第六章 自己表現的創作の隘路

 第四章・五章において見てきたように、ある種の物書きたちは「自分の心の最も深いところ」を誰かにわかってもらうために、それを何とか十分な形で表現しようと努力している。ただし、物書きたちは自分の内奥について初めから十分に知っているとは限らない。むしろ、彼らは執筆することを通して、自分自身についてより深く知ろうとするのである。言い換えれば、彼ら彼女らの表現は必然的に自己認識を伴って進むのである。だが、この自己認識の追求こそが、しばしば彼ら彼女らを袋小路に追い込んでしまうように思われる。

自己の認識と「人の謎」

 書くことに伴う自己認識の重要性を強調していたのは、『DDLC』においては文芸部のメンバーの一人であるユリだ。彼女は、執筆活動とはすなわち自分自身についてのより深い認識を追求することであると繰り返し主張していた。

「自分に向けて書かれたものこそが、真の書きものだから)」

(一日目)

ユリ「あなた自身について学んだことはありますか?(主人公)さん」

主人公「え?」

ユリ「ほら、詩を書くことは自分自身を知るためのすごく個人的な活動じゃないですか。だから……」

ユリ「結局のところ、良い書き手か悪い書き手かどうかなんて関係はありません」

ユリ「そして私の見解はあくまで一つの見解ですしね……」

ユリ「どんなときでも、一番重要なのは自分自身を探索し発見することだと信じています」

(四日目 合評タイム)

 彼女にとって作品とは、それを読み書きする者がそこに自分自身を見出すべき場である。自分の思考を目に見える形にし、自己を隅から隅まで照らし尽くし、認識しつくそうと試みる技術として、書くことが行われるのだ。

 ミシェル・フーコーによれば、このようなアイデアはヨーロッパではキリスト教が興隆して以来連綿と受け継がれてきた。その要諦は、執筆は自己認識の儀式の一種である、ということだ。

 この儀式の重要な前提は、「自分の中には何か隠れたものがある」ということである。次のユリの台詞に要約されているように。

ユリ「人の謎はその人自身にも分からないことがあります」

ユリ「でも正直で思いやりのあるあなたなら……」

ユリ「あなたの中にある、あなたが気づいていない感情を見つけることができるかもしれません」

(五日目)

 このような想定はフーコーによれば、「キリスト教的な自己解釈学」の特徴である。

自己検討には三つの主要な型がある。…(中略)…第三は、隠れた思考と内的な不浄との関連についての自己検討。この最後の契機に始まるのが、キリスト教的な自己解釈学であって、それは内的な思考の解読を伴っている。それは、われわれ自身の中には何か隠れたものがあって、われわれはその秘密を隠す自己幻影につねに陥っている、ということを含んでいる。

「自己のテクノロジー」65~66頁

 このキリスト教的な自己解釈学は、人生のいかなるときにも自分の中の闇の部分を探そうとしている。ユリが、先の台詞で「人の謎」について注意を払っていたように。「自分の知らない自分」を常に想定する彼女は、他人と会話する度に自らの発言を振り返り、相手に不快な思いをさせはしなかったかと逐一思い悩む。これは、自分が知らずのうちにに犯している罪を告発しようとしているのである(1)。

 このようなキリスト教式な自己検証は、自己認識の不完全性を前提とすることで、自己検証自体を一生の課題とする。言い換えると、自己は「それについて『十全な』認識を断念し続けるべきところのもの」として目指されるのである。

 いかなる瞬間においても、言語は包括的ではありえない。永続的な言語化を行う代償として、表現することのできなかったことがことごとく罪へと転化するのだ。

「自己の技法」400頁

 言語化が永続的であるのは、言語化された自己の真理を一段上の次元に持ち込み、もう一度言語化すべきものにできてしまうからだ。キリスト教の教義においては、終末の時までこの過程を止めることは決してできず、自己には常に隠された罪があることになる。

 「本当に自分を知っていると思おうとする」ことが、とうに挫折していたということに気づくこと、そしてその挫折に実際に直面することが、「自己の断念」という仕方によって自己に到達するために必要な試練なのである。

 以上のことからすると、ある種の物書きたちの「自分の心の最も深いところ」を自分が知ろうとするという試みは、それが不完全に終わることによって永遠の課題となるという構造を持っているわけだ。

