第七章 「わたし/あなた」から「彼」へ ——仕事としての執筆

 第四章以降、私は「自己表現的創作」について取り上げてきた。その創作は次のような前提のもと行われる。第一に、作品とは形式でも内容でもいいがその瞬間の自分そのものの具現であらねばならず、自分と作品の間に割り込むものは何であれ可能な限り無にするべきである。第二に、作品はそれ自体で誰かに受け入れられるべきである。つまり「この作品は○○の伝統からすると××」だとか、「△△の見地から見て価値がある」等のあらゆる解釈を経由することなしに、鑑賞者がどのようにしてか作品を深く肯定するのでなければならない。自己表現的創作者はこの二つを究極目標とする。ついでに言えば、その目標が叶ったと一瞬でも思うことは、創作者が得られる最高の幸福だと考えられている。

 こうしたアイデアは、どうも年若いアマチュア作家たちの間で生まれやすいように思われる。たしかに私が見てきたサンプルはわずかだ(ここまで取り扱ったのは二作品である)が、だからといって『DDLC』のユリ・ナツキや『かたわ少女』の琳に見たような創作の姿勢を、単に彼女たちの性格や人生経験に還元することは乱暴だろう。彼女たちが置かれている社会的な二つの条件について、多少考えてみる必要がある。

 第一に、彼女たちはひとまず日銭の心配はしなくともよい学生という身分である。これによって、彼女たちは生活のための諸々の雑事を免除されて、純粋な作品制作時間を確保できる。保護者の庇護の下を離れ、自分の糧を自分で調達しなければならないことになれば、その糧を得るための行動と、創作行為との間で時間の調整が必要になるだろう。もちろん、学生であっても課題や予習、人づきあいなど、やらねばならないことは山ほどある。しかし究極、そんなことを一切しなくとも生活が行き詰まることはない(1)。特に、もともと学校に居場所がない人間にとって、勉強を怠けて落ちこぼれることなど大した痛手ではない。むしろ、助け合ったり切磋琢磨しあったりする友人もいない環境で勉強を続けたところで苦痛のほうが大きいだろう。そういうわけで、ある種の学生は創作を生活の究極目標に掲げるのだ。それは、勉強か運動か遊びかという三大分野しか持たない周囲の学生たちとの差異化戦略でもあるだろう。彼ら彼女らが創作を遊びとは異なったものだと考えているとしてだが。

 第二に、彼女たちは自発的に、誰に頼まれることもなく作品を制作している。つまり、いつまでに作品を形にしてほしいとか、作品はある分量の範囲内におさめてほしいとか、作品のテーマは何であるとか、誰かに注文を付けられることがほとんどない。いうなれば自分自身が注文主だ。納期も、主題もいつ変えようと思いのままだ。こうなれば、自己表現的創作者が、自分自身の輪郭をとらえようとひたすら省察することを止めるものは何もない。その省察を中断するのはせいぜい疲労や眠気といったものしかない。しかし、彼女たちはそれを障害とは考えない。むしろ、お勉強のためにテーマや材料や作品規模を指定してくる美術教師や、イベントのために指定日までに何らか書け(描け)と言ってくる仕切りたがりの部員、食事や入浴をしろと声をかけてくる同居親族こそ呪うべき存在なのだ。

 これらの特殊な条件のもと可能になっている「自己表現的創作」は、学生だけではなく趣味で創作を行う人の創作観に近い。彼ら彼女らは、自分たちが行っている創作を、生活のために、あるいは将来のために課される退屈な勉学や仕事とは最も遠いものだと考えている。あるいは、その行為が実利を度外視しているとみなし、世にある産業とは一線を画する何かだと考えている。

 だが一方で、世の中には作品を作ることによって自分の食い扶持を稼いでいる「プロの創作者」たちがいる。そして、プロたちの創作観は「自己表現的創作」のそれとは全く違うとは言えないものの、そこまで思弁的ではない。プロたちにとって、作品執筆は部活動でも同人活動でもなく、目的を同じにする人々の事業活動である。この中で、作品を作者と単に同一視するような創作観は生き残れない。

