第四章 物書きたちの泣きどころ

 物書きたちはなぜものを書き、それを公開しようとするのだろう。こう問うと、その理由をすべて「承認欲求」という言葉のもとで説明しようとする人がいる。その言うところによれば、ものを書いてみせることは、優れた文章を生み出す自分の能力を他人に顕示して、大衆からほめたたえてもらおうとすることだ、というわけだ。これを仮に「承認欲求説」と呼んでおこう。

 しかしこの説に対しては疑問が一つある。ある人が自分の能力を社会的に十分認められていたとしても、ときには好き好んで何かを書こうとするという事実をどう理解すればよいのだろうか。勉強も運動もそこそこできて、友人もそれなりにおり、小さな親密圏で間違いなく一目置かれている彼ら彼女らは、書くことによって何かそれ以上の名声を求めているのだろうか。もしそうなら、小説や詩など書くことなど直ちにやめて、より広い世界の重要人物になるために人脈を広げたり、自分のキャリアアップのために力を注いだほうが賢明なのではないか。

 自己の能力を認めさせる行動としては、「書くこと」というのはあまりにしみったれた、持って回った中途半端な手段である。この作業がどんな状況でも何か客観的な権威に結び付くものだと考えるのは、現代における文学趣味の位置を高く見積もりすぎている。

 たとえば文学賞に応募してみれば、自分の能力の高さが証明されるのではないか。しかし、たんに応募したというだけで名誉になるわけがない。そもそも、結果を聞かれて箸にも棒にもかからないと告げるほうが屈辱だろうから、受賞を得られない九割方の者はひそかに応募し、ひそかに落胆するだろう。では、目にとめてくれる少数の人を期待して、SNSで気の利いたことをちまちまと書き続けるのはどうか。いや、うまくいってせいぜい自分と縁のゆかりのない人からの、頼りない「いいね」しか得られないだろう。本を自費出版して知り合いに配るのはどうか。これだけ多様な娯楽が氾濫している中で、どうして知り合いがそうした娯楽を全部放り投げて、あなたの文章に真面目に応えてくれると思うのか?

 これら一連の試みよりも、ただ教室で手をあげて発表するほうが、あるいは友達とカラオケに行って歌を披露するほうが、ずっと効果的に自分の努力を認めさせることができるではないか。

 もし本当に他人からの尊敬のまなざしが欲しいなら、ものを書くことに力を注いでいる暇などないのではないか? そんな話題にしにくい趣味に傾倒したところで、ほとんど誰からも尊敬されはしないということがわからないほど、物書きたちは愚かなのだろうか。

 このようなおかしな疑問が生じてしまうのは、承認欲求説が次の誤った前提に基づいているからではないか。すなわち物書きたちが他人に認めてほしいのは、つねに彼ら自身の能力についてであるという前提に。しかし、これは多くの場合不正確な表現なのである。ある物書きたちは、自らの能力というより、自分の考えていること、許せないこと、こうしたらよいと思うこと、楽しいと思うこと、嬉しいと思うこと、そういった感性、人格、欲望、つまり自分という存在がそれに賭けられていると思う価値観を認めてほしい、と望んでいるからである。

##自分の心の最も深いところ  そのような意味での「承認欲求」を描いた作品を紹介しよう。英語圏のクリエイターたちによって製作され、2018年に発表されたWindows用ビジュアルノベル*1« Doki Doki Literature Club! » (翻訳タイトル:『ドキドキ文芸部!』)である(以下、『DDLC』とする)。『DDLC』のあらすじは次の通りだ。

 主人公の男子高校生は、同じ学校に通う幼馴染のサヨリから、彼女も所属する文芸部へと入部を促される。文芸部のメンバーは、サヨリの他、ナツキ、ユリという二人の文学少女、クラスの人気者で部長も務めるモニカの計四人だった。それまで部としてのまとまった活動はしていなかった文芸部だが、主人公の入部をきっかけに、詩を書いて互いに見せ合うといった活動が始まり、部員たちは次第に交流を深めていく。

