第一章 最悪の出会い

『華の乱』

「まあ、焦るなよ。時間はたっぷりあるんだ。ゆっくりいこうぜ」

それが、一九八八年八月七日の午後五時半、京都全日空ホテルでインタビューを初めて行った時の松田優作の第一声だった。

その夏、映画雑誌『キネマ旬報』の企画物として、深作欣二監督の話題作『華の乱」の撮影ルポを引き受け、東映京都撮影所を二度ほど訪れることになった。

永畑道子原作のこの作品は、歌人与謝野晶子に焦点を当て、大正という、女性たちがそれまでの抑圧された世界から飛び立とうとした時代を浮きあがらせようとした作品だった。ここで松田優作は、与謝野晶子との恋愛がありながら、別の女、雑誌記者波多野秋子と心中をする小說家有島武郎を演じていた。

まず六月十日、取材のため、プロデューサー・岡田裕介、撮影・木村大作,照明・增田悦章、美術・内藤昭といったスタッフ、そして吉永小百合、緒形拳のインタビューを行った。

この日は製作発表の当日で、高岩淡・東映京都撮影所長、岡田裕介、永畑道子、深作欣二、吉永小百合、緒形拳をはじめとするメインキャストがスポットを浴びる中で、松田優作だけが欠席した。

同時にポスター撮りもあったのだが、彼のみあとではめこむことになった。

体調が悪いということだったが、共同記者会見でテレビレポーターの愚にもつかない質問を聞いているうち、松田優作の欠席したわけが納得できたような気がした。

この時に会えなかったことで、『華の乱』のルポでは松田優作のみが未知の大スターとなった。


私は彼と知り合うまで、松田優作の積極的なファンとはとてもいえなかった。『太陽にほえろ!』のジーパン刑事で人気が出てきた時は、劇団状況劇場の下働きで、バイトに明け暮れていて、とてもテレビなど見る余裕がなかった。

その後、『遊戯』シリーズにより東映でアクションスターとしての地位を確立して以降、彼の作品はほとんど目にしていたが、やはりファンというほどではなかった。東映といえばやはり“健さん”であり、深作監督の『仁義なき戦い』シリーズであった。

松田優作のその強烈な個性は認めても、過剰さが画面に収まり切らず、どこか苛立っている部分が目についたせいかもしれない。

彼が主催していた劇団公演のビラなどを目にして、驚いたこともあった。さらに、彼が文学座出身だということを知り、意外な感を禁じえなかった。

彼がアクション作品から踏み出して鈴木清順監督『陽炎座」に主演した時も、それほど注目すべき存在とは思わなかった。

しかし、森田芳光監督『家族ゲーム』(一九八三年)には正直、ショックを受けた。

なにもかもが吹っきれたかのような演技、いや演技とも呼ベないような自然さは、森田監督の新鮮な演出とあいまって、これまでの俳優には見られないものだった。それまでイメージしていた松田優作とはまったくの別人がスクリーンの中にいた。

その時から、松田優作という俳優は、いつか出会いたいと願う俳優になったのである。


そもそも、なぜ『華の乱』の取材を引き受けたのかといえば、関心のある深作監督作品だということと、またそのスタッフに二十年来の盟友がいること。そして馴染み深い東映京都撮影所が使われるということなど、ほとんど予定調和の部分が多かったからだっな。しかも、映画撮影の現場に関しては、いちどATG映画作品の助監督につき、こってりと絞られたこともあったから、ある程度すれていて、取材についてはたかをくくっていたところがあったのも確かである。

だがその中で、松田優作だけは異質だったし、彼に関するありとあらゆる噂が耳に入ってきていた。

現場で、タラタラしたスタッフを殴りつけたこと。『ア・ホーマンス』という作品では、監督を降ろしたこと。どんな雑誌の取材でも、インタビュアーに関しては彼が自分で選ぶこと。そのあげく気に入らずに殴ってしまったこと。

宣伝担当者の段取りが悪く、インタビューの予定がないにもかかわらず急遽入れてしまい、その宣伝担当はあとで半殺しの目にあったこと。

トラブルは狭い業界の中で半ば誇張され、あるいはその部分だけ一人歩きしていた。

だが、二度目の東映京都撮影所訪問の際に松田優作とインタビューすることは、東映の宣伝部ですでに決められており、松田優作も納得しているということだった。

しかし、京都行きの直前、ある雑誌の取材でインタビュアーをさんざん苦労して選んだものの、その男は松田優作の役である有島武郎について勉強が不十分で、不興を買ったことも聞いていた。

