松田優作は俳優という仕事をどのようにとらえていたのだろう。
考えてみれば俳優という仕事は、どんなに形而上的なものを求めても実際には役が与えられるかどうかで評価されるという、ひどく人間的で下世話な部分がある。
しかもそれを決める権限は最終的にはプロデューサーであり、その価值観に合わなければ、たとえ監督がどうあろうと役につくことは難しい。どんな役を与えられたかでその俳優の人生まで左右される。これほど残酷なこともないが、松田優作はそこで生きたのである。
アメリカでは伝統的にプロデューサーの権限が強く、どんなトップスターでもプロデューサーに選ばれないことには仕事がはじまらない。
だからスターの座と夢の生活を維持するためのどうしようもない緊張感から逃れるために、かつてのハリウッドではパーティーの乱痴気騒ぎがあった。それが人格を崩壊させたり事件になったりしたのはケネス・アンガーの著書『ハリウッド・バビロン』に描かれた通りだが、現在でもアルコール依存はもちろん、ジョン・ベルーシに見られたように麻薬依存による死ということも起こるのである。
だがそれはハリウッドに限ったことではない。脚本があり監督がいなければ、自分ひとりだけでは映画を作ることができない俳優という存在の宿命ともいえるものだった。
松田優作の場合、『ア・ホーマンス』では監督まで務めており、単純に俳優とはいえなかったが、それは俳優としての自分を角度を変えて見るためであり、彼はあくまで俳優であることをまっとうしようとしていた。
彼は、俳優としての価値を高めるためにも、「現場で同じ空気を吸える」人、スタッフを求めた。たとえば、『処刑遊戯』からはじまり松田優作の個人的な企画の脚本をすベて手がけていた脚本家の丸山昇一、『遊戯』シリーズの仕事からはじまり、その移動撮影と独特のブルーがかったライティングによって今やキャメラマンとしては最前線にいる仙元誠三、照明の渡辺三雄、美術の今村力、松田優作のアルバム製作からはじまり、コンサート・ツアーヘの参加、映画音楽でも『それから』で注目された作曲家の梅林茂などである。
彼がどんな現場でもスタッフとのコミュニケーションを欠かさなかったのは、映画俳優は、舞台に上がれば自分一人の力で観客を魅きつけることの出来る舞台俳優と異なり、フィルムを通して間接的にしか生きられないことを痛いほど知りつくしていたからだった。
松田優作は一九八〇年からコンサート・ツアーをやりはじめていたが、これは俳優の余技というものではなかった。
つまり、俳優というものを違った角度から見直そうとしたのである。
「映画作りをやっていくうえにも、全く違う世界のものを引っぱってこないと、映画というものはやせ細っていくばかりじゃないか」(週刊明星 80年5月11日号)
彼はミック・ジャガー、ユーリズミックス、スティング、そしてブライアン・フェリーなど来日アーティストのかなりのコンサートに実際に足を運んでいた。
梅林茂は、初めて松田優作の曲を作る時に、ブライアン・フェリーのアルバムをすベて持っていって話し合っていた。
「あの人は音楽をやることで、プロパガンダやエンターテインメントではなく、なにか突き抜けることを求めていたと思う。しかしそれが、最初のうちは新しいものを志向していたものの、だんだん“普通”に、単純になっていった。たとえば転調もせずに、そういうものが表現できるのではないかということに行き着いてきた。でも、優作さんがなぜ音楽にこだわったのかといえば、映画だと脚本から衣装からライティングとか様々なものが必要なのに、音楽はそこにギター一本あればよい。そこですぐ表現できるという即効性が強いし、リアクションを確かめることもできたからでしょう」
『ア・ホーマンス』の時でも松田優作は言っていた。
「いま僕たちがやらなければならないことっていうのは、専門的なことじゃなくて、例えば『ストレンジャー・ザン・パラダイス』のジョン・ルーリーなんか、自分で撮ったり音楽も自分でつくったりとか、そういうゃつらが集まって何か、新しい映画の角度を見ようとしている。新しい映画をつくろうというんじゃなくて、映画に対して新しい角度を持とうとしているといいますかね。そういうことを少しずつ向こうのやつらもしはじめてるから、僕らもやっぱり役者にとって必要なことか、映画にとって必要なことか、いろんな角度でこれから見ていかなきゃいけないと思う。もちろん表現するときは役者ですけれどね、僕の場合は」(キネマ旬報 86年10月上旬号)
