松田優作という俳優は、どのような道を歩んできたのだろうか。
『太陽にほえろ!』でデビューし、さらに『遊戯』シリーズでアクションスターとして活躍していたころ、彼はインタビュー嫌いの寡黙な俳優だったし、暴力事件を起こしてマスコミにさんざん叩かれたことがそれに輪をかけた。
しかし、『陽炎座』(鈴木清順監督・一九八一年)を経て、『家族ゲーム』(森田芳光監督・一九八三年)のころから、つまり三十歳を越えてから、がぜん、彼は饒舌ともいえるほど多くのことを雑誌で、とくに女性誌ではあけすけとも思えるくらいよく話した。そこでは彼自身話すことにより、自分をもう一度見つめ直していたようにも見える。
その話を追いながら、松田優作という俳優の精神的歩みを探ってみよう。
松田優作は、一九四九(昭和二十四)年九月二十一日(ただし戸籍上は一九五O年九月二十一日)、山口県・下関に生まれた。家庭環境はかなり複雑だった。
「一番影響を受けたのは、環境なんだ。うちの環境そのもの。遊廓に育ったからね。赤線、遊廓がダメになったあとも名残りがまだあって、それぞれの家々に個室があって、そこに女の人が住んでいるんだけど、夜になると出かけていって立ってる。それで客をひいて2階上がって酒いっぱい飲んで寝る。そんな中で自殺騒ぎがあってさ、それから痴情のもつれで刺したの刺されたのとかね。そんなのばっかり見て育ってるもんだからさ」(スコラ 85年10月24日号)
「昔はもうイヤでしょうがなかったです。ヤッパリ。なんなんだろうオレはと、生まれてこなかった方がよかったんじゃないかってネ。今思えば、ドラマチックやナーっていうサ」(With 85年1月号)
これが、松田優作が俳優として生きていく原点であり、彼自身の厳しさの背景にあるものだった。彼が俳優として生きるということは、同時にこうした過去をいかに対象化することができるかということだったのだろう。
松田優作が自分のことをはっきりと意識したのは、転機となった『陽炎座』を終えた時だった。彼はその頃、過去について、こう話している。
「生まれてきた生いたちとか、かなり厄介なあれだったものですから、そういう傷口みたいなものが、自分にとっての財産だと、そういうのでストロークを持ててきた時代もあったわけで……。そういう傷口を宝物にしていくことによって、その傷口を少しずつ切り売りしながら、自分を神秘的に見せたり、神話化していったりというようなことを、姑息に考えたり、やったりしていた時期があったと思うんですよ。だから、子供のころから、多分かなりの重さでのしかかっていた、そういうものの呪縛が断ち切れたときからでしょうね、生き方が変わってきたのは」(PLAΥBOY 85年12月号)
子供のころの松田優作は、俳優になりたいと意識していなかったとはいえ、近くに日活の映画館があり、全盛時代の日活アクション映画で石原裕次郎、宍戸錠、小林旭が活躍するのをよく見ていた。
「兄貴なんかに連れられて、学校に上がる前からずっと見にいっていましたからね。ああいう映画の中の世界に、端的に憧れを持ってましてね」(COSMOPOLITAN 83年1月号)
彼は、下関市内の神田小学校から文律中学、そして下関第一高校に進む。
だが、一九六八年、高校二年の時、突然に中退。母の姉が住んでいるアメリカ、サンフランシスコに渡り、シーサイド大学法律学科に入学した。
これは母が、優作を弁護士にしたいという願望からきていた。
「オフクロの姉がアメリカにいたから、“お前アメリカヘ行け!”って、そういうこと平気で言うんだから。その頃のアメリカなんて最果ての地みたいなところだからネ」(With 85年1月号)
もっとも、アメリカでは言葉も通じず、アルバイトに追われる每日で、挫折。翌年、日本に舞い戻った。
帰国した松田優作は下関に戻らず、東京で生活をはじめ、豊島高校夜間部を卒業後、関東学院大学に入学した。
しかし、その大学で、ニューヨークから来日したオフオフ・ブロードウェイの劇団「ラ・ママ」が上演したのを見て大きな感銘を受け、大学を一年半で中退してしまう。その後、岸田森の「六月劇場」で二年間の裏方を経験し、金子信雄主宰「マールイ」の研究生になり、一九七三年、文学座に入った。一期上に桃井かおり、同期に高橋洋子、そして一期下に中村雅俊がいた。
「デビュー前から東宝のあるプロデューサーと知り合い、時々社内試写に呼んでくれたりして、僕も映画のシノプシスなんかを書いていた。そこでそのプロデューサーから、『君は脚本家になりたいのかね』と聞かれて、『実は俳優になりたい』と答えたら、『今の撮影所は新人を採らなくなっているから、どこかの劇団に入った方がいいよ』とアドバイスを受けた。それで黒テントの前身の六月劇場で裏方をやったけど、黒テントになっても裏方やって、役者はできないわけよ。そこの役者の岸田森とか、草野大悟と、みんな文学座出身の人ばっかりなんです。結局ああいう風になるためには文学座入んなきゃいけないんじゃないかって、そういう感じ。文学座がどういうとこなんか全然わからないんだから。それで文学座受けて落ちて、しようがないからどこか、何も知らなかったから『マールイ』ってとこ入って1年いて、もう1回文学座受けて入った」(ビデオ・コレクション 88年6月号)