たんなる撮影ルポなのに、松田優作というひとりの俳優がいるだけで、なぜか戦場に行くような気持ちになっていた。

叱責

八月五日の早朝、東京を出発して、そのままロケ地の下賀茂神社に直行した。

有島が与謝野晶子と彼女の子供とともにピクニックをし、そこで愛の告白をするというシーンだった。

松田優作には撮影の合間に紹介された。彼は、暑いのか、小道具の団扇でしきりに扇いでいたが、その顔は無表情だった。

ひと月振りに見るスタッフは皆ロケーションで真っ黒に焼け、精悍さに徹夜続きの撮影の疲れもあって、前回訪れた時のような和やかさは消えていた。子供たちが大勢いて、明るく笑い声が飛び交ってはいるものの、どこか殺伐とした緊張感が漂っていた。唯一そうしたことに無縁だったのは、五十八歲の深作欣二監督だけだった。

やがてリハーサルが始まった。食事の最中にしゃっくりが出て止まらない与謝野晶子に有島が「愛しています」と告白するショットである。

いつもの癖で、カメラの後ろ、そして全体がよく見えるように、マイクを振っている友人で録音助手の木村益夫の横に陣取った。

だが、彼に、

「目線には注意せなあかんで」

と言われたとたん、「愛しています」との台詞で顔を上げた松田優作と目が合ってしまった。間髪入れず低く鋭い声が飛んだ。

豊島泉プロデューサーが飛んできて、私を木陰に連れ込んだ。 「だめだよ。目線は気をつけてくれないと。まあ、ちょっと控え目にやっといてや。後でうまくやっとくから」

豊島プロデューサーは松田優作のところヘ行くと、なにやらボソボソ話している。

またカメラテスト、本番テスト、本番と続き、切り返しのショットに移った。

そこまでなにもなかったことで、少し安心した。またぞろこりずに今度は木村大作キャメラマンの後ろに陣取って見ていた。

だが、今度は名指しだった。

「おい、『キネマ旬報』、なにやってるんだ!」

これで、万事休すだった。スゴスゴと後ろに引き退るしかなかった。

木村益夫がやってきた。

「少しおとなしくしていた方がいいんじゃないか。優作には、あとで俺がなんとか言っておくわ」

「いや。ともかく、謝るわ」

「まあ、それがいい。あとはインタビューうまくいくようにしてや」

これでインタビューまで出来なくなれば目も当てられない。

仕方なく、遠くでこのシーンの撮影がすむのを待っていた。

十二時を過ぎて、ようゃく昼休みの休憩になった時、引き上げてきた松田優作に非礼を詫びた。

座って紹介された時は感じなかったのだが、その背が高いのには驚いた。

こちらも百七十五センチだから普通以上なのだが、それでも見上げて話すというのはプロレスラーの天竜のインタビュー以来だった。横幅はそれほどなかったけれども、独特の威圧感があった。のちに、ルトガー・ハウアーやドナルド・サザーランドという大型の俳優と話した時ですら、これほどの威圧感と緊張を感じたことはなかった。

「いいか。撮影もここまで来ると、スタッフは皆、空気のように現場に溶け込んでいるから、どこでウロウロしていても気にもならない。だけど、そんなところに生の人間が入ると、そいつだけが目立ってどうしようもないんだ。映画をやっているんだったら、そのくらいは分かるだろう」

意外だった。頭ごなしにくることを覚悟していたものの、その言い方、そして論理がひどく明晰で、なんの反論もしようがなかった。瞬間的に、今まで松田優作について聞いていたこととは違うのではないかと思った。

たしかに東映製作側は松田優作に対してほとんど腫れ物に触れるように細かく気を遣っていた。今でも強く印象に残っているのは、出番がない時に遠くでひとり椅子に座り、団扇を扇いでいた姿であり、彼は誰からも距離を保っていたように思えた。

だが、実際の松田優作は、撮影を終えるとスタッフルームで裏方と一緒に鍋をつついたりして、心あるスタッフを引きつけていた。

本当は通じるものがあるのではないか。

のちに、この時のことを松田優作に聞いてみた。

「あの日以来、インタビューの時まで、本当、どうしたらいいのかと絶望的な気持ちになりましたよ。撮影ルポは出来ても、あなたとの話もなく、東京に帰るとなると大変ですから」