松田優作を、「楽器を持たないミュージシャン」だと言う梅林は、
「優作さんは、スタジオに入るでしょ。でも、そこに様々な楽器があっても、決してマニアックに持とうとはしなかった。そのぶんヴォーカルでオーケストレーションの持つ深さや広さを持つことができたんですね」
と言うが、それは余剩部分を削ぎ落とす作業をする中で、残った単純なもの、純化されたものを見出そうとしていたからであると同時に、肉体と共に生きる俳優ならではのものだったろう。
松田優作の作品数はそれほど多くない。
彼は『探偵物語』から『それから』の間のように、自分に気に入った仕事がくるまで一年でも二年でも、じっと待っていた。彼を預かった形になっていたセントラル・アーツ社長・黒澤満も言っていた。
「普通のマネジメント会社だと俳優のギャラで食っているわけだから、無理してでも仕事は入れる。だけど、俺のところは映画の製作会社だからそんな必要がないし、自由に仕事を選べるということがあったんじゃないかな。ただ、やりたい仕事しかやらないものだから、一本終わると空くというのはしょっちゅうだった。で、仕事をしたくなると言ってくる。
『黒澤さん、なにか考えてくださいよ』
『だけど、お前の企画はなかなか通りにくいよ』
『そうでしょうね。でも、考えてください』
俺も彼が丸山に作らせた脚本を全部読んでいた。優作はその作品を映画化したいと言って脚本は持ってくるが、無理は言わなかった。
『優作、これは今通らないぜ』
『じゃ、しばらく待って、やれる時が来たらやりましょう』
それは分かっていましたね」
俳優は、与えられた役を引き受け、どんな役でも出来るようになっていくことで成長していく。
だが、本当にそれが俳優なのか。そして、俳優はその仕事がくるまでただひたすら待たなければならない受け身の存在なのか。
松田優作は、じっと息をひそめるようにして、なにを考えていたのだろう。
もちろんなにもしないとはいっても、コマーシャルの仕事はしていたし、丸山昇一には個人的にも自分の企画した脚本を書かせ、書き上げた原稿を付け合わせながら一本の映画作品を考えていた。あるいはウィレム・デフォーやロバート・デ・ニーロがそうだったように、若い俳優を集め、芝居を教えながら演劇作業を行っていた。
「だって、どこで僕ら勉強できますか、ほんとに。勉強する場所がないし、実際にリアルタイムでやりながら勉強していかなけりゃいけない、同時に。例えばどっかのアクター・スタジォでさ、俺たちみたいなプロの俳優でもちゃんと訓練したりさしてくれるところがあるんなら別だけど、向こうみたいに。ロバート・デ・ニーロみたいにちゃんと小劇場を持ったりとかできるんだったら別だけど。俺が例えば勉強のために舞台やるったって、必ず商業ベースになっていくわけ、システムとして。そんなのばかばかしいね。だから、自分なりに勉強をというストロークを持ってますから」(キネマ旬報 86年10月上旬号)
彼は映画俳優という職業について真剣に考え続けた。
「俳優というのはなんだろう。それは、ここの寿司屋の仕事が寿司を握ることだとしたら、俳優は、どれだけ“普通”のその味を感じたり見たりすることができるかということなんだ。どんな状況にあっても“普通”でいられること。ただそれは、漫然としていることではない。だからこそ人を観察する時、そして音を耳で聞く時、それはより以上に鋭敏でなければならない。そしてつねにグレードを上げるよう努力しなければならないんだ」
“普通”の状態であるということは、どんな状況に置かれても動ずることなく判断が出来る、興奮した演技をしても、もう一人の自分がたえず距離をとって見ることが出来る、そういう状態を意味していた。
また、グレードを上げるという時、それはたんに与えられた役を十分にこなすということのみならず、宗教的な精神の安定をも意味していたであろう。俳優のみに限ったものではないが、他人が介在し得ない孤独な作業をする中で、そこに超越的なものが介在してきたのである。ただし松田優作の場合、それは超越的なものに依存するということではなかった。キリスト教的な唯一神的、絕対者的な存在へとは向かわず、仏教的な視点をとるようになった。彼自身が監督した『ア・ホーマンス』を終えた時のインタビューで、そのことについて語っている。