当時の文学座、とくに養成所は、新人俳優を鵜の目鷹の目で探すテレビ局のプロデューサーにとって格好のターゲットであり、いわば芸者の置き屋のような存在だった。養成所ならば劇団員とは異なり、舞台俳優特有の癖もついていないから新鮮な人材を発掘出来た。高橋洋子も田中裕子もここからデビューした。男優では、中村雅俊がそうだった。研究生の松田優作もこうしたテレビ局のプロデューサーの目に止まり、一九七三年七月、人気テレビ番組『太陽にほえろ!』の“ジーパン刑事”に起用された。
萩原健一の“マカロ二刑事”の後を受けた形であったが、百八十五センチという長身に加えて、しなやかな身のこなしとどこかニヒリスティックな独特な雰囲気で、たちまちお茶の間のスターとして受け入れられた。とくに彼が殉職したシーンは、初期の松田優作を語る上で、また、テレビドラマの歷史を語る上でも、忘れられないほど鮮烈な印象を残した。
テレビ・デビューと同じ年、映画でも、人狼伝說を題材にとった平井和正原作、松本正志監督『狼の紋章』のオーディションに受かり、不良番長役でデビューをはたした。
しかしこの時すでに松田優作は、はっきり意識した形ではなかったにせよ、これは自分が考えていた俳優としての仕事ではないと感じていた。
「自分の柄とか雰囲気とか、ピストル持って走ったりして、撃つことだけカッコよかったりすることだけ工夫してれば、何とか絵はつながると、そういう時期もありましたからね。そういう観客に失礼な時期が。だから、『太陽にほえろ!』のときは、役者じゃなかったんですよ。好きじゃなかったしね、あの映画は。自分のナチュラルな生理から言えば、ほとんどいやなところだったというか。人間関係とかね、実際に出ている役者さんなんかもね、ほとんど嫌いでしたからね。だから、『太陽にほえろ!』に入って5週目ぐらいで、もうぶったたいたりとかね。——助監督から、監督から、プロデューサーから、役者まで、全部」(PLAYBOY 85年12月号)
新鮮なアクションスターとして持て囃されたにもかかわらず、彼の中でくすぶり続ける不満は早くから露出していたし、そうした苛立ちは、ドラマの仕事をたんなる段取りとしてしか見ないスタッフに対しても向けられた。
一九七四年、澤田幸弘監督『あばよダチ公』では野良犬のようなチンピラ役、あるいは同じ監督で、公害の街を舞台にした日活児童映画「ともだち」にも出演した。
そして当時の話題作、ATG映画の黒木和雄監督『竜馬暗殺』では、原田芳雄演ずる坂本龍馬を狙う暗殺者として、中岡慎太郎役の石橋蓮司、その恋人役の桃井かおりという個性溢れる共演者に互して、強烈な印象を残した。
こうして順風満帆で進むかと思えたが、翌七五年の三月と七月に酒のからみでテレビ雑誌の記者を殴ったり、予備高生を殴るなどという暴力事件を起こし、マスコミにさんざん叩かれ、謹慎を余儀なくされている。
だが、松田優作は事件に押し潰されなかった。謹慎明けの七六年、岡本明久監督『暴力教室』で、暴力学園に赴任して不良グループと戦う教師役を主演。その後、七七年、佐藤純彌監督『人間の証明』に出演して完全に復活した。二十二億円という配給収入を記錄したこの作品で松田優作は、アメリカから日本を訪れた黒人の殺人事件を搜査するアメリカ帰りの刑事という、ドラマの展開を担う重要な役を演じた。
そしてそれは、後に一連の松田優作主演作品をプロデュースする角川春樹との出会いでもあった。
一九七八年、フリーランスの殺し屋・鳴海昌平を描いた『遊戯』シリーズとして知られている一連の作品の最初の作品、村川透監督『最も危険な遊戯』に松田優作は出演。疑獄事件にからむ政財界ボスの暗殺を請け負った殺し屋を演じて、一気にアクションスターとしての地歩を築いた。
村川透監督、松田優作主演コンビは、人気テレビ映画『大都会』シリーズの映画における再現であり、予算が三千万円という低製作費ではあったが、松田優作演じる無国籍風の殺し屋による荒唐無稽なアクション志向が、一部ファンから絶賛されることになった。
シリーズ二作目『殺人遊戯』では、暴力団相手の殺人請負業を、翌一九七九年の三作目『処刑遊戯』では、暗黒組織から外交関係者の暗殺を依頼されながらも組織に反逆する男、鳴海を松田優作は演じていた。銃の撃ち方や、暴力を発散する時の肉体のリアリティといい、松田優作のアクションスターとしての魅力に、当時の若者たちは魅かれていた。
『処刑遊戯』は、また、以後十年間にわたって松田優作が個人的に企画する作品のすベてを脚本化することになる丸山昇一との出会いでもあった。