 芸術表現が産業になっているという社会的事実に目を向けること、さらに、あらゆる創作物は作者がたった一人で制作するのではないという単純な事実に立ち返ること、「自己表現的創作」を一歩引いて見つめるためには、これらのことが必要になるだろう。

他人のために作る人

 芸術作品を作ることを仕事にするとはどのようなことか、『アルテ』というマンガ作品は多くの示唆を与えてくれる。

 この作品は十六世紀初頭のフィレンツェを舞台とし、当時の芸術家やその弟子たちの姿を描写するのだが、そこでは「自己表現としての創作」などにはほとんど誰も興味がない。当時、芸術を志す者たちの頭にあったのは、自分で自分の食い扶持を稼ぐための手段を得なければならないという意識である。絵画や彫刻を作れるようになることは、その手段を身につけることだった。

 プロの芸術家が「自己表現的創作者」と明らかに違っているのは、彼らはまずもって他人のために描いているということである。彼らは頼まれもしない作品を量産してギャラリーに並べたりはしない。彼らは必ず依頼主から注文を受け、その注文に従いつつ作品を作り、作品を納品することで依頼主の要求を満たし、その対価を得る。つまりプロの芸術家が努力して作品を作る目的は、第一義的には依頼主を満足させるためなのである。勿論間接的には、金を得るためであり、その金で生活をするためであるが。

 例えば、『アルテ』一巻の次の場面を参照しよう。プロの画家であるレオのもとに弟子入りして半年、初めて絵の制作の一部を任されたアルテは、まず担当する背景の素描をするが、レオに一向にOKをもらえず、「このままでは親方に迷惑が掛かってしまう」と訴える。その言葉にレオは一瞬面食らったように固まり、彼女に次のような言葉を返した。

「まあ… 適当なものでOK出してもいいんだがな

所詮 背景… しかし

そのほんの少しの違いで客の満足度が変わるかもしれない

なあ アルテ

お前は… 誰のために描いてるんだ?

何を考えて描いてる?」

(1巻121頁)

 この言葉を受けて、アルテは次のようなことに思い当たり、自分を恥じる。

そうだ…

私が考えるべきは

絵の向こうにいる 依頼主のことだけだったのに…

私は…——

自分のことや レオさんのことばかり

考えていた (1巻 122~123頁)

 レオが、アルテの訴えに面食らったのはなぜだろうか。それは、絵を描くときに内輪の人間関係や自分の貢献度合いに配慮するなどというのが、彼にとって思いもよらない発想だったからだ。そんな点にいくら心を砕こうとも、最終的に客が作品に満足しなければ依頼は失敗である(彼はそこまでは言っていないが)。したがって、彼が絵を描くときに考えるのは「どのようにしたら注文主の満足いく作品を作れるか」ということだけである。彼らは依頼してきた他人のために絵を描くのであり、決して自分や自分の同僚のために描くのではない。自己有用感の確認や、望ましい協力関係などの余計なことは脇に置くべきなのである。

 このように他人のためにものを作る当時の職人たちにとって、作品の技法や材料や主題を自分の興味に従って決めるということもありえなかった。美術史家ブルース・コールの『ルネサンスの芸術家工房』に示されているように、芸術家たちは受注者の非常に詳細な注文に応じ、その注文に忠実に作品を制作したのである。これは、『アルテ』の作中でも解説されている通りだ(2巻159頁)。職人たちにも得意不得意はあったにせよ、その技法や主題はできるけどやりたくない、というのは通用しなかっただろう。

 また、芸術家は絵だけ、彫刻だけの製作を専門に請け負うということは稀で(これも『アルテ』上で指摘がある)、多様な制作に携わった。彼らは肖像画などのほか、ベッドや日常雑貨の制作、装飾品や武器・兵器の設計まで幅広く行っていた。すると当然のことだが、自分の作るものが何を目指しているかによって、作品制作の理想も変わってくることになる。つまり、彼ら職人が作るべき優れた作品とは、作るものがベッドなら耐久性があって寝心地の良い品であり、壁画なら建物の形や雰囲気に調和する作品であり、礼拝に関わる品なら人を厳粛な気分にさせる作品だったことだろう。芸術作品はそれ自体で役に立たなくともいいとか、そもそも作品制作の理想がそれを作る職人自身に由来するなどという考えは、職人たちにとっては馬鹿げたものだったに違いない。