「『それから』を終わってちょっと、まあ、個人的なことなんですけど、あるキャパシティを超えたんじゃないかという妙な、頭が一回転したというか、変な具合になってしまって、死ぬんじゃないかなと思ったり、『それから』を終わって何カ月かそんなふうになったんですけどね。それで自然に、宗教じゃないんですけど、仏教書とか、そういうのを少しずつわからないなりに読み始めて、なんかこう仏陀というのが自分の中に感じられるというか、そういうニュアンスがあったから、たぶん偶然なんでしょうけど、そこヘ気分がいったんじゃないかと思うんですけど」(キネマ旬報 86年10月上旬号)
彼はこうした体験を自分の仕事の中にもとりこもうとして、“風”という記憶も過去もない男を描こうとした。
「僕らがいまほんとに戸惑ったり悲観しているときに欲しいものというか、無風状態のときにどこへ行けば、どこに風が吹けばいいんだろうかというときに、フッと救われる思いというんですかね、そういうものを“風”に託せないだろうかと。
そばにいるだけであったかくなったりする人とかね、仏陀の修業の道行きを見てて、そばに近寄って涙を流したりするようなことってありますよね。僕なんかも、おふくろが死んだときだけど、俺たちどうしたらいいんだろうかと思ったときに、宗教家のおばさんがそばに来たとき涙が出てきちゃって、おばさんたちがいてくれたんで助かったという、非常に救われるような思いがした。一瞬ですけどね。やっばり何かにぶつかったり不安になったりとか、死にそうな気持ちになったりするときって、父や母だけじゃなくて、別の、それが宗教なのかよくわからないですけど、一瞬でもいいからそういうものが、救いがほしい。別に助けてくれとかそういうことじゃなくて、フッと気が休まる。そういう瞬間が“風”じゃないかと、なんとなく自分ではそういうニュアンスにしたんです」(同前)
自分の中にそうした宗教観が根づいてきたことによって、彼がある役を演ずる時、とくに仏教と限定することがなくても、すベての宗教に共通する地平を見るようになったのかもしれなかった。
その時、彼はこの目に見えない世界を感じさせる描き方ができないかと考えていた。
彼が「湿っている」というような表現の仕方、具体的なものというよりひどく感覚的な言い方をするのも、そのためかもしれなかった。
丸山昇一に脚本を書かせる時も、「今度は、心臟のない男のものをやってみようか。ただし、血は流れているんだよ」というような言い方をした。
これは『ア・ホーマンス』に結びついたが、抽象的なもの、感覚的なもの、目には見えないにもかかわらず確実に感じられるもの、男女の愛情でも肉体的な愛のシーンとして描かずに、その二人が根底で結びついている魂の部分を抽出して映しだすことはできないのか。彼はそうしたものを求めていた。
キャメラマンの仙元誠三に対してこう言ったことがある。
「風というものは、もちろん見ることはできないけれども、なんとか、風を感じるようなものをフィルムに焼きつけることはできないだろうか」
抽象的な言い方ではあるものの、これは『ア・ホーマンス』の最後のシーンで松田優作と手塚理美が花屋の前で会話を交わす時、ハンディカメラで二人をぶれるようなアップで撮ることに現れている。それは、仙元によれば、
「(松田優作が)人間の心の動揺の中にある、ある空間の、この空気を、自分の中で近寄ってほしいというんで、ああいう形に撮ったんです」(湯布院映画祭通信 86年 ア・ホーマンス号)
という意図からだった。
パラマウントの大作に出演することが決まった松田優作は、クランク・インを前にして、どのような心理状態にあったのだろうか。
『ブラック・レイン』という大きな人生の転機にあって、表には出さないにせよ彼の中では凄まじい葛藤があったように思える。鋭敏なだけに、絕対に自分がこの役を得る確信が強ければ強いだけ不安も大きくなる。
それは、たんに角度を変えて自分を見つめただけではどうにもならない部分があるからだが、彼は自分の納得のいく仕事がくるまで何年でも待ち続けたと同じように、こうした葛藤の彼方にある無我の平穏の境地に辿り着こうとしたのかもしれなかった。
だから、普通の俳優が感じるような、たんに選ばれたり外されたりということによる振幅はなかったようにも思える。そうしたことは、すでに『ア・ホーマンス』の時から顕在化していた。