「『遊戯』シリーズの始まりの時に黒澤満というプロデューサーとのいい出会いがあった。何と言ったらいいのかな~妙なフィルムノワールを作っていきたいという満さんの船出にお手伝いできたというか。こうして何本か手合わせしていくうちに、いい関係になり、自分からもどんどん企画を出すようになった。そういう意味では、この時期は、映画を色々な角度から見て、いろんなことを知ることのできた非常に密度の濃い時代でした」(ビデオ・コレクション 88年6月号)
最後まで松田優作の公私両面にわたって密接な関わりを持ち続けることになった黒澤満は、元日活の企画製作部長で、日活撮影所長も務めた。だが、一九七七年に退社。岡田茂東映社長から誘われ、東映セントラルフィルムのプロデューサーとして迎えられた。
日活時代、青春映画、アクション映画を主に手がけたことで、東映セントラルフィルムでも娯楽映画中心に企画を進めることになり、七八年、村川透監督『最も危険な遊戯』をプロデュース。テレビの『大都会PARTⅡ』でその存在に注目していた松田優作を、シリーズが終ったこともあって、東映での初プロデュース作品の主演に選んだのだった。
その後、現在のセントラル・アーツを設立、黒澤満は、東映洋画配給で娯楽映画を中心に次々にヒットを飛ばしていく。松田優作主演、村川透監督『蘇える金狼』(一九七九年)をはじめ、一九七九年、那須博之監督『ビー・バップ・ハイスクール』、澤井信一郎監督『早春物語』、一九八八年、生野滋朗監督『いこかもどろか』等があげられる。
プロデューサーと俳優という関係だった黒澤満が松田優作を預かるようになったのは、一九八一年、鈴木清順監督『陽炎座』の後であり、これは松田優作の強い希望によるものだった。それまで、松田優作のマネジメントは六月劇場、そして夢屋という事務所で行っていたが、松田優作は熊谷美由紀とともにセントラル・アーツが預かってくれるよう望んだ。本来、セントラル・アーツは、製作会社であり、俳優のマネジメントの会社ではないから、俳優を預かること自体常識的にはありえない。だが、黒澤満は、松田優作という、「付き合えば付き合うほど本物になってゆく俳優」にいわばほれ込んだ形で申し出を受けた。
異例の措置だったが、セントラル・アーツが映画製作会社であるため、スタッフには恵まれていた。そこから仙元誠三キャメラマン、照明の渡辺三雄をはじめとするスタッフとの関係も生まれていった。松田優作が、監督ばかりかキャメラマン、照明まで、自分の納得いくスタッフと仕事が出来たのも、こうした背景があったからこそだった。
松田優作出演作品は必ずしもセントラル・アーツがすべて関わってはいない。直接のプロデュース作品は『ヨコハマBJブルース』(一九八一年)、『探偵物語』(一九八三年)、『それから』(一九八五年)、『ア・ホーマンス』(一九八六年)の四本だけである。セントラル・アーツで出来る作品は引き受けるが、出来ないものは他社でやるという具合に決めるなど、黒澤満はあくまでも松田優作の意向を尊重した。
それは、単純なスターと事務所の社長という関係では割り切れない大きな信頼関係だった。松田優作がアーティストの部分で十分にその能力を発揮できるよう、つねに計らっていたのも黒澤満であり、松田優作が丸山昇一に自分の企画作品を書かせている時も、すべてに目を通し、力を貸していた。
しかし、『太陽にほえろ!』の時から松田優作の中でフツフツと沸きつづけてきた不満は、好評を得た一連のアクション映画に主演するうちに、消えていくどころかますます膨れ上がっていた。一本の作品を終えても、次に松田優作に求められているのは、再び同じようなアクション映画ばかりだった。
「はっきりした答えはわかんないんだけど、何か、こういうんじゃないんだというのが自分の中にあって……。だから、もっと後で『遊戯』シリーズなんかを村川透監督なんかとやっているときでも、いつも彼が言っていたことは、本当におまえはいつも不満とか、そういうことばっかり言っているけど、少しは安心したらどうなんだとか」(PLAYBOY 85年12月号)
日本映画では、一本興行が成功したとなると類型的な役しか持ってこない。だが、彼は俳優としてアクションをしていたのであり、いわゆるアクション俳優ではなかった。
その思いをよそに、『遊戯』シリーズの成功に注目した角川春樹が、大藪春彦の原作物を松田優作の主演でやりたいと、村川透監督『蘇える金狼』の製作に乗り出し、結果的に当時の配給収入で十億円を越す大ヒット作品となった。これは、昼は一流会社のサラリーマン、夜は稀代の悪党となり、会社乗っ取りを企む一匹狼を描いた作品で、『遊戯』シリーズの延長線上と言ってよい作品だった。以後、角川映画は『野獣死すベし』『探偵物語』と続く。
一九七九年、松田優作は日本テレビ系列のドラマ・シリーズ『探偵物語』に主演。このシリーズは、視聴率二十五パーセントを記録する人気番組となった。松田優作は、サンフランシスコで五年間刑事を務めたアメリカ仕込みのガンさばきとテクニックを見せる私立探偵役だが、アクションを見せながらも女性には甘く、喧嘩も強くないという、どちらかといえばコミカルな部分を狙った役柄を演じていた。