 物語は基本的に男性主人公の視点で進行し、モノローグ(地の文)はすべて主人公による語り(一人称)である。交流の相手である少女たちの内心は、その台詞や画像からしか窺い知ることができない。こうした物語の布置は90年代の日本において発達した「美少女ゲーム」というジャンルの諸作品にしばしば見られるものであり、『DDLC』もその様式に倣っている。

 この作品の中で、主人公が文芸部員たちと親しくなる際に鍵となるのが、彼女たちの承認欲求を察知し、満たしてやることである。主人公は、詩の合評という部の活動を通じて、部員たちの価値観に触れ、それを肯定することになる。

 その価値観を、部員の一人であるユリは「自分の泣きどころ(vulnerabilities)」、「自分の心の最も深いところ」と言い表していた。

ユリ「その手の文章を見せることって、自信以上のものが必要なんですよ」

ユリ「自分に向けられた書きものこそが、真の書きものだから」

ユリ「そういったものを見せるときは、読者に対して心を開いて、自分の泣きどころを晒し、自分の心の最も深いところすら見せるつもりでいなければならないのですよ」

(一日目)強調田原 訳を一部変更

 彼女は、自分の書いたものは、この「自分の心の最も深いところ」と繋がっているのだと信じている。私的な文章や変わった趣味が他人に受け入れられたと思うとき、彼女たちは自分の心の最も深いところが受け入れられたと感じるわけである。

 また、人々がある作品について提出する解釈も、「自分の心の最も深いところ」と関係しているようである。ライターの水上文は次のように主張していた。ある物語のキャラクター同士の関係を独自に解釈して二次創作を行い。それを誰かと共有することを好む人々がいるが、そのコミュニケーションは、まさしく「自らの根本的な人間像や世界観を開示する」ことであると。

でも「お人形遊び」とはいえやっている方は真剣なので、解釈違いは戦争になる。

というか、実際に「解釈」の開示は大変なことだと思う。

人間のどんな行動を、どんな仕草を、どんなバックグラウンドを、人間たちのどんな関係性をどのように解釈するのか、何を望ましいものとして何を忌むべきものとするのか、それはその人の根本的な人間像や世界観を開示することに他ならない。

自分の理想とする人間関係を開示すること、世界をどういう風に見ているかを開示すること、そういうことがその人の心のいちばん柔らかく根本的な部分に触れないはずがなく、なので解釈は非常にデリケートな問題である。逆に言えば、会ったことも話したこともなくても信頼できる「解釈」をやっている人間を見かけるとやたら心のガードが下がる。

「お人形遊び/叶えられなかった祈り」

 この引用中でも、「人の心の一番柔らかく根本的な部分」と名指されていることに注目してほしい。洋の東西を問わず、それをずばり言い当てようとすれば「心」という語彙に訴えざるを得ないのかもしれない。物書きたちの、最も私的で、自分を絶対的に単独な存在とすると考えられる要素がそれなのである。「書かれたもの」は単に作家の能力を示すだけではなく、このような人格の最奥部の具現化なのである。この「泣きどころ」を開示し、受け入れられたいと望むこと、それがある週の物書きたちにとっての「承認欲求」なのだ。

承認の断念

 ただし、物書きたちがこのような意味での承認欲求を持つとしても、その欲求は多くの場合、無様に屈折したものである。彼ら彼女らのうちには、「自分のことを認めてほしい」という欲求と分けられない形で、「どうせ誰にも認めてもらえない」といういじけた気分があるからだ。

 ユリやナツキのような人が、自分の書いたものや、自分の趣味をひた隠しにしていた理由も、このいじけた気分にある。素直に考えれば、自分の大事にしていることについて誰かに価値を認めてもらいたいのならば、他人に対してその素晴らしさを宣伝してまわるべきである。ところが、彼ら彼女らはそうしたことに非常に消極的だった。例えば作中で、「文学の面白さを部の外の皆にも知ってもらいたい、そのために文化祭で企画をやりたい」と主張するモニカに対して、まず反対したのはこの二人だった。