「ここ何年間、小僧ですけど、人間を自分なりに演じているうちに、なんかもっと細かい神経みたいなものを、僕等は生きている間に幾つか確かめなきゃいけない、人間としてね。それはたまたま役者というえらい商売にかかわってる、それをやりながらいろんな人間の心変わりを俺なりに演じていければいいなと思っていたものですから、当然行き着いたことになると思うんですけど」(キネマ旬報 86月上旬号)
しかし、心のバランスを取るための行為も、彼には欠かせなかった。
「每朝、起きると、とにかく一番の水を沸かし、それを供えてお経を読むんだ。その一番というのがなかなか大変で、トイレも我慢してその水を必死に汲む時だってあるんだ」
半ば笑いながらそう言っていたが、絶えず座禪を組み、精神の安定を求めながら、仕事を通してある高みに達することを求めていた。
彼はグレードを上げるという言葉で言っていたが、それは『ブラック・レイン』で成功して国際スターになるということではなかった。それはあくまでも結果にすぎず、そのこと自体を求めていたわけではなかった。つねづねロバート・デ・ニーロと共演したいと言っていたことも、そうした凄い俳優と一緒に仕事をすることでもうひとりの違う自分を発見すると同時に、共同作業の中で、底のみえない俳優という仕事を究めようとしたのかもしれなかった。
もちろんどんな監督、俳優が来たところで、松田優作は特別なことをするわけではない。オーディションの時、マイケル・ダグラスに言ったように、ごく“普通”に、ひとりの俳優として演ずればよいだけである。
だが、いくら彼がそう思ったとしても、実際に厳しい競争を潜り抜けてきた層の厚いアメリカ映画の俳優とスタッフの中で自分が通用するのかということは、具体的な撮影に入ってからでないと分からなかった。
リドリー・スコットが彼に、「ひと目で、佐藤の役は松田優作しかいないと確信させられた」と言ったことは、もちろん大きな自信にはなっていただろう。言葉の端々に、彼がリドリー・スコットを信頼していることがうかがえた。
石橋凌には、こう言っていた。
「日本映画では、俺は全部に気を遣わなければならない。だけど、今回のスケールやシステムだと、俺はすごく大事にされそうだし、いい雰囲気でやれそうだ」
『ブラック・レイン』を目前にして、松田優作には、内心期するところがあったはずである。『家族ゲーム』では、作品としての評価はあっても、ビジネス・マーケットとは関係なかった。しかし、このパラマウント製作の大作は、最初から世界のマーケットが相手だった。その中で役を得たものと失ったものの落差。このチャンスをどう生かすか。そして、佐藤という悪役のスケールの大きさも、松田優作という俳優が現場でいかに振る舞い、どのように演じるかにかけられていたし、それによってアメリカ側の評価も決まるのだった。
松田優作はなにを感じるのか。
そこで彼に撮影日誌を書くことを提案した。
最初、彼は「面白い。やってみよう」とは言ったのだが、いざ具体的にどうするかという段になると問題が出てきた。まさか彼が文章を撮影の合間に書くということも出来ないし、用意したテープに吹き込むという案もあったが、クランク・インを間近に控えて、現実には難しくなり、結局、撮影の合間に話を聞くということになった。
十月二十六日、松田優作は製作発表のため大阪入りした。いったん東京に戻り、十一月五日、本格的な撮影のため再び大阪に発った。まもなく『ブラック・レイン』の撮影がゴタゴタしているとのニュースが東京に入ってきた。そのため、彼に連絡を取ったのは二十日過ぎだった。
しかし、大阪のホテルはすでにチェック・アウトしており、自宅に電話をすると、出てきたのは本人だった。
「大阪では、出ずっぱりということじゃないんだ。また大阪に行くけど、しばらく間があるから会おうか」
十一月二十六日。この日は松田優作がプロデュースをしていた芝居の公演のある日だった。彼が育てていた俳優が中心の作品だったので、芝居のかかる明大前の宇宙館で落ち合うことになり、芝居が終わった後で飲もうという話になった。
芝居は不条理劇の形を取り、一時間半くらいで終わった。
客席から出ると、彼は丸山昇一を同行していて、紹介してくれた。
「飲もうと思ったんだけど、今朝、(内田)裕也さんから電話が掛かってきて、勝さんの『座頭市』の現場が大変らしいんだ。それでこれから、にっかつスタジオに行かなければならないから、今日は時間がない」