 自己表現的創作者がしばしばこだわりをもつ「独創性」を追求することも、中世の職人たちにとってあまり得策とはいえなかった。当時の作品は必ずと言っていいほど共同で制作されるものだったから、むしろ職人たちにとっては巧みな模倣の技術こそがもっとも重要だった。共同で制作するためには、担当者それぞれの担当部分が互いにある程度の統一感を持つようにしなければならないからである。

 また、当時の職人たちは、黙って絵を描いたり木や石を削っていれば一人前になれるわけではなかった。『アルテ』の中では、親方であるレオが契約書の作成や会計などの事務全般のスキルを持ち、顧客への対応や注文についての交渉も行ってきたことが描かれる。次の台詞からするに、もちろん仕事を得るための営業活動もしているだろう。

「職人ってのは良い作品を作ることだけが仕事じゃない… もちろんそれも大事だが

それ以上に物を売って生きていくためには必要な事がある

十分な仕事を手に入れることと その仕事で利益を得られるようにすることだ」

(2巻 185頁)

 営業、顧客対応、条件の交渉といった場面では、今も昔もある程度の感情の制御は必須である。職人の仲間内では、無愛想で剣呑な振る舞いで通っているレオも、客の前では営業スマイルを用いることに躊躇はない。このような制御は単に仕事上必要な一つの技術であって、営業スマイルがありのままの自分自身を毀損するものだとか、本来の自分を隠すことだとかいう考えは彼の頭に上ることはないのである。

 以上のように、かつてルネサンス期に画家とか彫刻家とか呼ばれた人々とは、自己の霊感をそのまま世の中に具現化しようとする者などではなかった。それは、私たちの時代にも数えきれないほどいる職人を意味していたのである。

 生産者としての誇りを持って、注文者の意図にかっちりと適合した商品を創り出し対価を得る職人の創作観、いわば「生きる手段としての製作」を『アルテ』を参照しつつ確認してきた。このような姿勢は、現代になっても職業作家やデザイナー、建築家、あらゆる職人のもとで受け継がれていると私は信じる。モラトリアムが伸びに伸び、職業訓練が遠のき、当面子どもでいることを許されている人たちが、自己表現というアマチュアリズムによってどれほど吹き上がったとしてもだ。『アルテ』の職人たちの生き様に現代日本で真摯に働く人々に通ずる姿勢を見ようとしないのは、この作品を単なる異国趣味、懐古趣味の絵本に貶めることである。

 私に職人の知り合いはいないので、現代でもこの生きる手段としての製作が行われている様子を生き生きと語ってみせることはできない。したがってこれからは、自己表現的創作ではない「仕事としての執筆」の現代の姿を確認するために、プロのマンガ家としてマンガを描く作家を主人公にしたマンガである『うそつきラブレター』を読み解いていきたい。

市場の要請

 今も昔も、プロの作家にとっては、作品は純粋な自己表現ではありえない。これは作品と作家の間には距離があるということを意味する。この距離の認識が『うそつきラブレター』の基本にあることは明白である。実際、作品全体を貫くかのように、次のような箴言が冒頭と終盤に二度提示される。

どうか まちがえないでください

作家と作品は違うのだということ

(上 6頁および下 116頁)

作家はしばしば作品を自分の全てと誤解する。しかし先に述べたように、売り物としての作品は必ず誰かの注文を満たすものであり、現代日本におけるマンガもその例外ではない。つまり作家は自分の描きたいことを描きたいように描けるわけではない。自分の行おうとする表現が、発注者の要望を満たさなければ修正せざるを得なくなる場合もあるわけだ。

 『うそつきラブレター』という物語の中で、主人公のマンガ家・市野あおいは何度もこの不本意な方針の変更を迫られてきた。かつての彼女が少女マンガ誌でデビュー後に仕事の場を得られなくなったのも、その度重なる修正に疲れてしまったからだった。