 たしかに、特にキリスト教に共感を持っているわけでもないほとんどの人は、自分の心に自分自身でも知らないところがあるなどと常日頃から意識しているわけではないだろう。見えないものは端的に存在しないのであり、だから書くことによって探求すべきことなど何もないのである。他方、ある種の物書きたちは、そこでわざわざ「人の謎」を仮定して探求しようとするのだが、その探求するものが何なのか、本当にそれが存在すると言えるものなのかすら不確かなまま、物書きたちはそうするのである。

 このような循環が、作家たちを一体どのような場所へ導くのか。その試みが、自己表現に興味を持たない人の目にはどのように映るのか。こうした問いに、『DDLC』に先駆けて徹底的に向き合った作品がある。« Katawa Shoujo »(邦訳タイトル『かたわ少女』 )(2) と呼ばれるビジュアルノベルだ。

絵画において「自分そのもの」を表現すること

 『かたわ少女』の登場人物の一人、手塚琳は、重度の先天性障害とそれに伴う手術のため、両腕が肩までしかない。彼女は、障害をもつ子どもたちが通う全寮制の学校、山久学園の美術部に所属している。

 彼女は、日常言語への強力な違和感を抱いて生きてきた人間だった。彼女は私たちがコミュニケーションに使っているような言葉を信じていないとは言わないまでも、不得手である、自分向きではない、ということを何度も言い方を変えて主人公の久夫に伝えようとする。

琳 「話すのって難しいんだよ。じゃなくて、難しくはないよ。今だって話してるし。でも思った通りのことを話すのは私にはすごく難しいんだ」

琳 「何があっても、自分が本当に言いたいことは言えないんだよ」

久夫「それはおかしくないか」

琳 「本当だよ。私はいつだって、実際には思ってもいないことばっかり言ってる。時には言葉を忘れて、間違った言葉を使っちゃう」

琳 「しかも、ふさわしい言葉があるのに新しい言葉を思いつきで使っちゃうことまである。それって最悪だよ」

琳 「緊張しちゃって、口にする言葉が全部めちゃくちゃになって、自分でも何が言いたいのかよくわからなくなるんだ」

シーン「彼女自身のイメージで」

 この場面のように彼女が「話すのが難しい」と思うのは、彼女が「本当に言いたいこと」と、実際に口にする言葉とを完璧に一致させたいと思っているからである。このような信念は、第四章以降で見てきた物書きたちにも共有されていた。自らの「心の最も深いところ」を十分に表す言葉を彼女たちは探そうとするが、多くの場合、それは日常言語の中に見つけることはできず、自分自身の文体を開発しなければならないと彼女たちは思うのである。

 実際、琳が作中で用いる詩的な比喩の連続や、彼女独自の新語には大抵のプレイヤーが面食らうことだろう。彼女は『DDLC』の物書きたちと同様、本当に言いたいことを言おうとして、そのような文体を駆使するのである。しかし、彼女は決して詩人を目指しているわけではない。ここが物書きたちと琳の違いであるが、彼女は音声言語や文字言語への期待をあるところで手放している(「何があっても、自分が本当に言いたいことは言えない」)。むしろ琳にとっては「絵画」こそが、「自分の心の最も深いところ」を表現するために唯一使えそうな手段である。口から発する言葉は、その不完全な代用品に過ぎない。

 彼女は『DDLC』の物書きたちが詩においてそうしたように、絵画において「自分そのもの」を与えることにこだわる。女でもなく身体障害者でもなく、芸術家でも学生でもなく、手塚家の人間でもなければ美術部員でもない、言ってしまえば人間としてでもない、あらゆる「~としての自分」以前の自己自身を描こうとする。実際、彼女は学園祭のためにある壁画を描いたが、それを指して「自分で自分を表現している(It portrays itself)」(3) と形容した。なんの媒介も解釈も必要なしに与えられるもの、自己自身と完璧に一致しているもの、それこそ彼女が描こうとする唯一のものだ。

 しかし、彼女のこのような「自己表現的創作」は、少なくとも二つの困難に見舞われることになる。第一の困難は、無意識を描くことの不可能性である。第二は、作品解釈の無限定性である。つまり、どんな絵を描いたところで他人は結局的外れな情報を外部から持ち込んで、それを見たいように見てしまうということである。