「実は、俺もそうなんだ。豊島からキネ旬のインタビュアーだって聞いたから、まずいなあと思っていたんだ。だけど、言ってしまったら引っ込みがつかないし」

しかしその時は、彼の心のうちを推しはかる余裕などなく、本当に松田優作にインタビューが出来るのかどうか心配だった。

その日、昼休み時間を利用して松田優作に、ある雑誌社が短時間ではあったがインタビューを行っていた。

午後になって宣伝部の方から、撮影がオフになっている翌々日の七日、夕方五時半から、彼の宿舎である京都全日空ホテルでインタビューを行う旨が伝えられた。

だいたい俳優とのインタビューは、あらかじめ時間が決まっていて三十分なり一時間話してそれっきりだというのに、わざわざ撮影がオフの時にインタビューをするなど、よく分からないことだった。

東京でも聞かされてはいた。

「優作は撮影がない時は暇だから、たっぷり付き合わされるんじゃないのか」

半信半疑で、本当はそのことをいちばん期待してはいたのだが、それでもこの時には、まさかという思いしかなかった。

その夜、オープンでの夜間ロケがあり、エキストラ三百名を使っての撮影が深夜の二時までかかった。翌六日は午後の撮影で、松田優作は一シーンの出番だけだったが、二日とも遠くで気付かれないよう観察していた。

インタビュー

七日の五時半、インタビューは単独ではなく、東映宣伝部の女性とパンフレット担当の女性が同行した。

その時の気持ちは、今考えると相当追い込まれていたものの、半面、松田優作本人がインタビューを許可したということで、なんとかなるとふてぶてしく構えたことも確かだった。

ただそれはあくまで最後の開き直りのようなものであり、心中おだやかではなく、さまざまなことを考えていた。どうやったら松田優作を自分の土俵に引き込めるか、インタビュアーの習性とはいえ、この大きなハンディを覆す突破口を探していた。

しかし、京都全日空ホテル、ロビーの喫茶室に、ホテルのプールで泳いできたばかりということで身軽な格好をして、しかも、現場とは似ても似つかない柔和な顔立ちで現れた松田優作を見た瞬間、こうしたさまざまな思いはすべて氷解した。

気負っていたためだろう、いきなり深作監督とのことを持ち出した。

「まあ、待てよ。ゆっくりいこうや。時間はいくらでもある。まず飲み物を頼もうぜ」

松田優作の穏やかで低い声を聞いたとたん、これでインタビューはうまくいくだろうという確信めいたものがわいてきた。

話は深作監督、この『華の乱』を引き受けるにあたってのことからはじまった。


松田優作は五月十一日からはじまった第四十一回カンヌ国際映画祭に、吉田喜重監督『嵐が丘』の主演俳優として出席し、帰国した直後にこの『華の乱』の出演を決めたというのであるから、クランクインまでほとんど日がなかった。

『華の乱』に松田優作を積極的に推したのは、あくまで映画にこだわり続ける彼の姿勢に共感したプロデューサーの岡田裕介だった。

深作監督と松田優作とは、『海燕ジョーの奇跡』をはじめ、以前二度ほど映画を撮る話があり、そのつどギリギリまでいきながら流れていたという経緯があった。そのため、深作監督、あるいは松田優作のマネジメントをしている黒澤満にも多少の不安があったことは否めなかった。

しかし、岡田裕介と黒澤満、松田優作が新宿京王プラザホテルの喫茶室「デュエット」で会い、岡田が『華の乱』への出演依頼をした時、その場で松田優作は引き受けた。

インタビューの皮切りに、まずこのことから尋ねた。

「きわめて珍しいことだね。俺は現場でもめるのが嫌だから脚本にしても問題にしたし、まして監督となれば、どこまで信頼できるかということがあるじゃない。意思の疎通を欠いて、現場でもめたことがよくあったんだ。だから、慎重になるということではなくて、長く続くとそうしたことに非常に嗅覚が敏感になってくる。だけど、深作監督に関しては以前から好きだったから、そうしたことでは問題にもならなかった」