 市野が回想するところによると、少女向けマンガ雑誌に載るような作品には、いくらか共通して求められる要素があった。具体的に言うと、「女の子の目はもっとまつげで盛る」「流行りのトーンをもっと活用する」「動きのある構図にする」等である。市野はこれらの要素を自分の作品に取り入れようとしたが、「やればやるほど似合わないメイクみたいなおかしな原稿になってしまった」という。もともと「地味で暗めな作品」から出発した彼女は、こうした様式をうまく自分の作品に生かすことができなかったのである。

 数年後の彼女は幸い、少女向け雑誌とは別の雑誌で作品を発表する機会を得る。編集者の神代に声をかけられ、隔月発行の大人の女性向けマンガ雑誌において、読み切り作品を発表していくことになる。しかし、雑誌を移ったところで、彼女が自分の自由に作品を書けるようになったわけではない。少女向け雑誌には少女向け雑誌の、大人の女性向け雑誌には大人の女性向け雑誌の要請があるからだ。市野は最初は順調に作品を描き続けるものの、次第に読者の多くが求めるようなスペクタクルな恋愛劇を描かなくなり、ついにはネームのリテイクを要請される。編集責任者の杣戸が市野に要望した内容は、次の台詞のとおりである。

「作家さんに対しては

ラブシーンを一定量盛り込むことをお願いしております

物語について読後感のいいもの

失恋の話でも次の恋を期待させるようなエンドを希望します

他の作家さんにも同じようにお願いしております

どうかご協力お願いします」

(上 180頁)

 市野あおい個人の人間関係の理想は、大人の女性向け雑誌の作品に現れるような価値観と激しく食い違うものだった。彼女が理想とする人間関係は、例えば性的行動を必須の条件にするものではなかったし、愛する相手と世にいうカップルを形成し維持することが唯一の目標でもなかった。しかし、その理想をそのまま恋愛マンガとして表現すれば、色っぽさやアダルトな雰囲気に欠ける、読後感がよくないという評価を受けることになってしまうのである。

 しかし、要望されればそちらに寄せて書くことはできるのがプロの証でもある。彼女は結局、自分とは違う積極的な女性を演じて作品を作っていく。

「もう恋愛の話なんて描きたくない」

そうは言っても

仕事なのでやるしかありません

売れてないと言ったってこれでもプロです

それなりに 求められたように

描くことはできるんです

じっと自分を殺して

私とは違う誰かになりきります

(下 44頁)

 芸術を純粋な自己表現にしようと試み、自らのスタイルに過剰なこだわりを持つなら、多かれ少なかれ作品が商品であるということと齟齬をきたす。その苦しみが市野を少女向け雑誌で描くことを断念させ、神代の出版社の女性誌で描くことにも大きな負担を強いた。このような作家と作品との断絶は、創作で食べていこうと思ったならば避けられない運命である。その断絶を経験してなお、「それなりに求められたように描」けるのが、プロの創作者であるといえる。

物質を操る必要性

 また一般に「描く」ことは「書く」ことに比べて、作家が作品に没入することを単純には許さない。なぜなら、市野のようにペンとインクでマンガを描くというのは、単に知的な労働であるだけではなく、「地味で過酷な手作業」でもあるからだ。

 現実のマンガ制作には通常いくつかのプロセスがあり、『うそつきラブレター』はそのプロセス一つ一つについて解説を挟みつつ描いている。

 制作の第一段階は「プロット」という。これはキャラクターの設定や舞台、物語の展開についての原案を作成する段階である。そして、次が「ネーム」と呼ばれる段階である。ここでマンガ家は、コマ割りを考え、簡素な図によってマンガの画面をどう作るかを考える。同時に人物の台詞、行動などをその図の中に書き込み、物語を展開させていく。

 このネーム作業においては、作家の精神性が駆り立てられる。ここで作家が最終的に拠り所とするのは自らの想像力であるからだ。いずれ仕上げることとなる一連の物語を、彼らは頭の中で映像として作り上げなければならない。それはネーム作業について説明する次のナレーションにあるように、想像上の、孤独な映画撮影なのである。