 というのも、彼女たち二人は次のように固く信じているからである。自分の大事にしているものについて語ったところでまともな応答は返ってこない。馬鹿にされたり軽く流されたりした屈辱と虚しさだけが残るはずだ。このような他人に対する絶望から、彼ら彼女らは生き生きとしたコミュニケーションに背を向け、ひそかに鬱屈を紙に書き連ねることを選んでいた。そうすれば、無駄だとわかっている応答を期待せずに済むからだ。

 ユリとナツキは、自分の趣味を表に出すことで馬鹿にされたり、周囲の人々がそれらを軽蔑しているさまを見たりすることが、少なくとも一度はあったのだと思う。例えば、ナツキはマンガを好んで読んでいたが、普段クラスの友人と話すときにマンガの話は決してしないと決めていた。自分の家ですら、家族の目を気にしてそれらを楽しめなかったと語る。

主人公「友達とマンガの話をしたりしないのか?」

(略) ナツキ「こんなの友達に読ませられるわけないでしょ……」

ナツキ「みんなマンガは子供の娯楽だと思ってるし」*2

ナツキ「こんな話をしたら絶対……」

ナツキ「『え~? まだそんなの読んでるの~?』って言われるんだから」

ナツキ「顔を殴ってやりたくなるわ……」

(二日目)

主人公「どうして趣味を隠してるんだ?」

ユリ「そ、それは……」

ユリ「恥ずかしいですし……」

ユリ「きっとバカにされますし」

(三日目 合評タイム)

 「自分の心の最も深いところ」は、他人から受け入れられたときに甘美な瞬間をもたらすけれども、受け入れられなかったときの怒りと悲しみもそれだけ大きい。これが「泣きどころ」であるということの意味であり、水上が「解釈違いは戦争になる」と述べたことの意味である。ある部位に快楽と痛みが集中しているのは私たちの身体も同様である。触れられたときに性感をもつような場所は、神経がそれだけ集中しているゆえに、攻撃されれば激痛を伝える急所でもある*3。さらに、こうした部位はいつでも自由に捨てて変更できるようなものでもない。それは「私の大切なもの」であり続けるほかはないのである。

##屈折させられたコミュニケーションの要請  自分の泣きどころを蹴られたことのある人にとって、コミュニケーションは常に痛みの幻影に脅かされたものになる。彼ら彼女らが紙に向かって自分のことを告白するのは、そこまで必死に自分の心の深いところを隠さなくてもいいのだ、馬鹿にされることを恐れなくてもいいのだと、どうしても思えなかったからだ。

 読むことと書くことは、「自分の心の最も深いところ」を晒すのを恐れる人々がとった苦肉の策である。それはただ孤独に紙にインクの染みをつけ、キーボードを叩くという外見をとるが、自分の心のうちを他人に見えるようにする可能性を確保する。つまり、どれだけ外形上非社交的に見えようと、彼女たちの言葉の根本にある「誰も分かってくれない」という鬱屈は、「自分のことを分かってほしい」という訴えでもある。誰とも関わらず、一人で充足しているように見える執筆という作業——ユリなどは「自分のためだけにやっている」と主張するそれ——は実のところ、すでにコミュニケーションの強力な要請である。

モニカ「自分のためだけに執筆してる、って言う人もいるけど……」

モニカ「でもそれは他人と共有するときほどの充実感を得られるとは思わないわ」

モニカ「共有できるような人を見つけるのに時間が掛かってしまったとしてもよ」

モニカ「ユリのときだって覚えてる?」

モニカ「ずっと誰にも自分の文章を見せなかったのに……」

モニカ「気がつけば、喜んであなたと趣味を共有していたじゃない」

(Act.3)

 モニカが指摘するように、彼女たちは人間嫌いなどではない。人が他人を嫌うというのは、ほとんどの場合、他人から軽蔑されることを嫌うという意味である。自分に向けられる軽蔑を不快に感じたり、そのような人間たちに脅威を感じたりするのは誰にでもあることで、ユリやナツキが特殊な感性を持っているわけではない。彼女たちは他人を強く必要としており、彼女たちの理想郷にはやはり他人たちがいる。昼休みに一人で読書に勤しむユリが、その自分の姿を「友人たちに囲まれている」と言い表すように。