勝新太郎は、俳優としてのスケールの大きさは比類のないものであるし、監督としてもさまざまな試みをしていて、松田優作は映画を違った角度から見ようということでは近いものを感じていた。翌年に、この作品の撮影現場で死者が出た時も、「まわりが、勝さんが俳優だけに専念できる状況において仕切れば、注意も隅々までいきとどくし、事故が起こるはずがない」と痛恨の表情で語っていた。『座頭市』は最初から脚本の問題でスケジュールが伸びていたし、それに伴うトラブルも続出していて、現場がどこか殺伐としているということは聞いていたが、勝と内田の共通の友人でもある松田優作が顔を出せば、ある程度収まるということがあったのだろう。
その話をしているところヘ芝居の出演者たちが出てきた。演じていた女性は泣いていた。松田優作は彼女を引き寄せ、やさしく肩を抱いた。
彼の顔は柔和で、それを見ているうちに感想を言うことも忘れてしまった。
别れ際、彼に『ミッドナイト・ラン』のコピー、つまり松田優作がロバート・デ・ニーロについて感じたことを聞いておいて、代筆したものを見せた。
彼は見るなり言った。
「だめだね。こういうんじゃない」
この日、松田優作はにっかつ撮影所のスタジオに単身出向いたのち、とある飲み屋で待たせていた丸山昇一と再び合流した。
丸山を呼んだのは、新しい企画が浮かんだからだった。「丸山、ゾッとするようないい話がある」
それが、SFXを使わないSFということで、丸山が最後に松田優作の企画で書いた脚本『緑色の血が流れる』だった。「血が緑色だったら、どうだろう」という松田の言葉から話がはじまったのである。
しかし彼が「SFXを使わないSF」と言った時、彼の念頭にあったSFとは『スター・ウォーズ』『スター・トレック』『E・T』といった一連のSF作品ではなかった。それらは娯楽作品として認められても、自分の考えていたものとは違っていた。
彼にとってのSFとは、常にリアリズムに裏付けられながらも、どこか一つ歯車が違っているという状況から生まれてくるはずのものだった。それが彼の場合には、浮いていたり、心臟がなかったり、血が緑色だったりと、肉体という存在が通常の人間と異なることにより、精神がどこか病んでくるという状況を描きたかったのだろう。ジェームズ・キャメロン監督の『ターミネーター』のように人間とは掛け離れたアンドロイドや、ロボットという即物的なものになるものではなかった。
「僕はSF撮れないけど、ニュアンスは今回出したけれども、誰かがSFをね……ほんと頭があるから、レベルは同じだし、ちょっとした角度を持てば、すこい硬質な金属感を出せると思うんですよ。スーパー・フィクションというのをね、もっともっと智恵を働かせれば。そういうことをなぜやらないのか。SFをやるには相当集中力が要るから」(キネマ旬報 86年10月上旬号)
これは『ア・ホーマンス』の時に彼が語ったことだが、こうした精神の深まりが宗教の問題ヘも触れはじめたようだった。
考えてみれば、彼が「最高の傑作」と言っていたデヴィッド・リンチ監督『ブルー・ベルベット』などはそうした領域に深くふみこんでいたし、パーシー・アドロン監督『バグダッド・カフェ』について、力を入れて言ったのもそういうことだった。
「あの太ったジャスミン(マリアンヌ・ゼーゲブレヒト)の表情と手を見ただろう。黒人の少年がピアノでバッハの平均律を弾いているうちに、彼女の指が自然に組み合わされ、ちょうど仏教の印を切る恰好になっている。俺は、この監督は分かっているなと感じたな」
明大前の芝居から二日後の二十八日、松田優作と下北沢で会った。最初に用事だけを済まそうと思い、『ミッドナイト・ラン』のコピーを見せたが、彼は見向きもしなかった。
「もう、それはやめにしようゃ」
どんなコピーを持っていったところで同じことだったろう。撮影に入り、役に打ちこもうとしている彼に、他のことで神経を使わせるのは、あまりに無神経すぎた。
寿司屋でビールを飲みながらだったが、たまたま若い店員がビールの注ぎ足しをしようとしたころ、彼は怒った。
そうした態度を見せたのはこれが初めてだったが、彼は食事や飲む時をはじめ、自分の生活、仕事のリズムを他人に崩されるのをひどく嫌っていた。彼は、自分の家の地下室を稽古場として、若い人々に演技の訓練、芝居をするために開放し、援助することを惜しまなかったが、彼らと食事や飲んだりする時に、彼らが無神経な態度をとることは許さなかった。
その時、松田優作は、『ブラック・レイン』の撮影の様子を聞こうとする機先を制するように、言った。
