【1985年10月】
インタビュー◉筒井ともみ/構成◉塩谷啓子
映画『家族ゲーム』の大成功は、主演の松田優作に負うところが大きい。松田もまた、その役柄の幅をかなり広くしたかに見える。その一方で、これまで、松田優作という男の実像は、その演技の裏に隠されて、どうもぼくたちに伝わってこなかった。さらに、その生い立ちもまた噂の域を出なかった。インタビュー嫌いだという彼の寡黙のベールをかいくぐり、重いロを開かせたのは気鋭の脚本家・筒井ともみである。
松田優作の人となりをうかがわせる話としてこんなものがある。
最新作『それから』はなにやら非常にドラマチックな誕生の仕方をしたものだとい脚本家・筒井ともみのもとへ、ある雨の夜、突然に、松田優作が現れたのだ。
おれと森田(芳光監督)で、(夏目)漱石の『それから』を撮るから脚本(ホン)を書いてほしい。ダメならこの企画はなしにする。
まるで、そのまんま映画みたいだ。
当初「わりとSFっぽいもの」(松田)を企んでいた森田と松田は、それを撮り終えてからメロドラマをやろうということで『それから』を考えていた。それが金銭面での問題などもあって急きょ、くり上がったかたちになった。
『家族ゲーム』みたいなのやってしまうと……そのあとがまた問題。
でもね、素材の見つけ方ってのはわりとイージーなんです。
———あの夜お話を聞いて、森田さんと優作さんと『それから』というのが、ピーンと一本につながったんですよ。
筒井さんはそういうことがわかる、やっかいな說明をする必要がない人だから、時間的には非常に迷惑かけたけど、肌合でやってもらえた。(筒井さんとは)二回くらいしか会ったことなかったけど。
———三回……。
三回か、飲み屋でね(笑)、ベロンベロンのときしか知らないのに。
結局、筒井のOKで『それから』はGOとなる。松田優作は人に対しては異常なほど鋭い嗅覚を持っているようだ。生まれついての勘だろうか、あるいは熱い血を持った人間は互いに引き合うものということなのだろうか。
———森田芳光さんとはどのようにして出会った?
ぼくと同じようなとんでもない人ではないかという勘がね。だから会う前に写真であの人の顔とか、書いてる文章とか、対談でしゃべってることとかを見て、とんでもないやつじ やないかと思ってね……。
会いたいな、と思ってたらその機会があって、実はこんなものやりたいと思ってるんですけどいかがでしょうかって言うから、やりましょうって……。ピターッと合った。
映画『それから』は、明治時代の独特の雰囲気を映像化している。が、いわゆる映画的見せ場などひとつもない、漱石の人間の心のひだを深くのぞき込んでいるような世界である。
松田優作はひとつの作品を撮っているあいだ、完全にその世界に浸りきってしまうタイプの役者だといわれている。
落ち着いたセンスのよい装い、語りロ調も意外なほどもの静か……それはまるで、作品の主人公・長井代助の雰囲気を今日まで引きずっているようでもある。
デビュー当時の、見るからにエネルギッシュな、長髪をまるでたてがみのように感じさせた時代とは少しちがう、三〇代半ばの男がそこにいる。
そういえば彼ほど一作ごとに“変身”とか“新境地”という言われ方で、刻々と顔を変えてきた役者も珍しいのではないか。
ぼくは別に変身してきたつもりはなかった。そういうふうにいわれるのは、逆にいうと、あれは松田優作(の本質)じゃないと気づく人が多くなってきたってことじゃないかな、だんだん。
でもね、ピストル持って走りまわってるような役しか、なかなかこなかったけど。
つまりはこういうことだろう。彼の役柄がどんどん変わってきたということは、新作をつくる監督なりプロデューサーたちが「前作の松田は、ほんとの彼じやない」と気づいてきたということを意味する。役のなかで、ピストル持って走りながら、彼は“気づいてくれる人”との出会いにアンテナを張っていたにちがいない。しかし本気でアクションシーンの立ちまわりをやってセットをぶち壊すような、目立つ新人だったからこそ、人は松田優作に注目し、なかには本質に気づく人もいたのだ。多くの俳優志願者がひとまず狙う“新人”という輝ける地位を、彼はどういうプロセスで手に入れたのだろうか。
———俳優になろうってのはいつごろから?