ユリ「私はいつも何冊か本を持ち歩いています」

ユリ「読書が本当に好きだと言えるのかもしれません」

ユリ「……ええ、それも一つの見方です……」

ユリ「でも……」

ユリ「本の中はとても魅力的な人々で溢れています」

ユリ「恋をしてしまうほど素敵な人」

ユリ「本当の友達になれそうな人」

ユリ「いつも笑顔にしてくれる陽気な人」

ユリ「とても頭のいい人、何でも解決してしまう人、人生における謎を探求する人……」

ユリ「だから、そういう意味では……」

ユリ「私は毎日友人に囲まれているんです」

ユリ「……分かりますか?」

(四日目 合評タイム)

 ただ、彼ら彼女らは、自らがそのように他人を必要とし他人と認め合うことを望んでいるのだと、ストレートに表現できないだけである。いっこうに上手くいかないことを自分の望みだと思い続けるのはつらいことだ。手の届かないブドウは酸っぱい、自分はそんなもの最初から欲しくないと思ったほうが気が楽だ。

 彼ら彼女らは他人とのコミュニケーションを求めつつ、同時にそれを恐れ、遠ざける。ゆえに孤独で非社交的と見えるプロセスを経由しなければ、過去のコミュニケーションで深く傷ついた記憶を振り切って、他人に話しかけることができない。このように屈折させられたコミュニケーションの要請が、内向的な人間にとっての執筆の意味の一つなのである。

(試読はここまでです。商品ページに戻る ))

*1:ビジュアルノベルとは電子画面上で読む小説である。画面に表示される文章に絵や映像、音、選択肢、画面効果などを加えたものである。文章単体で読まず、絵と音の存在を前提とする点、各自の体裁を持ち規格化されていない点などで、電子書籍とは異なる。

 七邊によれば、ビジュアルノベルの原形は一九九二年および一九九四年にスーパーファミコンのソフトとして発売された『弟切草』および『かまいたちの夜』にある。従来のゲームと異なり、これは極限までシンプルな画面構成とシステムを特徴としており、開発費を低く抑えられた。したがって、高額な開発コストの回収のためにマス市場を意識した一般受けするゲームを制作するのではなく、「美少女キャラクターや性表現をゲーム内に入れることによりマニア層の一定の購買を確保しつつ、年齢が高い層やより狭い層をターゲットに絞った独創的なストーリーのゲームを制作するという戦略を取ることができ」た。「文化創造の条件 - 2つのゲーム「場」の文化生産論的考察から - 」70頁を参照。

 宮本によれば、右記二作品が確立したビジュアルノベルの画面構成・UIは、Leafが発表した『雫』を皮切りに、後述する「美少女ゲーム」の定番の一つとなったという。『エロゲー文化研究概論 増補改訂版』131頁を参照。

*2:この国では誰もが年齢に関係なくマンガを読んでおり、それが趣味だと公言することもさして珍しいことではないかもしれないが、欧米ではマンガといえば教養のない人や子どもが読むものだという認識があった。例えば、アメリカのマンガの地位については次などを参照。Paul Lopes, Demanding Respect: The Evolution of the American Comic Book, Temple University Press, 2009.

*3:「くすぐったい」という感覚は二つの相反する意味をもっている。くすぐったさは、第一には太い動脈に近い部位や移動(逃走)に重要な部位に危険が迫りつつあることを伝える感覚だと考えられている(だからくすぐられた人は身をよじって避けようとする)。すると第二には、個体同士がそのような部位にわざと触れ合うことが、互いに敵意がない(警戒する必要がない)ことを確認しているということにもなってくる。くすぐったさが、不快であるだけでなく心地よさや笑いとなって感じられたりもするのは、このためであると考えられている。『愛撫・人の心に触れる力』第二章を参照。