そして、シリーズ第一話、丸山昇一脚本『聖女が街にやってきた」に行先不明の高校生役で出演した当時十七歳の熊谷美由紀と松田優作は出会った。
松田優作が『遊戯』シリーズを経てきて、自分が考えてきたこと、「たんなる格好よさと怖さで見せるヒーローではない役」を形象し、思い通りに演じたのは、一九八〇年の『野獣死すベし』(村川透監督)においてである。
彼は、大藪春彦の主人公・ベトナム帰りの孤独なキャメラマン伊達邦彦を、原作とは全く違う感じに作り上げてしまった。四本の奥歯を抜いて顔をそげさせ、体重を十キロ減量した上で役に取り組んだ。
この作品は、一九五九年に、須川栄三監督、仲代達矢主演で映画化されているし、大藪春彦のハードボイルド・アクションということで、強烈にイメージが固まっている。まして、演ずる松田優作といえば、人気抜群のアクションスターである。
だが、この時期「普通にゃれる俳優」としてのスタンスを求めはじめていた松田優作は、既成のヒーローのイメージとは全く逆のことを考えた。
「とにかく『野獣死すベし』で、伊達のね、肉体を全部捨ててしまおうというのがあって、だから街中でひっそりしている男を演じるためにはどうしたらいいのか、ってね。真剣にね、足を五センチ切ろうかと思った。贅沢な悩みなんですけど、ずっーとその辺から、肉体に媚びなくなってきた。賭けだったんですね、自分の中では、『野獣死すべし』の伊達邦彦役っていうのは。体重を増やしたり、身長を低くするというのは、美意識を変えなきゃいけないでしょ。ところが、その美意識さえも捨てることができるっていうのは、まァ、やばいんですけどね——」(STUDIO VOICE 82年6月号)
脚本家の丸山昇一には、思いもかけないアイディアを次々と出していった。
丸山も言う。
「たとえば、彼の演ずる伊達邦彦は女を抱かない。拳銃を持っても震え、手も白魚のよう。また、振り返る時はゆっくりと。これが大藪春彦の主人公かと思えるほど、僕も黒澤満さんも『エッ!』となるわけです。でも、存在の不気味さを出す時に、もはやこわもてでやる時代ではないだろう。確かに彼が怖い顔をすれば怖いけれど、それでは面白くもなんともない。それを逆手にとって、日常の視点の中で怖さを出せないかというのが彼の読みでした」
それは、
「撮影終了後、傲慢にも、僕が演じるものはもうない、そう思ったんですね」(MORE 83年2月号)
というほどであり、スーパーマン的ヒーローとは逆の“生身の肉体を持たないヒーロー”を演じたことで、彼自身はこれまでのアクションヒーローを脱却したという満足を得た。
しかし、松田優作の場合、満足したということは次にまた新しいものを作ることを意味していた。いわゆるアクション映画はこれで最後のつもりであった。アクション俳優としてやり終えたということは、次のステップを踏むための足がかりにしかすぎなかった。
「ここまできてしまうと、自分でもわからないけど、映画の中でも、もっと闇の奥深いところに突き進んでいくんじゃないかという気がしている。もっと言えば、お客の呼ベない作品の方向に、どうしょうもなく走っていくんじゃないかと思うんだよね」(週刊明星 80年11月号)
『野獣死すベし』という作品は、『太陽にほえろ!』以来、欲求不満を感じながらもアクションスターとして走ってきた松田優作が、アクションを自分の内なるものとして見つめ直し、いわゆるアクション映画の状況の中でも、俳優として納得できた作品だったといえるだろう。
『野獣死すベし』で、自らの方向性を見出した松田優作は、一九八一年、自らの原案による『ヨコハマBJブルース』(工藤栄一監督)を自信作として世に問うた。
ここでの松田優作は、売れないロックシンガー兼探偵で、親友の死の謎を追う男“BJ"に扮しているが、それまでと違って演技は抑制されており、拳銃は持たず、喋らず、眉も寄せない。しかも、監督・工藤栄一、撮影・仙元誠三のコンビが作り出す映像は、独特の世界を醸し出していた。おそらく松田優作は『野獣死すベし』からさらに発展した形で自らのアクション俳優からの脱皮を実感し、俳優として新しい道筋を見出したと感じていただろう。
しかし演技に関していえば以前とは違うものを求められるようになってきたのである。そのことを徹底して思い知らされたのが鈴木清順監督『陽炎座』だった。泉鏡花原作のこの作品で松田優作は、大正から昭和に移り変わる時代を舞台に、美しい謎の女に翻弄され生死のはざまを彷徨する新派の劇作家・松崎春狐の役を演じなければならなかった。だが、彼は、
「演技をすることっていったら、僕にはもうピストルを持って走ること以外できないんじゃないかって……セリフのひとつも満足に言えない」(MORE 83年2月号)
とまで悩んだ。彼がアクションスターとして積み上げてきたものはこの映画の中ではなんの役にも立なかった。しかも鈴木清順という監督はそうした俳優の悩みにいちいち付き合わず、撮影自体も、外からはいったいなにをしているのかよく分からないという独特の現場だった。
