きっとサクラのせい


 白い壁を背景に、その桜は儚く花をつけていた。

 施設の中庭に取ってつけられたような、添え木に支えられながら立つ細い幹のもとへ、志賀周はふらりと近づいた。
 母校の校庭に植えられていた立派な桜と比べると、赤ん坊のように頼りない。

 無理やり連れてこられたみたいだ。

 そんな感想が頭浮かんだ瞬間、周の膝から力が抜けた。綺麗に管理された芝生の上にすとんと腰を下ろして、触れれば折れてしまいそうな枝を見上げる。青々とした若葉混じりの花の向こうに、白い壁で四角く切り取られた青空が見えた。

 あまりに遠くて、眩しくて。
 なぜか目に熱が溜まるのを感じて、膝を抱えてそこに顔を隠した。

 無意識に右手が自分の頭を触り、髪をぐっと掴んだ。ぶちぶちと音を立てて、数本の毛髪を引き抜く。痛い、という感覚がどこか他人事のように感じた。

 抜いた髪をぼんやりと見つめる。真昼の陽光が当たってキラキラと、白く輝いている。両親が死んだあの日から突然真っ白になった自分の髪が、周は嫌いだった。

「ねーそれ、地毛?」

 不意にかけられた声に、周ははっとして背後を振り返った。

 鮮やかな桜色のロングヘア。
 それよりなお鮮烈に真っ赤で、大きな瞳。

 桜の精、かもしれない。そんな非現実的な発想が過ぎる。

 美しい形の唇が、不釣り合いに馴染みのある調子の声を紡ぐ。

「てかさー、泣いてんじゃん。どしたん?」

 指摘されて初めて、周は自分が涙を流していることに気が付いた。

「……おもい、だして……」

 なんと答えたらいいものか、迷った末に溢れたのはそんな言葉だった。
 ふむふむ、と桜の精は頷いて、太腿の半分ほどまでしか丈がないスカートのプリーツが崩れないように手で押さえながら、周の横に座り込んだ。
 よく見れば彼女はブレザーの制服姿で、正体は桜の精などではなく、恐らく女子高生なのだろう。
 しかしこの施設に立ち入っているということ自体が、彼女が普通の女子高生ではないことを示している。

「何を思い出したんかってー、聞いてもいいやつ?」

 ラメ入りのメイクと長いまつ毛に彩られた瞳に見つめられるのが何となく居心地が悪くて、周は自分の膝を抱え直し、芝生を見つめた。

「……学校……もう、入学式……してるかなって……」
「あーね、そーゆー時期だよねー。え、何年生?」
「……中1……」
「マジぃ!?そりゃ辛えっしょ……」

 背中に柔らかく触れられた感触がした。
 子供をあやす様に、ぽんぽんと優しく叩く動き。
 よーしよし、と宥める囁き。

 ああ、またか。

 浮かんだ言葉が溢れないように、そして続けて放たれると予測される声に備えるように、周は再び膝に顔を埋めた。

「まーここじゃみんなそんなもんよ!だいじょぶだいじょぶ、君もやってけるって!うん!」

 ぶつり、と頭の中で音がした。

 両親が死んでから、目が覚めてから、治療を受け始めてから、周囲にずっと言われ続けてきた台詞への答えが、遂に決壊していく。

「っそんな、ふうに、」

 ——何でもないことみたいに、言わないで。

 ほんの少しだけ、強く言い返した。
 そのつもりだった。

 ぐわんと周囲の壁が鳴った。すぐ隣で高い声の悲鳴があがった。施設中からサイレンの音が鳴り響いている。慌ただしい足音が幾つも近づいてくる。

 はっと顔を上げた周の視界に映ったのは、両耳を押さえて芝生に倒れ伏す少女の姿だった。

 違う。違う。そんなつもりじゃない。
 混乱が呼び起こす泣き声が、尚更に空気を震わせる。
 どうしたらいい。どう止めたらいい。
 習ったはずなのに、何もわからない。

 止めてくれたのは、再びのぶつりとした異音と、暗転する視界だった。



 目覚めてからの大人たちの態度は、意外にも以前と変わりなかった。
 いつも通りに身支度を整えられ、いつも通りに食事が出て、いつもより種類の多い検査へと、穏やかに、淡々と、誘導される。
 機械になって点検されてるみたいだ。そう口に出してみても、返ってきたのは困ったような苦笑だけだった。

 しかし、一つだけ変化があった。面会室へと呼び出されたのだ。
 訪ねてくるような親戚はいない。友人たちにこの場所が知られているはずもない。
 一体誰が、と期待と不安が半々の心地で、職員に促されるまま扉をくぐると、部屋の中心には四人掛けのダイニング用のような大きさのテーブルが据えられていた。その向こうに座っていた人物が、ガタリと盛大な音を立てて椅子を蹴るように立ち上がる。

 鮮やかな、桜色のロングヘア。

 ひゅっと喉に何かが詰まり、体が強張る。怒られる。責められる。それに値することをした覚えがある。
 だって、僕はこの人を、傷つけた——

「ごめん!!!!」

 部屋に響き渡ったのは、彼女の声だった。
 呆気に取られる周の目の前までバタバタと駆け寄って、長い髪をざあっと垂らしながら、深々と周に頭を下げてみせる。

「ほんっとにごめん!!あたしもーね、空気読めねー奴っていっつも言われんのにね、ちょっと気になっちゃってついつい〜ってそんなん言い訳よね!!ほんとにごめんなさい!!」