ちっちゃいときから思ってたね。
———まさか学芸会とか?(笑)
いや、うちは女あつかってる商売だったじゃない、おふくろが。昼間お風呂なんか行くの、おねえさんたちと。すると、近所に大江美智子さんたちが、どさまわりで来たりする小屋があるんだけど、そこの役者さんたちが芝居ハネたあと来たりしてるのね。そういうの見て育っているから、ああいう世界っていいな、と。
映画館のなかとか芝居小屋のなかが遊び場だったから、ああいうとこがいいなという感じ。
———一つまりよくある戯曲読んだりとかシナリオ読んだりとか、ぜんぜんそういうんじゃなくてね……。役者って、なりたいと思ってなれるもんじゃないでしょ。やりたいことをやれるようになるまで時間がかかるし、やりたいことって最初はなんかグニャグニャしてるでしょう? それがだんだんはっきりしたかたちになってくるという、松田優作のそこの変遷を知りたいんだけど……。
それは全部、人との出会い方だね。興味なんてものは、まずは自分のまわりにあるものを否定したり肯定したりすることから始まる。環境のなかで自分の生理とか、同じにおいがする、とかで選んでいくしかないじゃない。
———いちばん影響を受けたことって言葉にしてみると?
環境なんだ。うちの環境そのもの。遊郭に育ったからね。赤線、遊郭がダメになったあとも名残りがまだあって、それぞれの家に個室があって、そこに女の人が住んでるんだけど、夜になると出かけていって立ってる。それで客をひいて二階上がって酒一杯飲んで寝る。そんななかで自殺騒ぎがあってさ、それから痴情のもつれで刺したの刺されたのとかね。そんなのばっかり見て育ってるもんだからさ(笑)。
いまになってみると、非常にいい環境だったって思う。そういう影響が非常に強いね。
生まれたのは山口県・下関。荒っぽい港町で、しかも男兄弟ばかりだったから、日活アクション映画の(石原)裕次郎・(小林)旭の世界がいわばバージンショックだったという。小・中・高校を通じてかよいつめた。
だが、映画大好き少年が自分もなんとかその世界に入りたいと思っても、悲しいかな、地方ではなすすべもなかった。まずは東京へ出て……と考えるのは夢を抱いた若者ならみな同じだろう。松田にとってもそれはいえた。高校卒業後、映画界をめざして上京する。
松田はそのとき、胸のうちに期するものがあった。それは『見る側』から『見られる側』への転身という決意であった。
松田優作が上京した七〇年代初め当時の映画界は、すでにニューフェースを育てる余裕などないほど衰弱していた。スクリーンデビューの夢を胸に秘め、六月劇場という劇団の裏方から彼の役者人生はスタートするのである。
———文学座にいたのはどのくらい?
三年間。
———おもしろかった?
(即座に)いや(苦笑)。でも(文学座は)置き屋みたいなもんでさ、いろんなプロデューサーとか見にくるわけじゃない?(新人を)さがしに。そういう意味ではいいだんながついたっていうか、世に出るきっかけになったわけだしね。
———あのころアジテーションぽいアングラっていろいろあったでしょう?
それもいたんだよ、黒テント。黒テントの前身の六月劇場で裏方やって、黒テントになっても裏方やって、役者はできないわけよ。そこの役者の岸田森とか草野大悟とか、みんな文学座出身の人ばっかりなんですよ。
結局ああいうふうになるには文学座、入んなきゃいけないんじゃないかって、そういう感じ。
文学座がどういうとこかなんてぜんぜんわかんないんだから。
それで文学座受けて落ちて、しょうがないからどこか、なにも知らなかったからマールイ(劇団)ってとこ入って一年いて、もう一回、文学座受けて入ったの。
———文学座っていうのは給料くれるんですか?それとも月謝払って?