「苦痛でしたねえ、仕事中は。鈴木清順さんは遊泳感覚みたいなものでしゃベるんだけど、よくわかるし、大好きでね。自分がそこへ上れることを想像しながら、夜も眠れなくなるほどうれしくなったりした部分があったんだけど、自分の熱い思いとのギャップがどんどんふえてきて……。結果として、松崎春狐という亡霊を追い掛けていく、あの情況のまんまをやっていたな、と。
非常に遊ばしてくれましたよ。場所は与えるけど、遊び方は勝手だよっていう人だから。そこは自由でしたよ、かなり。それにしてもね、せいぜい砂場遊びで終わってしまった。すぐそこにブランコがあるのに、それにも乗れなかったという、ね。もう、映画なんかなくなってしまえと思ったぐらいでねえ」(JUNON 83年6月号)
ベつのインタビューでは、こうも言っている。
「頭の中では、それがわかっているつもりなのに、いざ、それを役者として表現しなきゃいけなくなった時、自分にはそれができない。やればやるほど違っていっちゃうんですね。何をやっているのか、本当にわからなくなった時、監督に“それでいいんです”と言われて……それでもわからなかったんですね。もう、くやしくてね」(MORE 83年2月号)
役者をやめようと思いつめたのも、この時だった。
「持っていた砂は手からざーっと落ちていくし、そのときに、ツーンという感じで音が聞こえるぐらいに、自分のいる場所がわかった。だから、あれでやめようと思った。役者を」(PLAYВОY 85年12月号)
まわりの共演者は高い場所で遊んでいるのに自分だけが地面に茫然と立ちすくんでいるという感覚、これは俳優・松田優作をぎりぎりのところまで追い込んだ大きな危機だった。
さらに私生活上の悩みが加わった。テレビの『探偵物語』で出会った十二歲年下の熊谷美由紀との恋愛である。結局、彼は美智子夫人と一人娘を残し、この年の暮れ離婚する。
「30になろうかならないかという男が、子供とも別れかみさんとも別れ、ということをおれもやったわけだけれども、そっちの問題の方が、これからの問題としては大きいのね、自分の過去がどうだったこうだったということよりもね。そうすると、かさぶたのようになったものをはがしていく作業というよりも、それは自然消滅していく問題であって、問題は常に今、生のものという、その生の問題を見つめていくことが、より自分を前に向かわせるという、そういう何か変なヒントがね……。
役者とは何かとか全然考えないで、とにかくかみさんと子供と别れた時点で、その当時18歳ぐらいの女だったと思うけれども、それと生活することしか考えなかった。——で、そのために生活の一個ずつを新しく拾い集めていく作業とかね。
『陽炎座』(一九八一年)。あの時期、芝居がわからなくなってしまったとかね。はっきり、自分の中で自覚症状が出てきた。芝居ができないなとか……。それがちょうど重なってしまった時なのね」(PLAYBOY 85年12月号)
『陽炎座』の体験は、松田優作に革命的ともいえるほど大きな変化をもたらした。振り返れば、これまで松田優作は心酔していた原田芳雄の演技の真似をすることで自分の演技の核を作っていた。だが、もうそれでは到底通用しない、というより自分自身が納得できなくなってきた。
「あるとき、ふと気がついたら、もうマネするものがぜんぶなくなっちゃってたんですよ。で、パッと後ろを振り返ってみたら、ずいぶんとねえ……自分の中で、——例えば箸1本持つようなこと、ご飯を食べたり、男と女の間のほんの小さなこと——そういった日常生活でのコマゴマとしたことをずいぶん取りこぼしてきちゃったな、ということがわかってきたわけで、それが自分自身の問題としてはね返ってきちゃったんです」(COSMOPOLITAN 83年1月号)
「相手役の女優の手に触れただけで、思いが通い合うような、そんな演技」を彼は求めはじめたのである。
こうした悩みをかかえながら、松田優作は一九八二年一月放映の向田邦子原作によるテレビドラマ『春が来た』(脚本・監督・久世光彦、共演・桃井かおり、三國連太郎)に出演し、ある可能性を見出した。それは、彼がアクション映画に出続けながら不満を持っていた根底にあるものであり、アクションのみではどうしても忘れられがちになる日常性の発見だった。
「僕は観念的なもの、意識的なものを、自分の芝居に取り込みすぎていたんですね。で、一度自分の中に取り込んだものは捨てられない。そして何かを演じる時につい、僕はあれもできる、これもできるってふうになってしまう。頭ばっかり大きくなっちゃってね。
日常生活のディテールの中に、ドラマがあったりするでしょ。僕はそんな簡単なことに長い間気がつかないでいたんですね」(MORE 83年2月号)
