俳優の平均年齡が二十五、六歳だろう、山の手事情社という若手劇団がある。偶然、彼らの芝居を見にいった時のことだった。一貫したストーリーがあるというより、さまざまなプロットを脈絡なしに入れ、洗練されたダンスや照明を見せつけていたのだが、そこである俳優が松田優作の真似をしたのである。『太陽にほえろ!』でセンセーショナルに死ぬシーンから『ブラック・レイン』で、タバコを捨てて登場するシーンなど、五つくらいの作品を逐一演じてみせ、それに若い観客も何のひっかかりもなく受け入れ、笑っていた。
その時ふと思ったのは、松田優作という俳優はかつての石原裕次郎がそうだったように、ある世代の若者の完全なカリスマだったということである。彼らは、松田優作の『太陽にほえろ!』『探偵物語』のころは小中学生であり、多感な時代に彼の急死を迎えたのである。どちらかといえば、バラエティの趣がある芝居ではあったが、その時感じたのは、彼らは松田優作という存在を心に育てながら大人になっていくのだろうということだった。
あれから四年の歲月が過ぎた。この四年という月日は、振り返ればアッという間だった。それでも、当初単行本として出版した時から、いろいろなことが明らかになってきた。
この本を書いたことをきっかけに、松田優作のかつての知人たちとも多く知り合うことができた。また『ブラック・レイン』ができるまでの事情にしても、『トータル・リコール』の時に、ポール・ヴァーホーヴェン監督と会い、当初マイケル・ダグラスが彼に固守したことを聞いた。あるいはキャスティングについても、さまざまな経緯があったことを知った。映画というものが、そうした偶然を経た上で出来上がり、その出来上がったものだけで評価されることを、これほど実感したこともない。
だが、作品の成功と、そのセンセーショナルなデビューの衝撃の大きさは、テレビ朝日『驚き桃の木二十世紀』で松田優作が取り上げられ、そこに登場した松田優作が初めて出会った映画人の証言でも明らかだった。多少、番組に関わったので、担当者から聞いたことだが、キャスティング・ディレクターのダイアン・クリッテンデンは、あれから数多くの出演依頼があるといっていたし、そのことをテレビでも言っていた。そして何より感動したのは、マイケル・ダグラスと、忙しい中でも松田優作のためならということで出演したアンディ・ガルシアの発言だった。もちろん亡くなった人間に対する礼があったとしても、今でもはっきりとトップ・スターである彼らの脳裏に残っているほど松田優作は強烈だったのだということを実感できただけでも大きかった。
その一方でハリウッド映画ビジネスの凄まじさ、トップ・スターの凄さも直接見せつけられた。つまり全てがギャランティで換算される中で、『ブラック・レイン』ではプロデューサーにも名を連らねているマイケル・ダグラスがほとんどの収益を持っていった。つまり、それがアーノルド・シュワルツェネッガーを含めたビッグ・スターの実態であり、あの当時はビリング(序列)では二番目のアンディ・ガルシアにしてもトップ・スターではなかったし、高倉健も同様であり、あくまでマイケル・ダグラスのワンマン映画だったのである。
今回、文庫本にするに当たり、最大の問題は松田優作の年齡だった。以前は何の疑いもいだかずに、昭和二十五年生まれということで記述していたし、事実、戸籍上では昭和二十五年であることは、松田美由紀夫人からも確認をとることができた。
にもかかわらず、昭和二十四年生まれという說が根強くあり、それは無視できないものだった。松田優作の友人にしてみれば、年齡によって付き合っていたわけではないから重要とは思えないのは当然だが、ノンフィクションを常とする者にしては、大きな問題だった。
結論から言うと、松田優作は昭和二十四年九月二十一日生まれだった。それが戸籍上なぜ昭和二十五年になっているかといえば、干支に関係してくる。昭和二十四年の干支は丑、二十五年は寅であり、松田優作の兄松田東氏によれば、母かね子が寅の方が男らしいということで区役所ヘの届け出を一年遅らせたということだった。そのためにかね子は違約金を取られ、その愚痴をかつて東氏は聞いていたと言う。
もっとも当人とっては、さして大きな問題ではなかったらしく、しかも意識的にか無意識的にか使い分けていた節もある。肝心の夫人にさえ、そうしたことは話さなかった。
こうして書きながら、亡くなってからも最後まで簡単にすませてくれない男だったとつくづく思う。
と同時に、今さらながら日本映画で彼を失った意味の大きさを思う。とくに現在では、当時のように日本のハリウッドヘの参加の仕方が資金をつぎ込むのみということではなく、かなり深い部分でもつながっていることから、もし松田優作が生きていればということは、たんなる仮定にとどまらないものがある。この間、彼が信頼していた黒澤満氏にしても、東映ビデオという形ではあるが、監督、スタッフすべてアメリカ人で占めた作品のプロデューサーに名を連ねるまでになっている。
日本映画が低迷している反面、一方で世界を視野に入れた日本人も多くなり、日本と世界の境界線が次第に曖味になる中、いまだに松田優作は大きく僕らの前に立っている。
最後に、故松田優作についての本を作るに当たり、松田美由紀氏、およびセントラル・アーツの黒澤満氏には終始温かい協力およびアドバイスをいただいた。また本書の親本である単行本については筑摩書房の青木真次氏、立風書房の小野裕康氏に、文庫本を作るに当たっては『カメラマンの映画史—碧川道夫の歩んだ道』でも面倒をかけた高崎千鶴子氏、そして校正面では原田雅昭氏に大変お世話になった。そして松田優作に関わる、いろいろ意見を聞かせてくださった多くの人。こうした方々には紙面を借りてお礼を申し上げる次第である。
一九九三年二月 山口 猛