每月払う。
———バイトして払ってた?
おれ一回も払ってない(笑)。結局『太陽にほえろ!』が決まってから每月、引かれてたみたい。
———それまで見のがしてくれてたというわけ?
見のがしてくれてたみたいね。
———モロ同期、だれでした?
モロ同期はね、高橋洋子。それに(桃井)かおり。
当時(そして、いまも)芝居を志すものはまず文学座に入る、というのが鉄則のようにあった。エリートコースといってもいいかもしれない。チャンスをつかみやすい場だったのはまちがいない。一度落ちても再度チャレンジして文学座に入った松田優作は“いいだんながついて”『太陽にほえろ!』で世に躍り出た。
しかし彼は名声のみを欲しがったわけではない。文学座時代につくったF企画という劇団では作・演出もし、小さな小屋(劇場)で上演もしていた。ジーパン刑事として名を知られた存在になる前から始め、なったあとまで七、八年も活動を続けていたのだ。
文学座に夏休みがあるってのがよくわからなくってさ、学校じゃないのに。
その間、仲間だけでもいっしょにやんねえかって稽古場借りて始めたのが、F企画のそもそもの話だ。
ファッションでちょっと芝居をかじってみた、なんてライト感覚からはほど遠い。これをハングリー精神とか、まじめ、というのは松田優作の場合、あたらない。彼はすぐさまこういうだろう。
「んなの、あたりまえだろ?」
舞台、テレビ、そして歌、しかし彼の真ん中にあるのはやっぱり映画なのだ。真ん中に映画がある、中心には映画がある、と彼は何度も言った。映画の立ちあがりのときはもちろん、立ちあがっていないときも、日ごろから常に彼のうちに大きくある映画という存在。それだから、新聞を読んでも、人と会っていても、歩いていても、おもしろいこと、素材にしたくなるようなことを、感度のよいアンテナのようにキャッチする、と彼は言うのである。
だからかな。直接には映画と関係なくても、なんにでも興味が向く。いまは、俳句と能と詩人の世界だね。詩人は(中原)中也、それにいま勉強しなくちゃ……と思っているのが宮澤賢治。賢治ってさ、曲つくって演奏したりしてたのね。「朝日新聞」に東北新幹線の盛岡かどっか近くの駅かで賢治のつくった曲が流れるんだって書いてあったよ。别に『それから』やったからってことより、自然とそうなるのね。結局なんでも連動してるんですよ。役者なんて商売やってるうちになんかこう、だんだん足りないものとか必要なものとかが、音もなく近づくんだ。理由はないの。自分の心のにおいと応じながら、そうなっていく。
彼はにおいという言葉をよくロにする。人との出会いがそうであるのと同じように、音楽でも、文学でも、おもしろそうなにおいは瞬時にかぎわける。そしてまた、こと思う自身のひらめきをいつも心待ちにし、信じているタイプの人間なのだろう。
しかし、新聞を読む姿というのを想像するだけで、これまた映画のワンシーンのように感じさせる男である。それがいかにもつくりものを感じさせるような男であったのなら、たぶん、このインタビューは成立しなかったであろう。
不遜とかそんなことではないことが、これまでのインタビューで明らかだろう。血管とか皮膚の裏側がかゆいとか、そんなところまで演じられなきゃダメだ、ともいう。
映画会社が映画をつくっていた時代が終わったところから、松田優作は映画界をめざした。
いつの時代も三〇代がいちばんいいに決まってる、と言いきる裏には、原体験、彼なりの計算、あるいは人との出会いを重ねてきた積み重ねがある。その存在は重いのだよ。
スコラ○1985年10月24日号