「テレビドラマは向田邦子さんの出現によって変わったっていわれるのは、別に一回で終われる話なんだけど、生活の中の非常に暗い部分とか苦しい部分みたいなものを、13回なら13回使って見せていくっていう、ね。つまりたとえば、あの人のかき方っていうのは、ものを食べる作業ひとつにも、ものすごい時間がかかってしまう。これはやっぱりちゃんとやらなければいけない、と。自分の中で。しかも、テレビは、パッとひねったら見られちゃうでしょう。だから、よけいに怖いという、ね。うそがすぐ目立っちゃう」(JUNON 83年6月号)
向田ドラマヘの出演により、松田優作の中でこうした新しい指標が出来たとすれば、それが具体的な形となり演技を支える力となったことを見せつけたのが、一九八三年の森田芳光監督『家族ゲーム』だった。
父、母、高校一年の兄、中学三年の弟という家庭に、フラリと家庭教師がやってきて、小さな波紋を投げかけるという、なんの変哲もない物語だった。だが、吉本という家庭教師役の松田優作がなぜか艀に乗ってきたり、一家が食事をするのにテープルで向かい合わず四人一列に並ぶとか、こく普通の日常生活を描いているにもかかわらず、どこか不思議な感覚に満ちた暗示的な映像に仕上がっていた。
森田監督はこれまで松田優作が付き合ってきた撮影所出身の監督とは違い、8ミリの自主映画から出発しており、既成の監督にはないみずみずしい感性の持ち主だった。それだけに新たな方向を模索していた松田優作とは新鮮な出会いともなり、日本映画の新しい方向を示す重要な作品を生みだすことができたのである。
この作品は、この年のキネマ旬報作品賞、主演男優賞、日本アカデミー賞優秀主演男優賞をはじめ、賞という賞を総ざらいした感があった。なかでも特筆されるべきは、この作品を支え、俳優として見事に昇華された形の演技を見せた松田優作だった。
いわば血を流しながら日常生活と格闘していた松田優作のこだわりが、森田演出を得て、ひとつの作品として結晶したともいえよう。この作品では食事が大きなテーマだったが、それについても、彼ははっきりした見通しを示す。
「食うことってのはね、エネルギーいることでしょう!?1日の中でかなり重要な時間だしね。1日をきざむ時に、きょうは何があったのかってことになると、あの人に会ったとか映画見たとか、ふだんなかったことの方がドラマになるけど、実は一日一日、1食なら1食、3食なら3食、必ず食べるってことをどっか忘れてるでしょ。きょうは何を食べようかなァと考えるだけでも相当なエネルギー使ってると思う。ほとんど性格が出てきたりね」(バラエティ 83年)
『家族ゲーム』以降の松田優作は、自分の演技について徹底して分析し日常性のディテールまで探っていくことで、俳優としての自己を高めようとする道を歩みだす。それは、言葉をかえれば自分自身を空の状態にすることでもあった。
続く根岸吉太郎監督『探偵物語』で、薬師丸ひろ子を相手にドジな探偵役を演じた時にも、彼はそうした志向性を語っている。
「オレはまだ発展途上人なんですよ。かつて積み上げていったアクション・スターとしての自分が、邪魔つけでね。やたら飾りばっかりたくさんつけて……、今はひとつひとつ、それをはずしていく作業をしているわけです。まだ33歳だから間に合うよね」(NON・ON 83年10月号)
「役者として、一回全部捨てたいという気分なんだネ。すてればすてるほど、今まで見えなかったごく普通のことが見えてくる。ごはんを食べることとか、夜中に女から電話がかかってこなくてイライラしているとか、首のあたりがかゆいからボソボソかいているとかネ。ごく普通のこと、ちゃんとやれなきゃダメだという感じがするね。そうなるには、今まで全部しょいこんできたものを全部すてないとできない」
とも彼は語っている。
一九八五年、松田優作は再び森田芳光監督とコンビを組むことになった。原作は夏目漱石の小說という意表をつくものだった。二人は『家族ゲーム』を終えてからもう一度組むという話になっていたが、『家族ゲーム』がアメリカでも評判がよかったことも受け、新しい映画を作ろうという話が具体的にスタートしたのだった。
当初は、オリジナル脚本で核シェルターをテーマにした作品を作る予定だった。しかし、膨大な予算がかかるため、急遽練り直すことになった。そんな中で、森田監督が年をとったら作ろうと思っていた作品があがってきた。それが『それから』であり、逆に新鮮な企画となった。
「人間を描くなら、ゆるがぬ作家の作品を掘りさげたい。文学作品の心理描写をどこまで映像化できるか」
という森田監督の挑戦に松田優作も乗り、テレビドラマを手がけていた筒井ともみを引っぱってきて脚本を書かせたり、キャスティングを含めプロデューサー的役割も果たした。
この漱石の作品——妻ももたず、父の財産に寄食する高等遊民である代助が、親友平岡の妻三千代との恋のために、肉親も親友も、自らの哲学も捨てる——だが、松田優作はどのような役作りを行ったのか。