自己の背後

 第一の困難は、そもそも自分の意識が及ばないような自分について、どのように描くことができるのかということである。「紙とペンとインクには何もかも伝えられた」と琳は言っていた(4)。ただ、これをいったん認めるとしても、「伝える」というのは自分の意識にある限りのことを伝えることしかできない。自己自身を与えるという試みに際して、もし自分が理解している限りの自己しか表すことができないとすれば、自己自身をあらかじめなんらかの自己像として切り取ることにならざるを得ない。それは自己自身ではなく、自己が自己について持っているイメージにすぎない。彼女が自分自身で言っているように。

琳 「自分が描きたいものを本当に描けるような気がすることもある。それは私の影のひとつでしかないって感じがすることもある。ちゃんと反射しない鏡みたいな」

シーン「非現実逃避」

 たとえば、自分を悪人として描き出したとしても、そう描き出したい動機を持っている自分、それを描き出したい動機を探りたい自分……というように、無限に自己を探ろうとする過程が続く。これを作品化するには、どこかで区切りを入れなければならない。

 琳にとって、この自己と自己の表現するものとの乖離は許しがたいことだった。彼女はそのつど彼女の全体でありたいし、「自分の意識と食い違う自分(の欲求)」など気持ちが悪いのだ。そのような心情を彼女は次のように吐露する。

琳 「ぴったりの言葉っていうのが絶対出てこないのがどうしてか、わからない」

琳 「自分で笑おうって思ったときしか笑えないのがどうしてか、わからない」

琳 「自分が張り裂けそうって感じるときでも、どうして私の中から何も出て行かないのか、わからない」

平然とした無表情の顔は、その言葉を口にしながら揺らぎもしない。

いつもの落ち着いた声が普段よりわずかに小さくなる。

琳 「でも誰が……誰がそんな気持ちになりたいなんて思うの?」

琳が俺を見ると、本当にそれがあろうとなかろうと、俺はその目に映る悲しさを想像する。

琳 「私はいやだ」

琳 「そんな気持ちになんてなりたくない」

シーン「君だけに見える世界」 訳を一部変更

 じっさい琳にとっては、あらゆる欲求はまず自分がそれを認識したうえで、打ち消したり喚起したりできるものでなければならなかった。したがって彼女は、その自由気ままな言動に反して、自分も一種の動物であるということを認めたがらない。

 とくに私が作中で気になっていたのは、琳が生理的な欲求を他人に投影して表現する傾向があることだった。例えばシーン「私の頭の中の雲」では、頭痛がするという久夫に対し、「お腹が空いたの?」と尋ねる。その後すぐに明かされることだが、このとき実際に空腹だったのはこの質問をした琳のほうなのだ。それまで奔放なふるまいを見せる彼女が、いきなり「わたしはお腹が空いた」と言わないことに、違和感を覚えたプレイヤーも多いのではないだろうか。

 もうひとつの例は、シーン「非現実逃避」の中の言葉だ。

久夫「俺はただ、お前との間の距離を感じたくないんだ」

琳は鳥のように首を傾げ、考えながら少し目を細める。

琳 「なら私に触っていいよ」

久夫「なんだって?」

琳 「触っていいよ、触りたいならね。それで気がすむんでしょ?」

久夫「さあな」

琳 「触ってみて」

 この唐突な提案は、普段から琳のほうが接触を望んでいたからこそ出てくる言葉ではないだろうか。そして問いかけの形をした願望ではないだろうか。「触っていいよ、触りたいならね」と一言置いておけば、「触れる」という事態を望んでいたのはこれを言われた久夫だけになるとでもいうような、「まあ私にはそんな欲求特にないんですけどね」とでもいうような、疎外するようなニュアンスが、この言葉に読み取れるのではないか。

 もちろん、琳は現実に様々な生理的欲求をもつ人間であり、自分が身体を持たないなどとは彼女自身も思っていない。ただ、彼女は自分の動物的であるところを認めるとしても、生理的欲求があえて高められた限りで認めるのでなければならなかった。

 物語中盤の展覧会の作品制作において、琳は自らに密室(食事や運動の制限)、煙草、自慰を与える。彼女はあえて生理的欲求に突き動かされることによって、「自分の意識と食い違う自分(の欲求)」を認識しようとしたのである。彼女は自分自身の意識にすらないような自分をも、自分の管理下に置こうと試みたわけである。