こうしてインタビューはすベりだしたが、即座に感じたのは、こちらがある意見を言った時、あるいは断定的に言った時には彼が必ず切り返してくることだった。

深作監督の作風がかつての『仁義なき戦い』当時とは変わってしまったのではないかということに、物足りなさを感じているというニュアンスを含めて言った時だった。

「でも、変わらない人間はバカだろう」

その一言でそれ以上なにかを言うことは封ぜられ、彼は続けた。

「作さんも実録物で日本一になったわけだから、たくさんやり残したことはあるにせよ、区切りがついたというか、映画作家としてもうひとつ違う角度が見たいのだろう。それが彼が変わったと思われることなんだ。ただ、本質的には、俺は深作欣二が変わったとは思っていない。彼の要求はつねに新しい。なにか違うものを求め続けているし、その姿勢は変わっていない」

ついで、松田優作が演じる役柄についての話に移った。

自分の演ずる有島武郎について、松田優作は図書館などで徹底して調ベ、そのキーワードとして黒魔術という視点で捉え直そうとしていたことを事前に聞いていたが、それは意外だった。脚本上にはそうしたことを示唆する台詞も、ト書きもなかった。

「だけど有島さんは、基本的には黒魔術の人だぜ。だから、一般的なキリスト教の裏側からなにかを感じた人なんだ。そのへんから突っ込めば、これはかなり危険な映画になる。有島が波多野秋子をサイドカーに乗せて大杉栄を助けるというシーンにしても、俺は解釈の問題として、あれが有島の姿だと思っている。デカダンスなんだ。ギリギリ死んでもいいというところで遊びまくっているんだよ」

だが、この『華の乱』では、松田優作の思いと深作欣二のそれとでは当然、異なることは目に見えていた。だいいち、深作欣二にはそうした幻想や宗教に対する関心はなく、それよりも、現実の生々しさの切りロの鋭さといおうか、この薄汚い現実こそがその本領を発揮して描ける世界だった。『華の乱』も、大正ロマンをテーマにしていたとはいうものの、女性がいきいきとしていた時代の一種の文芸アクションのようなものになるのはやむをえなかった。

当然、松田優作の役作りは深作欣二の世界では合わなくなる。

「だからいろいろ調べはしたけれども、全部止めてしまったんだ。第一、この映画は、俺というより、有島の映画ではなく、与謝野晶子さんの映画であり、それに男たちがどう関わっていたか、その辺の大正ロマンを深作欣二の世界で作ってゆくものだ。しかも、有島の長い一生の中で俺が実際に登場するのは、心中の道行きと与謝野晶子に対するほのかな恋心のシーンしかない。子供との葛藤、死んだ妻、キリスト教の問題は一切ないわけだ。本当は、そのエキスをやらなければならないわけだけれども、全部を抽出することはできないから、俺は、俺が感じる危ない時間、有島さんを探るのは止めて、監督が考えている有島さんになる。俺なりの感じ方で監督との距離を縮めながら、どこか競合してゆくものを作りだしてゆく。そのことに対しては俺はすごく満足している」

彼の言う「危ない時間」とは、デカダンスから狂気へも陥りかねないものヘの志向性だった。だが、それを監督の意向に従って断念するというのも意外だった。松田優作といえば、自分の役に対する考えをあくまでも押し通す俳優とばかり思っていたのに、こうした柔軟さをもちあわせていたのである。彼は映画というものに対して謙虚であろうとし、その深みを究めようと求めつづけていた。

「俺は、映画のことをとことん知っていて、知らないことについても冒険し続けてきている監督と今は組みたいんだ。若い監督とも一緒にやってきていい結果は生んだけれども、やっているうちにもっと勉強したいと思った。より以上に映画の様式、優雅さ、豊かさを身につけたい。いろいろなライティング、立体感を知っている監督と付き合いたい。今はそうした時期だと思っている。

吉田喜重監督ともそうだった。俺はこれまでラッシュを見て監督に注文をつけたりしたこともあった。それは、自分の役に対していくつものプランを持ち、それをどう写すべきか俺が自分なりの考えを持っていたからだ。だけど、吉田監督以来それは止めた。任せることにしたんだ。それは、放棄したということではなく、たとえば俺が三つくらいのスタンスを持っていたとすると、そうした監督というのは、全体の映画の流れの中で俺以上にはるかに深い引き出しを持っていて、それを五つも六つも出してくるわけだ。そうなると、俺なんかが口出しするものではないだろう。最後に見ればいいものだと思っている。