「女がいて、その女が自分を好きになろうとしているのがわかっていて、それを適当にあしらいながら、一方にはその女のことが本当に好きな男がいて、それもわかっているような三角関係というのは、非常に気持ちがいいものですよね、男にとって。そういう三角関係として成立していた悪意としてのゲーム性みたいなものが、三千代の兄の死によって、思いがけず早く、何らかの結論を出さなきゃいけなくなってしまった。天涯孤独になった三千代に手を差し伸ベれば、自分の高等遊民としての快適な生活は犠牲にしなきゃならない。ここは平岡に恩を売りながら押しつけてしまえと。でも、いずれ三千代はおれのところに戻ってくる。そういう、あくまでも自分が優位に立つ悪意みたいなところで手玉にとっている。
それに対する罪の意識があって、それが顕在化してきて、おまえは人間じゃないなって、自分のことを思い始めたときに、自分の心臓とか、脳の状態というものが異常に気になり始めたというふうに解釈をして、かろうじて代助という男の皮膚の中に入り込めたかな、という感じですね」(PLAΥBOY 85年12月号)
こうした解釈にもとづき、松田優作は自分の肉体もそれに合わせて変えていく。
「原作を読んで、肌にうっすらと脂肪がのっているという、およそ精悍さみたいなものとは裏腹のイメージで、30いくつという年配にもかかわらず坊ちゃん顔であるということ、まずそこだけはおさえておこうと思って、決心して太ろう」(同前)
結果として八キロ太って撮影に臨んだ。
この時の森田監督とは、『家族ゲーム』での出会いで、松田優作自身の好きな言い方でいえば、「共犯関係」が出来たことで、かなり突っ込んだことまで話し合えるものだった。
「ラッシュなんか見て、人は全然気づかないような1ミリぐらいのずれみたいなものが、自分にはメートルとか100メートルぐらいのずれになってきたような気がして、そういうのを監督に言う。監督はわかるんだけど、ほかのやつは何言っているのかわからない。だから話さないし。監督に話したら、監督も、確かにそうだとか言っているうちに、ふたりで落ち込んでしまうのね。それをまた次の日に引きずり上げるのがね。それも何か、1ミリのずれとか何とか、そういうふうに考えてない人から助けてもらわないと、大丈夫よ、とか言ってもらわないと……それぐらい、異常なスローニュアンスでできたものだから……」(同前)
“ニュアンス”という言葉は、彼が大事に使っていたキーワードだった。言葉では言い表せない差異の感覚ともいえるだろうが、『華の乱』の時の彼の言い方を借りるならば、「1と2の間にコンマを入れる」そのコンマの世界のことだった。おそらく松田優作が「スロー二ュアンス」と言ったのは、演技としても微妙な部分を一つ一つ確かめながら作ったということだったのだろう。
結果として出来上がった作品『それから』は、夏目漱石の解釈としてもユニークな上質の作品で、『家族ゲーム』に続いて、キネマ旬報作品賞、監督賞を得た。
松田優作は主演男優賞をのがしたものの、その演技力に疑いをさしはさむ者はすでにいなかった。役を考える時の洞察力の深さは次の発言でも分かるだろう。
「いずれにしても、何もかも捨てて三千代を得たにもかかわらず、三千代が離れていくということはわかっていると思うんですよね。代助はわからないかもしれないけど、いくつか女と地獄をやってきた男にはわかるでしょう。そうすると、それがまたゾクゾクするんだよね、おれは。かわいそうでね。代助が」(同前)
この作品は、プロデューサー的役割を松田優作自身がはたし、音楽も自分で選んだ梅林茂を起用して成果を上げ、周囲の評価も高かったため、恐らく彼自身いちばん愛着が持て、しかも自信のある作品となったと思われる。
一九八六年、松田優作は、狩撫麻礼原作のコミック『ア・ホーマンス』の映画化に主演すると共に、初めて監督を手がけた。新宿歌舞伎町に現れた記憶も過去も持たない“風”(=松田)が暴力団抗争のはざまで超人的な活躍をするハードアクションである。セントラル・アーツのプロデュース作品ということで、松田優作はプロデューサー的な立場で製作に関わっていたものの、監督を務める予定ではなかった。
だが、実際の撮影に入ってみると、事前の話し合いと実際の撮影とで、監督の映画を撮る姿勢に松田優作とのズレが見られたため、監督は降板し、黒澤満の強いすすめにより松田優作が急遽監督も兼ねることになり、十七日間という短期間で撮り上げたものである。
この作品には松田優作が傾斜しつつあった宗教的な問題、あるいは映画に対する姿勢といったものが色濃く出た。
「だれの中にも、記憶をなくしてしまいたいというあこがれがあると思う。だって、人生をやり直したいと思ってても、記憶が白くならないかぎり、できないから。どうしても、今までの常識ゃ道德観念にひきずられてしまうからね。
だから、この映画の主人公“風”という男を、ただの記憶喪失者ではなく、レプリカントにしたかった。脳だけ人間で肉体は機械というロボットにね。
