられたからである。

いま、再び見直してみると、日本のSF映画、アクション映画、アジアの間題をとらえた映画として、なにより松田優作が映画になにを求めているかが明確にわかる作品になっている。取り調ベ室を見るアングルの秀逸さはいまでも輝いている。

見逃せないのは松田優作のなかにある宗教的な資質であろう。具体的には仏教であり、随所にアクションとは対極にある静寂、涅槃を暗示するショットがちりばめられている。これに関しては山根貞男とのインタビューでも多少語られている。

また俳優石橋凌の誕生としても記憶される。

この監督の経験で、映画全体を見るためには、プロデューサー的な感覚を持ち、それこそ自分のスタッフを持つことの必要性、それ以上に映画監督の、ひいては映画の奥の深さを知ったのだろう。松田優作は、映画についての勉強を積まなければならないことを皮膚感覚で感じたのではなかったか。

もうひとつ、彼にとっては自信を裏づける出来事があった。それはニューヨークで『家族ゲーム』が大々的に取り上げられたことで渡米し、むこうの映画人とも話し、世界も視野に入れて話せるようになったことだった。

五 『嵐が丘』『華の乱』

松田優作は、かつても工藤栄一、鈴木清順という、撮影所出身の映画監督と仕事を手がけてきたが、以前とは松田優作自身の問題意識がちがっていた。

吉田喜重も深作欣二も自分がつくるイメージに簡単に妥協する監督ではなかった。松田優作が自分のつくり上げた鬼丸像と吉田喜重のそれとが食いちがったとき、撮影を中断させ、話し合いを持ち、以後順調にいったというエピソードはきわめて象徴的である。それは深作欣二のときでもそうだった。自分でも有島武郎像を実際に図書館に何日もかよってつくり上げたのだが「深作欣二が考える有島像にすることにして、自分の像は捨てた」として役に臨んだのである。

やはりこのとき松田優作は真剣に映画を学ぼう、映画を知悉している映画監督から取り入れなければと考え、自分のなかに蓄積しようとしていたのだろう。

六 『プラック・レイン』

彼はアメリカ映画を語り、ジョン・ローンを語り、そして『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を語った。映画にかかわっている限り、しかも日本を代表する男優としてある時期からアメリカ映画が視野に入っていないはずはなかった。特に性格的なことをいえば、人一倍嫉妬心が強く、自意識が過剰な男である。でなければ「なんでナンバーワンの監督、俳優に仕事がこないんだ!」(「スコラ」88年6月日号)とは叫ばないだろう。自分の思いと現実とのギャップ、それが実力が伴わないのならばともかく、日本ではもちろんのこと『家族ゲーム』はニューヨークでも評価されている。

しかし、日本で「アメリカ映画と自分たちの映画とは変わらない」といくらいっても「なにをあの松田優作が」というのがこの国では落ちであった。

だが『ブラック・レイン』の出演は彼をまったくちがう存在にさせた。いま、ふり返ってみても彼の語った言葉自体は『ブラック・レイン』以前も以後も変わっていない。

「ハリウッドも日本の映画もなにも変わらない。ただ違うのは映画に対する尊敬の念だ」

私がその言葉を聞いたのは『ブラック・レイン』の撮影終了直後の『アラビアのロレンス』の完全版上映を見て日本に帰ったときだったが、そっくり同じ言葉を『ア・ホーマンス』直後の山根貞男のインタビューでも述べている。そして、そのころ松田優作が映画に関して語った言葉は、実際にハリウッドで体験してからも変わるところはなかった。

だが、周囲は確実に変わった。まず貪欲なアメリカのマーケットが彼に打診してきたが、そうなれば日本でも追随するのは目に見えている。以前はだれも聞く耳を持たなかったが『ブラック・レイン』以後はだれもが耳を傾けた。それを具体的な仕事として昇華する前に亡くなったのだが、彼のハリウッド映画への出演はいまなお大きな意味を持つ。

彼自身はアメリカのインディペンデント映画を視野に入れていたのに、実際にはメジャーの、しかも大作に出演してしまった。だが、そこで彼はその圧倒的な存在感を見せつけ、ハリウッドを代表する映画人スタンリー・ジャッフェ、マイケル・ダグラスをも納得させた。そのこと自体、松田優作は本人の意識、意図とは別に、三船敏郎や高倉健などと同樣、俳優としては天性としかいいようがないが、正統的なスケール感のあるスターであったことを示している。そのうえ、興行収入で三週全米一位になり、大ヒットを世界的に記錄した。