 しかし、その試みがはたして彼女の作品制作にどれほど貢献し、どれほど彼女の期待を叶えたのだろうか。私はその効果に懐疑的である。彼女は、その試みを終えてなお次のように言うからだ。

琳 「こんなのおかしいってずっと思ってたんだ。私の中にあるものと違うって。自分がどんな風に感じてるのかちゃんと説明できない、っていうか」

琳 「だから、もしかしたら私は自分の感じてることがわからないんじゃないかって思い始めた。おかしいのは私自身なんじゃないかって——」

琳 「そんなことを考えてた」

シーン「レゾンデートル」

 彼女をとらえた「自分がおかしいのではないか」という不安はまさに、自己認識が不完全であることの不安だった。これは、「自分の意識が及ばないような自分」というものをいったん考えついてしまったかぎり、決して拭い去ることができないのである。

名づけの不可避と画家の独我論

 ここでシュールレアリスムという言葉を知っている人は、創作の方法には自分の無意識を記述する自動筆記というものがあり、それは自己認識を経るわけではないが作家の真実を作品にすることができる、と言うかもしれない。たしかに琳が試みたように、どうにかして合理的思考からなるべく離れながら、そこから零れ落ちる以前のものを作品として仕上げることはできるだろう。しかし、それは先に述べておいた第二の困難を解決しない。自己の背後を垣間見るような作品をもし生産したとしても、他人はその作品をそれ自体で理解することなど決してできないからである。というよりも、「それ」を何かしらの概念に切り取ること、特定の文脈のもとに置くことこそが、なにごとかを理解するということなのである。

 物語中盤、琳は自らの初の個展について、キュレーターを務める西園寺と打ち合わせを行うことになる。彼女は自分の絵画のタイトルを尋ねられるが、そんなものはないと答える。それは、彼女が次のように考えているからだった。

久夫「自分の作品に名前をつけるのは好きじゃないのか?」

琳 「好きじゃない」

久夫「まあ、こういうものにぴったりないい名前を思いつくのは難しいんだろうな」

琳は激しく頭を振る。

琳 「そういうんじゃない。私が雲を描いてそれをタコって呼んだら、私が雲を描いてそれを世界の果てって呼んだときと比べてみんな違う考えを持つでしょ」

琳 「どんな名前でも間違ってる。私が絵を描いているときに感じたものを表す言葉なんて一つもない。言葉にすることじゃないんだ」

琳 「唯一できるとすれば、すべてのものに新しい言葉をいちいち考えつくことだけ。でもそんなのが何かの役に立つ?」

シーン「自己破壊」

 彼女は、絵のタイトルというまやかしによって、作品それ自体を歪めて見てほしくないのである。だから、琳は『無題 No.1』などとして絵を展示しようか、という西園寺の提案すらも退ける。たとえそうしても、人はその絵を「無題」と名付けられた作品として、つまり「題がないことに何らかの含意がある絵」として見てしまうからだ。「無題」とタイトルをつけることすらできない絵という形而上学的な琳の要求に、西園寺は嘆息する他なくなる。

さえ「つまりあなたは、自分の作品には一切ラベルをつけてはいけないと言いたいのね」

琳「たぶん、そういうことです」

さえさんは、タバコを吸いすぎる女性がよくするような、乾いた笑いをこぼす。

さえ「あなたの作品が絶対に美術館に収蔵されないことを願いましょうか。きっと学芸員が発狂するわ」

(同) 訳を一部変更

 このような困難は、琳と人間関係を結ぼうとする誰もが直面するものだ。琳を理解するとはふつう、琳を「友達として」「恋人として」「芸術家志望として」理解することだが、それは彼女の望むところではないからだ。彼女が他人に求めるのは、「自分そのもの」が何の名付けもなしに相手に受け取られるという、並外れた事態なのである。