機械だから、皮膚感覚とかなくて、たとえば銭湯で1時間もお湯につかっていても、“熱い”と感じることができない。汗ひとつ流れない。人間なら、ちゃんと“熱い”という皮膚感覚があるのに。でも、その感覚はレプリカントである“風”もかつては持っていただろう、それを確かめる旅というか、人間回復の旅をしているという、ストーリーなんだ」(JUNON 86年4月号)
こうした松田優作の強い思い入れによって、この作品はアクション映画とはいえ内容的にはるかにその枠を超えたものになった。たとえば、暴力団幹部役の石橋凌が命をかけた大仕事をする時、恋人役の手塚理美の手作りの夕食をとるシーンがあるが、それが典型だろう。これは松田優作が、当初ファックシーンだったものを変えたものだった。
「肉体を使わないで、ホントに抱きしめ合っているのを表現できないかと思って。——普通の生活の中でファックができないか。常に緊張の中に身を置いていると、とんなに愛しているものでも、なかなか見えなくなってしまうもんなんですよね。それがこれで死ぬかもしれないと、心の内面に向かったときに、初めて、アッ、オレは每日こうゃってあいつが作ったメシ食っていたんだなと思う。こんなにおいしいものだとは思わなかった……」(SOРHIA 86年10月号)
ここで見られるのは、俳優の演技を日常の細かいニュアンスの中でとらえようという姿勢であり、形がアクションだろうが、SFであろうが関係なかった。監督を引き受けたというのは、製作上の理由がもちろんだが、映画を俳優とは違った角度で見るためのチャンスでもあった。松田優作はこの作品で初めてロック・グループ“ARB”のリード・ヴオーカル石橋凌を起用し、それは石橋自身の鮮烈な俳優デビューともなった。
『ア・ホーマンス』後、松田優作は、『人間の約束』(一九八六年)を撮って久々に復活した吉田喜重監督の『嵐が丘』に主演する。
エミリー・ブロンテ原作の『嵐が丘』は、これまでウィリアム・ワイラー監督やルイス・ブニュエル監督でも映画化されてきたが、吉田監督は、舞台を日本の室町時代に置き換え、ヒースクリフならぬ鬼丸の役に松田優作を据えて、田中裕子演じる一族の娘・絹との激しい恋を描いている。荒涼とした山岳を舞台に物語が展開され、鬼丸が絹の墓を暴き、腐敗した死体を抱くシーンなどはすさまじい映像になっていた。
この作品を監督するにあたって吉田喜重は、能という演劇的表現の生まれた時代が舞台になっているということで、出演者全員に能の所作を訓練させて撮影に臨んだ。
松田優作も清水寛二について能を勉強することになったが、それは能そのものというより能のニュアンスを身につけるためだった。
「例えば、座っている状態で手を上げるとこれだけで風が出ますね。空間に空気を入れたりとか、少しそよがすとか、そういうのを異常に集中して感じられるのが能だと思うんです。あの時代は空間としての高さがすごいんですよね。ほとんど平地だから、建物も小さいし、横に並ベた感じでしょ。そこに立ち上がったりするときに、空間の高さをどこで感じるかというと、建物じゃないですよね。もっともっと先の宇宙とか、そういうものから引っ張られているような意識というかね。そういうものを能から感じるんです」(キネマ旬報 88年6月上旬号)
彼が吉田監督との仕事を引き受けたのは、これまで同世代の監督とは映画全般にわたり一種の共同作業という形で関わってきたのだが、ここでそれまでとは違った立場で映画に集中したいという欲求のあらわれだった。
「徹底的に自分が役者だけをやれる、特に自分に対して非常に厳しく見つめてくれる監督さんじゃないとつらいですね」(同前)
ということで、映画俳優として自己をさらにグレードアップしょうとしていたからだった。
だが、実際の撮影に入って、ライティングに時間がかかり、事前のコミュニケーションとのズレも感じはじめた彼は、吉田監督に「できない」と話した。
「もし、この時に『まあまあいいじゃないか、そんなこと』などと言われたらこの映画、降りてましたよ。でも監督はその日の撮影を中止にしてくれましてね、色々現場的な観点からこっちから質問したりして話し合った結果、兎に角、自分が監督の世界の中に入っていけばいいんだってことが決心できた」(ビデオ・コレクション 88年6月号)
この時、松田優作が感じたのは、映画を作る上で優れた監督というのは俳優が考える以上に多くの視点で物を見ているということだった。
「だから、監督がしてほしいものと、誤差はかなりあるんでしょうけどね。僕は自分がしたいものはやめました。監督の指示するものに向かっていきたいと。自分の技量の足りなさとか、力のなさがよくわかるし。それを噓ついて埋めちゃいけないし、どうやって監督の指示に自分が意識的に入っていけるか。
でも、あんまりしゃベらなくても、監督の立居振舞で、あ、こうしてほしいんだなとか、少しずつわかるようになってきた。そうなってからですね、現場がだんだん面白くなってきたのは」(キネマ旬報 88年6月上旬号)
作品完成後は、カンヌ国際映画祭出展作品のたの。吉田監督、田中裕子と共に松田優作もカンヌに赴き、帰国後すぐ、深作欣二監督の『華の乱』に臨んだのだった。