〔ネームとは〕脚本(=セリフ・ストーリー)

カメラ(=コマ割り)

演出(=背景・効果)

そして監督・役者(キャラ)までを一人で行うに等しく   白い紙に向かいながら登場人物になり切りつつ

物語を構築していくという

複雑で孤独な精神作業である

(下 7頁)強調原文

このような作業の中で、作家は物語の登場人物になりきって言葉を発し、その言葉を書き下し、その姿を絵として写し取る。ここでは作品世界を作家自身の精神世界と区別しないことが重要であり、作家の心の最も深いところはキャラクターたちの言動としばしば重なり合っている。ときに市野はその言動を現実にまで持ち越してしまうほどである。

 ネーム作業に作家がそれだけ熱中し時間をかけるのは、それがマンガの面白さを決定する重要なプロセスだからだ。ネームの出来によってマンガのストーリーやキャラクターの魅力が決まってくるために、作家はこの段階で大いに苦しみ、編集者との議論も活発に行われることになる。人物の造形、演出法、台詞回しやモノローグの密度などを検討した結果、ネームは完成する。自分自身であるような作品の本質を、作家たちはこのプロセスで追い求めるのである。

 しかし、ネームの先にはそれを原稿として完成させるプロセスである「原稿作業」が待っている。これは市野によれば「地味で過酷な手作業」である。「地味」だからといって、それが単純であるとか、機械的だということではないだろう。おそらくここで言われているのは、アナログ作画が物質への多大な注意力を求めるということだ。ネーム段階では、多彩なペンを適切に選択したり、直線が歪まないように定規を使ったり、キャラクターの衣服の皺や指の形、ハイライトの当たり方が不自然にならないように注意したり、トーンがはみ出さないように慎重に切り取ったりしなくともよかった。しかし今やそれらの注意こそ必要なのである。

 さらに、市野のようなプロの作家にとって、原稿作業は作品を完成させる〆切を目前としているから、時間との戦いでもある。特にアナログ作画では、一度ミスをすると時間のロスが大きく、作業の速さと正確さの両方が求められる。当然、これは想像力や情感の豊かさでどうにかなる問題ではない。

 「作品に陶酔している暇はありません」という彼女の内心が示す通り、原稿作業に入った彼女にはかつて頭の中で何度も繰り返した物語の映像に見入る余裕はないし、その必要もない。描くべきことはすべてネームという設計図の中にあるからだ。実際、市野はネーム段階では物語やキャラクターについて自らのもつイメージに過度にこだわっていたのに、ひとたび原稿作業に入ると、そんな自分を不思議にすら思う。ここでの彼女は物語の世界から完全に醒め、点と線の世界に強制的に引き戻されている。

 基本的にこのネームから原稿へという順番で制作されるマンガは、詩や小規模な抽象画とは違って自己表現的創作になりきらないはずである。つまり、作家は自分の作品と一定の距離を置くようになるはずである。自分が描きたいもの、描くべきものがあったとして、それを〆切ギリギリまで瞑想によってとらえようとすることはできない。その瞑想をもって作品が出来上がるわけではないからだ。頭の中のキャラクターや物語をどれほど練り上げたところで、原稿作業に入らなければ作品は絶対に完成しない。そして一度原稿作業に入ってしまったならば、進めていくうちに何かがおかしいと感じても、もはやネームに戻って大幅に内容を変更することは時間的に難しくなる。そのまま原稿を仕上げるほかはないのだ。

 したがって、複数のプロセスを経るマンガの制作においては、作品と自分がほとんど同一のように思われた瞬間と、作品が現実に描き上がる時点は大きくずれることになる。後者の時点において、作家はいわば見知らぬ他人から描けと命じられた作品をしぶしぶ描きあげたかのような、他人事のような気分をもって筆を置くのだろう。