久夫「先生はお前に、お前じゃない別の何かになってほしいと思ってたんだ。それで……」

久夫「……ごめん。俺も、俺たち二人が別の何かになれたらと思ってた……もっと、友達以上の何かに」

久夫「だから俺は自分を抑えられなくてあんなにイライラしてたのかもな、先生と同じように」

琳 「何がもっとなの? 私にはこれ以上の私はないよ。私はこれで全部。わけわかんないよ」

シーン「レゾンデートル」強調田原

 彼女は常に、この「全部」であるような自分自身を絵によって他人の目前に表そうとする。しかし、出来上がったそれを見る者は勝手にラベリングし、特定の文脈のもとで見たいように見てしまう。

 実際、作中で琳はギャラリーを借りて個展を開く機会を与えられるが、その結果は彼女の期待を裏切るものだった。そのつど彼女自身であるはずの数々の絵に、画商や美術関係者たちは彼女そのものを見ることはなく、その解釈を提出したり、作者である彼女から作品の構想やテーマを聞き出そうとしたりするからである。そのことに彼女は大変な幻滅を覚える。

 この経験によって、彼女は結局、自分自身——あるいは、物語中で使われている別の表現だと「自分の本質」・「私の内側にあるもの」——を、絵によって誰かに伝えることができないと痛感する。彼女は、その絶望を「ひとりぼっち」と表現した。

琳 「私……絵を描くだけで充分だと思ってた。少なくともそれだけは上手くできると思えたから」

琳 「頑張れば私の中にあるものはみんな絵にできるって思ってた。実際にできてたんだ」

琳 「でも、もうそれだけじゃ足りなくなってる。だって私以外の誰にも見ることができないなら、私はやっぱりひとりぼっちだから」

シーン「レゾンデートル」

 この絶望は、『DDLC』のユリやナツキが感じていた苛立ちや他人に対する無力感に通ずるところがある。

 彼女たちは「頑張れば私の中にあるものはみんな作品にできる」と思う。つまり自己と作品との完璧な一致を追求する。そしてその作品が、それを受容する他人との透明な関係を築くことをも求める。しかし、彼女たちの作品の制作にも受容にも常にすでに不純なものが入り込んでいる。作品は常にコンテクストによって歪められ、その枠外から別の記号によって補われ、不均質なメディアとなる。そのことが彼女たちには我慢ならないのだ。彼女たちは結局、自分が半透明の膜に閉じ込められており、自分が真に他人から理解されることも、他人を真に理解することもないと感じるからだ。

久夫「俺……誰だって理解されたいんだと思うぞ。みんなそうだ」

久夫「でも……それは無理だ。俺だけじゃなくて、誰にとってもだ」

久夫「さえさんもそう言ってた」

久夫「誰でもほかの人に影響を与えるし、逆に影響を受けもする。でも結局、人は自分だけの見方でものを見てるんだ」

久夫「誰もがみんな……ひとりぼっちだ。淋しさを和らげるためにお互いを利用し合ってるんだ」

シーン「君だけに見える世界」

 この寒々しい俗流独我論が、①自己と表現との完璧な一致と、②作者=作品を受容者がそのまま理解することを目指した「自己表現的創作」の行き着くところなのである。

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(1) このように、自己を裁判官であると同時に被告人とし、その罪を告発する習慣をフーコーは「裁判モデル」と呼ぶ。この種の自己検討がもつ道徳的な意味は、キリスト教的な自己のテクノロジーの特質であるという。『自己のテクノロジー』 44~45頁参照。

(2) この作品は、何らかの障害を持った少女たちとの恋愛を描いている、インディーズのビジュアルノベル(第四章註1参照)である。この概要だけでも人は困惑するだろうが、その露骨なタイトルにも面食らうはずである。「かたわ」という言葉は、障害者を意味する古めかしい差別語だからだ。しかし、この主題選択とタイトルの決定をもって、作品に次のような判断を下すのは間違っている。すなわち、これは障害者を小馬鹿にし、異常性癖の対象として消費しようとするものだとか、または逆に障害者の経験をことさらに美化して描くことを訴求力としているコンテンツ(いわゆる感動ポルノ)である、等。

 この作品に対して寄せられた道義的な反発と、それに対するゲーム制作メンバーの返答は、次のページを参照。« Unexpected Sincerity: Disabilities, Girls and Katawa Shoujo » https://www.kotaku.com.au/2012/01/unexpected-sincerity-disabilities-girls-and-katawa-shoujo/、最終閲覧八月二十五日。

(3) シーン「私の頭の中の雲」参照。

(4) シーン「たんぽぽ」参照。