作さんだってそうさ。今、俺は作さんに夢中になっているんだ。いろいろ若い監督が出ているけど、深さが違う。『仁義なき戦い』なんて十五年前だぜ。今、あれほどの映画を撮れる奴がいるか?彼はそういうことの積み重ねできたわけだ。たんに時代に目新しいということではない。時代に入って、こだわっているところがあるから、人間の見つめ方にしても、真っ直ぐ見ていたかと思えば後ろから見ている。今、新人がいっぱい出ているけど、頭打ちじゃないか。それは決定的に経験が足りないからだ。経験というのは、たんなる時間の積み重ねではなく、人を感じる目であり、耳であり、皮膚感覚なわけだ」

松田優作は深作欣二のことを「湿っている。乾いていない。肉体をいつも濡らしていたいという監督で、自分にはよくわかる」という言い方をした。

「湿っている」というような、ひどく感覚的な言い方を松田優作はよく使った。

こうしたことは演技についてもそうだった。

「監督と俳優との話がなにかといえば、具体的に言うことは出来ないけれども、大きな動きをして、それを1、2、3、4と数えるとすれば、その1と2の間にコンマ2とか3を入れてくれということなんだ。1、2、3、4ならば、一定のレべルの俳優ならそれは思いがけない発見もせずに、予定調和でいけるものなんだ。それ以上は俳優が出来ても、監督がそのことに気付かなければ、それっきりだし、そのことで俳優は妙に安心する部分がある。まあ、今はバカな監督が多いから俳優も大きな顔をしているけど、しかし、なかにはとんでもない監督がいるんだ。ちゃんと見ていて、現場でアンテナを張っているわけだ。俳優は演じているということで電波を出し、それを監督に見られているということも意識している。で、アンテナに入ってきた時、監督が『違うな』というところから、作業がはじまる。たとえばさっきの例でいけば、2を演技してもどこか違い、3の演技でも違ったとき、俳優は今度はコンマを間に入れ、『2.4』でどうかなという演技を見せる。演技の微調整をするわけだ。それで、監督がその俳優はそうした微調整が出来るとなれば、今度はそれに応じて要求も多くなるし、そのことで俳優と監督の共同作業が成立する。

もちろん、こうしたことは微妙なニュアンスの問題だから、いちいちロに出して言うとは限らない。だけど、お互い分かり合った部分があったとしても、何も言わないのは失礼だ。だから時々、監督がわざわざ言いにきたりするのは、礼儀というか、愛情交換だな。それが出来る人を“濡れている人”というんだ」

さらに、深作監督のもとで共演した吉永小百合についても、細かい分析をしてみせた。

「あの人は化け物だな。日本の風土にも合っているのか、何者にも負けずに向かっていくし、逆に引くこともできる。相手に対する距離を取ることが上手なんだ。女優をすることで子供を産んでいる人なんだな。その産み方がカラッとし過ぎているから淡白に見えはするけど、どうしてどうして凄いものがある。自分の皮膚、瞼が、何ミリ、コンマ何ミリ腫れるだけで、『ん!?』となる人だから。そこまでは普通の人は気付かないだろうが、微妙な周波数でイラッとくるのが俺にはよく分かるんだ」

松田優作は初めての深作欣二監督との仕事、吉永小百合との出会いを心から喜んでいた。

この日のインタビュー自体は一時間半くらいで終わった。いつもなら口ごもるところもなぜか安心して話すことができたこと、最悪の出会いを演じた撮影現場での印象とあまりに違う松田優作の素顔に正直驚いた。それほどこの時は、ある暖かみを感じた。

その後、何度か彼とは口論に近いところまでいったこともあったが、彼の持つ暖かさは終始変わることがなかった。それがどこから来ているのかというと、スターにありがちな、仮面をつけたような距離感を彼が感じさせなかったからだったかもしれない。インタビューで松田優作はただ自然に答え、感じたことを慎重に話した。

意外な展開

これで仕事としてのインタビューは終わり、また松田優作と会うためには別の機会を探さなければならないはずだった。

だが、そうはならなかった。

「寿司でも、食いに行こうか」

同じホテルの寿司屋に行くと、彼はすっかり馴染みのようだった。

もしかしてこうなるかもしれないとは思っていたものの、いざ実際に彼に誘われてみると感慨深いものがあった。

なんといっても松田優作は日本を代表するスターであり、『キネマ旬報』誌上でも読者の人気が飛び抜けている若者たちのカリマス的存在だったから、そうした出会いが続くとは、はなから考えていなかったのである。