 原稿作業の終盤、市野は「こんな話 二度と描かない」と吐き捨てるように内心でつぶやく(下 15頁)。前日、ネームを検討していた段階では編集部の要請にも逆らって、この展開は修正したくないと駄々をこねるほど理想の物語を追い求めた彼女が、そう言うのである。作品と作家は違う、という市野の実感が、決して空虚な言葉遊びではないことがわかるだろう。

公私混同への警戒

 第四章以降でたびたび述べてきたように、自己表現的創作者にとって、自の作品を長期にわたって読んでくれる相手を得るというのは特別に重要なことである。それは彼が作品をうまく解釈してくれるからではなくて、彼が作品や創作者自身に(少なくとも見かけ上は)一生懸命向き合おうとしてくれることが、創作者にとって自分の心の最も深いところを肯定されたように思われるからである。このことからして、自己表現的創作者はある読者ないし創作の支援者との、一対一の依存関係に入りやすいといえそうである。

 言及が遅れたが、『うそつきラブレター』は作家と編集者の恋を描いた作品として紹介されている。作家というのは売れないマンガ家の市野であり、編集者というのは、彼女の才能を見出し再デビューさせる神代である。この二人の関係が恋愛と見なされがちなのは、先の自己表現的創作と依存関係の親和性を考えれば分かりやすい。作家は自分の心の最も深いところを作品に表すものであり、編集者というのは最も長期にわたってその作品を読む者だから、互いが互いにとって唯一無二の相手になりやすいというわけだ。

 しかしながら、二人の恋愛は実際には成立しない。すなわち、二人の関係はあくまで仕事上の協力にとどまるものであり、各々にとって純粋にプライベートな出来事となることはない。市野と神代との関係について「仕事上のパートナー」という側面を捨象することは不可能である。

 作中でも多く描かれるように、二者のやり取りは少なくとも内容としては事務的なものである。たしかに二人の関係は、単なる仕事上の協力関係以上の外形を取ることもある。神代は、市野の作品を売り物として良いとする以上に、個人的に好きだと強調する。

「つまりですね 要は僕が好きなんですよ

読んでとても気に入りました

僕 あなたの作品好きです

だから大丈夫です がんばって描いてください」

(上 23頁)

 ところが、忘れてはならないことがある。編集者がマンガ家たちを前にして、その作品について良いと述べるのは、単に自分がそれを好むということだけを意味するのではない。そう発言すること自体が、作家の執筆意欲を喚起し、自尊心を支え、彼ら彼女らに良い作品を創り出してもらうためのメンタルケアの行為なのである。

 この物語は、神代が市野に贈った先の言葉から、ロマンティックなニュアンスを容赦なく剥ぎ取る。神代は先の台詞を市野に告げた直後、電話をかけてきた他の作家にも同様に「作品楽しみにお待ちしております がんばってください」と励ましの言葉を贈っているのだから。あなたの作品が好きです、描いてもらうのが楽しみです、というのはまさに「編集者の何千回何万回吐くセリフ」(上 28頁)なのである。このような肯定的な言葉をかけることは、神代がのちに言う「言葉を交わし心を読みとり 作家の内側から才能を引き出す行為」(上 165頁)の典型例といえる。

 市野のほうも、ここまで冷徹な認識ではないにせよ、神代の言葉はあくまで仕事上の激励以上の意味はないと思おうとしている。その際に彼女が意識するのは、神代が付き合いを保ってきた他の多くの作家たちである。神代と特に付き合いの長い作家・佐ノ倉の思い出話を彼から聞きつつ、彼女は次のように内心で自らを戒める。

そうか

そうよ

そりゃあそうよね

みてきた作家なんてごまんといるワケだから

とーぜんだわ

ほら やっぱりわたしだけ特別とかあるワケないじゃん

てゆーか

特別扱いされてるって

思ってたとか

バカじゃないの

わたし

(上 112頁)

 自分は彼が見てきた作家のうちの一人にすぎず、そこには特別な感情などない。市野の、自分が特別だと思おうとする自惚れへの強い警戒感は、物語を通して「ストイック」と呼ばれている。ストイックな彼女は、自分が特別大事にされているという感覚を自らねじ伏せ、「求められることに慣れてない一作家のばかげた思い上がり」(上 105頁)とまで言ってみせるのだ。