「最低だぜ、この国は!予定があっても一つ一つ潰れていく。リドリーが每日のように『ホワイ(なぜ)?』と言う。それを聞くと情けなかったし、その話はしたくないな。不愉快になるだけだし、組合の反対だなんだと恥ずかしいぜ。何が文化国家なんだ!」
心底不快そうな顔をしていたので、それ以上は聞けなかった。しかも、さらにこうクギをさされた。
「俺はいま『ブラック・レイン』の撮影については黙っていたいんだ。いろいろ話してしまうと、なにか大事なもの、自分の中のものが消えてしまうような気がするんだ。だから現場に来てお前が自分なりに感じてほしいんだ」
それでも彼は、肝心なことは喋りたくないとは言いながらも、撮影の様子を少しずつ話しはじめた。
「全然、違うぜ。なにがっていうわけではないが、とにかく役者に対する要求もそうだ。マスターショット撮りだから、同じことを何度も繰り返す、そのたびに芝居を変えさせたり、カメラの位置も、引いて撮った後にアップと繰り返すのだが、監督の要求に対して『出来ない』とは絶対に言えないんだ。出来なければ、
『なぜだ!なぜ出来ない。君は俳優だろう。演技をすることでギャラを取っているんじゃないのか。それが、どうして要求するようなことが出来ない』
というわけだ。出来なければ簡単なことでクビだ。それはスタッフにしてもそうだった。もう助監督が早速クビになったんだ。しかし、むこうはすごい。クビになったと思ったら、すぐ違う人間が来て、まるで以前から一緒にやっていたかのようになんの支障もなく現場を進めるのだから。
そういえば、林海象が現場にきて『すごい』と言って帰ったけど、なんで日本の映画人は現場を見に来ないのだろう。勉強することはいくらでもあるはずなのに情けないぜ。
そうだ。俺は大阪の撮影は鉄工場での一ショットだけで終わりだから、ニューヨークに来いよ」
突然で驚いた。はじめは大阪の現場に行って、実際のアメリカ映画の現場を見たいということだったのに、すでに松田優作がらみのショットが終了しようとしている状況では、たしかにいまさら大阪でもなかった。
しかし、ニューヨークと急に言われても、答えようがなかった。ただ、リドリー・スコット、マイケル・ダグラス、高倉健、松田優作と揃った現場を、外側ではなく内側から見ることが出来るチャンスを、むざむざ逃すことはできなかった。
「今、黒澤明という人の偉大さをあらためて感じているんだ。彼が世界の映画人の誇りであるのは『ブラック・レイン』の仕事をしてよく分かった。その意味で、今、本当に世界に通用する映画人、世界の中の日本人ということで、はっきり言えるのは、健さんと勝(新太郎)さんだけじゃないのかな。もちろん三船敏郎という人がいるし、彼はどこでも通用する人だけど、日本人を日本人として演じ、その視野には世界はないのじゃないかな」
その後、近くにある大木雄高経営の「レディ・ジェーン」に行き、そこでリドリー・スコット監督『誰かに見られてる』の話題になった。多少、リドリー・スコットにしては物足りなく思った作品だったが、松田優作は、あれは傑作だということを主張した。
「あの上流階級のミミ・ロジャースのアパートを見ただろう。貧しいトム・ベレンジャーの刑事が次第にのめり込んでいくのだが、それがよく納得出来るじゃないか。あの部屋に象徴される人を魅惑するような深いトーン、画調といい、たまらないぜ」
この作品に出演していたロレイン・ブラッコは、ハーベイ・カイテルの妻(後に離婚)であり、のちに松田優作はロサンゼルスで二人に会う。
この日はマーチン・スコセッシ監督『最後の誘惑』の最初のマスコミ試写の日だった。松田優作に会うことになったため行けなかったのだが、主演のウィレム・デフォーがキリストを演じ、ユダをハーベイ・カイテルが演じていた。
そのことをたまたま松田優作に話したら、ひどく興味を示した。
マーチン・スコセッシ監督『ミーン・ストリート』は彼の好きな映画のベストの中の一本であると同時に、美由紀夫人と出会った時、共に見て感動したという思い出もあったために、忘れられない作品であった。だからマーチン・スコセッシとハーベイ・カイテルの組み合わせ、それに『プラトーン』のウィレム・デフォーとくれば彼の関心を引かないわけにはいかなかった。
普通なら映画評論家と一緒の試写を見るのは好まないはずだったが、この作品ばかりは大阪の撮影を終えた後でもUIPの試写室で見ようということになった。
結局、『ブラック・レイン』の大阪での撮影の実態は、松田優作の口から詳しく語られることはなかった。