言葉だけの世界が現実になり、具体的に示したこと。松田優作は、あとに続く日本の俳優たちに目に見えない大きな遺産を残したのである。

未来を凝視する眼差しを……

松田優作が亡くなって丸六年、七回忌を迎えることになった。この間、日本映画は産業として成立するかという時期から、存亡の危機にあるといっても過言でないような状況にまで陥っている。かつての映画監督としての職業が成立するかという状況から、さらにいまはキャメラマンをはじめとする技術者にまでもしわ寄せがきつつある。興行関係者にいわせれば「“日本映画”というだけでマイナスイメージになる」ということだが、それに対して說得力ある反論を持ちえないことも事実である。

ただ、ここまで追い込まれながら、不思議に視界だけは広くなっていっている。いま、映画ということで世界を見渡してみても視野に置けるのは、貪欲なハリウッドとアジアだと断言しても過言ではない。日本以上にフランス、ドイツ、イタリアでも、乱暴な言い方だが、ハリウッドに席巻され、青息吐息であることはもはや否定できないだろう。

そのハリウッドだが、その距離は決して遠くないものになってきていることも確かである。『ア・ホーマンス』でデビューした石橋凌がショーン・ペン監督『クロッシング・ガード』でジャック・ニコルソンと共演するなど、あのときのだれが考えただろう。日系人がハリウッドに登場するのはもはや珍しいことではなくなった。またプロデューサーとしての黒澤満がスーパースターは無理でも、その下のランクの俳優を使って映画製作ができているというのもかつては考えられないことだった。

まして、いま、世界をあらゆる意味でリードしつつある中国語圏映画と日本映画のかかわりは、特にポスト・プロダクションにおいてはすでに深いつながりがある。

そういうことでは、日本映画を語るといいながら、日本だけで映画を考える時代ではなくなってきている。

もし松田優作以前、以後という分け方をするのならば、なにより大きかったのは月並な言葉だが、国際化の問題だったのではなかったか。

よくもあしくも松田優作は日本映画を支えていた。死後、日本映画、アメリカ映画を問わず、どれほど「あの役をもし松田優作が生きて演じていれば」と思った作品が多かっただろう。つまり、彼が作品を選択、出演することによって、日本映画の座標を示すことになっていたからこそ、私はそう感じたのだった。

確かに主役を張る俳優はまだ多くいる。だが出演することが、監督と組むことが日本映画にとって、そして将来を考えたうえでどれほどのものになるのか。そこまで視座に入れた映画人はまれであり、それが彼がいなくなった瞬間から一気に顕在化した。松田優作にはそれだけ背負っていたものが大きかった。

いま、ふと想像するひとつの光景がある。それは彼が部屋のなかでじっとうずくまりながら、それでも目を見開き、凝視している姿である。もちろん、実際に見たわけでも聞いたわけでもない。

どんな誘いがあっても、そのギャラが高額でも、自分で作品に、監督に納得しない限りは、松田優作は仕事をしなかった。もちろん生活面の不安をCMで解消できたことは救いにはなっただろう。

だが、一年も二年も映画俳優が、每日每日じっと待っている。それも漫然とではなく、獲物を待つ蛇のようにアンテナを張り、緊張感を保ちつつである。そのときの松田優作の心境、考え続けるというその深い闇のことを思い浮かべると背筋が寒くなる思いがする。

そして、だれも助けることのできない深い闇のなかで彼が耐えていたからこそ、強烈なカリスマとしての瞬発力が生まれたともいえるし、その場で日本と世界を同じ土俵にしたといっても過言ではなかった。

だが、私のなかでの松田優作は、あるときからカッと見開いていた目を閉じ、静かに座っている姿に変わる。半ば安らぎを見出しながらも、目を閉じたまま遠くを見ている。

いま、生きているものが、もし松田優作に学び、失ってはならないものがあるとするならば、彼が体験した闇に恐れを持ちつつ、身をさらし、じっと遠くを凝視する眼差しを持つことのできる勇気を持つことだろう。

松田優作が生きていた時代も、そして彼が亡くなって、いま動いている時代もそうしたことでは変わってはいないのだから。

一九九五年九月

《松田優作、語る》

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