「市野さんはああ見えて 僕よりずっとキョリ感とるの上手ですよ

計算してるのかそうでないかはわからないけど 作品と同じようにストイックだ」

(上 83頁)

 このように市野の一歩引いた態度を評する神代もまた、ここでいう「キョリ感」を確保することに余念がない。たとえば、親しみやすくありながら一定の慇懃さを保つ彼の言葉遣いは、自分の担当の誰とも癒着しないための一つのスタイルだろう。

 しかし、二人それぞれが相手と精神的に癒着することを、互いが互いにとって「特別」であることを警戒するのはなぜか? その理由は彼らの仕事に関する倫理観にある。すなわち、仕事をする上で、ある相手をその人だというだけで特別扱いするのは正しくないと彼らは思っているからだ。神代にも人間として好きな作家、苦手な作家はもちろんいただろうし、それは市野も同様だろう。しかし、相手が大好きな人だろうといけ好かない奴だろうと、相手から好かれていようと嫌われていようと、ある程度は公平に、一定の態度で行わなければならないのが仕事である。彼らはそう考えているのだ。

 つまり彼ら二人の関係が「特別」になることを差し止めるのは、マートンが指摘した官僚制組織の特質、「人間関係の非人格化」(depersonalization of relationships)である。これは、組織に所属する職員が、取引相手とは出来るだけ人格的関係(personal relations)をもたないようにしなければならなくなることをいう。もし職員と取引相手が、感情に満ち溢れた生き生きとした関係を結んでしまえば、その職員は独断でその相手を特別扱いをするようになってしまい、組織の規律は無意味になり、命令系統は機能しなくなるだろう。例えば役所でも会社でも「もっと柔軟に対応しろ!」と担当者を恫喝する人に対し、担当者が相手の怒りを真摯に受け止めすぎてしまうなら、要するに「自分だけ特別扱いしろ」という相手の要求を通してしまいかねない(2)。

 取引相手に特殊な扱いを許すかどうかを判断するとしても、その権限は取引相手と直に接する窓口の人間ではなく、組織の上位に位置する者にしか与えられていない。それは、えこひいき、つまり規則の恣意的な運用を防止するためだ。世にある大きな組織は、一般に思われていることとは違って、意味もなく冷淡で形式ばっているわけではない。職員たちが取引相手と親しくなりすぎてはならないのは、複数の取引相手に公平に接するためなのである。

 以上のことから、市野と神代は、自己表現的創作者が理想とするような「究極のカップル」となることも、湿っぽい馴れ合いに淫することも不可能である。二人の背後には、自分たち二人だけではない多くの人間を相手にする組織、つまり諸作家、編集者、印刷所、書店からなる出版事業体が控えているからだ。彼ら自身も、その事業体の一員であるという意識をいつもどこかで保持しているのである。例えば、「僕らは純粋にあなたの伸びしろに期待してるんです だから どうか一緒に頑張っていってほしいなと思います」という神代の言葉はさりげなく、編集者集団としての組織性を「僕ら」という一人称に込めている。これは、口調は穏やかであっても厳しい自戒あるいは忠告だった。いくら好意的な言葉が交わされようとも、私もあなたも相手を対外的な形で特別扱いすることは許されない、という趣旨の。

 このように、仕事上の関係をロマンスにすることは無理筋だと市野も神代も感じ、互いに「キョリ感」を確保しようとしている。この物語は、仕事組織の崩壊を招きかねない公私混同に対してはこれ以上ないほどの警戒を払っている。凡百のオフィスラブとこの物語が異なるのはその点だった。

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(1) ただし、どんな家庭でもそれほど安楽だと決めてかかるつもりはない。家庭の外に逃げ場を確保しなければならなかったり、もしくは本来親がやるべきことを代わりにやらなければ生活もままならなかったりする子どもは大勢いるからだ。 (2) 「ビューロクラシーの構造とパースナリティ」186~188頁参照。なおこの例は、高橋伸夫 (2020)『組織論ハンドブック』http://www.bizsci.net/readings/comment/merton1940.html によっている。