 驚きで固まった周の両肩を、優しくさする手があった。ここまで連れてきてくれた職員だった。志賀くんもお姉さんに謝ろうか、と。囁く声に、なぜかいつもより温もりを感じることができた。
 促された周が口を開こうとすると、彼女はぎゅっと周を抱きすくめた。

「違うの違うの、全部あたしが悪いんだから謝ることないの!」
「でも、怪我……させて……」
「あんなのどーってことないって!あたしだってオーヴァードだし!」

 勇ましく力拳を作る仕草をしてみせた彼女の腕は、折れそうなほどに細く見えた。

「あ、やっと笑ったぁ……」

 嬉しそうなのに泣き出しそうな笑顔で指摘されて初めて、周は自分の口の両端が少し吊り上がっていることに気が付いた。

「渡す物があるんだろう」

 部屋の反対側から、大人の男性の声がした。スーツを着込んだサラリーマンのような見た目だが、きっとあの人も"普通"ではないのだろうという雰囲気がした。

「あぶな、忘れるとこだったわ」

 くるりと席へと踵を返した彼女は、スクールバッグを肩に掛けてまたこちらへ戻ってくると、流れるように周の手を取った。

「お手洗い、どっち!?」

 きょとんとした職員が案内した方へと彼女が駆け出す。手を引かれるがままに、周も面会室を飛び出し廊下を駆ける。

「ちょ、どこ、行くの!?」
「ん?トイレ!」
「はぁ!?え、だから、えっ!?」

 面食らう周を振り返ることもせず、桜色の髪が女子トイレに続く角の向こうに消える。振り払おうにも妙に力強い手に、連れ込まれる。混乱と羞恥で、周は思わずぎゅっと目を閉じた。
 角を曲がってすぐのところで彼女が立ち止まり、閉じた目の上から更に重ねて、柔い手で目隠しされた感触がする。

「おっけー、そのまま目ぇ閉じててー、あとこっち向いてねー」

 促されるまま体の向きを変える。壁を見ている形になるだろうか、と考えていると、横髪をつんと一房引っ張られた。

「え、あの、ほんとに何……?」
「いーからいーから、すぐ終わるからさー」

 一房の毛束を撫でられるような感触が数回。シャンプー売り場のような香りと、少しツンとした薬品の臭いと、機嫌の良さそうな鼻歌。それだけが知覚できる全てになる。

「でーきた。目ぇ開けていいよー」

 最初に視界に入るのが足下になるようにして、そろりと目を開ける。目の前にあるのは全身鏡のようだった。背後にあるのは女子トイレ……ではなく、壁。ほっとしながらゆっくりと目線を上へ。

「……なにこれ……」

 鏡の中で目が合った自分の横髪の一房が、鮮やかに赤く染まっていた。たしかあれだ、メッシュってやつ。
 呆気に取られた周に、彼女が得意げに笑って見せたのは、手のひらサイズの平たいビン。真っ赤な絵の具のようなものが詰まっている。

「カラーワックスっての。君、元が白いからめっちゃ綺麗に染まってるっしょ?黒髪とかだとこうはいかないんよねー」
「え、やだ!目立つ!落として!」
「えーなんでー!かっこいーじゃん!赤はリーダーの色っしょ、戦隊モノの!」
「戦隊モノとかもう見ないよ!?」
「マジぃ!?去年のちょーアツかったのに!?」
「見てんの!?」

ケラケラと笑う彼女は一息吐くと、また緩やかに抱きしめてきた。

「……あんね、めっちゃ辛かったよね。それね、君だけの辛さだから。辛かったんだって、言っていいやつだから。でね、えっと、結局何が言いたかったかってーと……君にはね。仲間もいっぱい居るってこと」

 彼女の両腕にぎゅうっと力が篭る。耳元の声が微かに濡れている。周は目が覚めるように一つの可能性に思い至り、そしてここまで気付かなかった自分を何処かに埋めて消し去りたくなった。

 彼女もまた、彼女だけの辛さを。
 きっと持っているのだ。

「だからさ。一緒にがんばろ。めちゃくちゃしんどいけど、でも……頑張った分だけ、手に入ったり……護れるものも、あるからさ」

 温もりが離れて、代わりに力強い手が肩に置かれた。

「頑張れ、少年!頑張ってヒーローになれ!そんでいつか一緒に仕事できたら、あたしを守ってくれ!」

 明るく笑ってみせる彼女に応えたくて、両頬を上げて笑ってみせると、彼女のスクールバッグからけたたましい音楽が鳴り響いた。

「やっべ時間だわ!ごめんね、付き合ってくれてありがとね!あとこれあげる!」

 周の手にカラーワックスのビンを押しつけると、彼女は軽やかに走り去った。またね、と廊下に声を響かせて。
 おかしくて笑ったら何故かまた溢れた涙を拭って、周は思う。

 ——名前、聞き忘れた。
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