その時は、意外なほど話がはずんだ。彼は思いつきやのめり込むような話し方ではなく、慎重に言葉を選んでは語りかけた。

彼の噂として、恐ろしく酒が強いことを聞いていたし、飲んだ上での喧嘩もいろいろ耳にしていたから、その点は覚悟していた。

「この間、ある映画評論家が俺にインタビューにきて、とことん付き合うというから、えんえん話したけど、五、六時間たって午前の二時くらいには逃げていったしな。たいしたことはない」

そう言われると、こちらも体力には自信があるし、意地にもなるのだが、そのわりに彼は、食事にせよビールの飲み方にせよ本当に味わうようにしていた。そうした姿勢は彼と最後に別れるまで変わらなかった。

寿司屋でしばらく話した後、同じホテルのバーに入ったのだが、彼はソルティードッグを二杯飲んだだけだった。

酒豪のはずなのにとけげんに思った。

「実は血尿が出ていて、ちょっと気をつけているんだ」

何気なく聞いていたが、今思うとすでに癌がかなり進行していたのかもしれなかった。

その時、彼はたまたま手に『ニュートン』という科学雑誌を持っていてっ科学の話題になった。

「今、ウイルスとか分子生物学とか、そういうのが、ひどく面白い」

彼の言葉が妙に印象に残った。奇異な感じもしたが、彼は好奇心を覚えたものはなんでも貪欲に吸収し、世界に様々なアンテナを張り巡らせていた。

俳優が成熟するためには、あるいは彼の言い方に習って「グレードを上げる」ためには、俳優個人の人間的なものが最後に問われる。ウイルスと演じることとは直接的な関係があるはずがないにせよ、人間としての豊かさ、学ぶという心をいつまでも失わずにいるということの大切さ、ある意味で日本の俳優にいちばん欠如しているのはそうしたことではなかったのか。そのことを誰よりも強く意識していたのが松田優作だった。

彼は好き嫌いのはっきりしている人間だったから、同じ俳優であっても批判する時はとことん容赦せず、だめなところを指摘した。

彼が『ブラック・レイン』でアメリカの俳優たちと共演して、最も身にしみて感じたのはそのことであり、撮影の合間に日本に帰ってきたときもよく言っていた。

「マイケル・ダグラスやアンディ・ガルシアにしても、彼らは家族の写真を持っていて、ごく普通に家庭のこと、『自分を支えてくれる妻だ』ということをなんの気負いもなしに言える。しかも自分のすぐ手の届くところに音楽があったり、美術館があるから、自然にそうした話も出てくる。べつに教養といったものではない。人間として生きる上で、家庭も美術も自分の心の庭に住んでいる。だから、彼らが俺に『ユーサクの奥さんはどんな人だ。連れてきてくれ』と言った時、俺もごく普通に答えることが出来たんだな。だけど日本の俳優同士で、全部とは言わないが、そんな話が出来るか。皆、なにか飢えたように有名になりたいやつらばかりじゃないか。それでいて、中味はなにもない」

それとともに、彼を近く感じられたのは、舞台に強い関心を持っていたことだった。唐十郎主宰の状況劇場についてもよく知っていたし、そこから出てきた小林薰は『それから』(森田芳光監督)の共演者だったから、撮影の様子などを聞いてみた。

「薰は可愛い奴だぜ。『それから』の時は、森田と三人でしょっちゅう一緒に飯を食ったり話をしたり飲んだりと、さんざん公私共に薰と一緒だったんだ。最初のころ、薰はあの役が思うように出来ず、俺と森田とで考えて、板を薰の背中に入れて固い感じを出すようにしたんだ。だけど、薰が森田とくっついて競馬にまで一緒にのめり込むとは思わなかったな」

さらに、関連して、かねてから疑問に思っていたことを、尋ねてみた。

「優作さんが文学座出身ということが僕にはどうしても理解できないのですが、うまくいっていたんですか」

「そりゃ、考えてみろよ。田舎からなにも分からずに、ただ役者になりたいということで募集があるところを探し、その中で文学座が一番難しそうということで受けたら、入っただけなんだ。もっとも、すぐ辞めたけどな」

こうした会話の合間にも、彼は同席した東映宣伝部の女性に『華の乱』のパブリシティがあまりに旧態依然としていることについて、なかば揶揄しながら尋ね、またむきになって反論する女性を適当にあしらっていた。

それでも彼のその言い方は決して相手を傷つけるものではなかった。

この時、チラッとだったが、彼が『ブラック・レイン』のオーディションを受けたことを聞いた。

「リドリー・スコットと会った」

しかし、私はその言葉の持つ意味に気付かず、ただ相槌を打っただけであった。

結局、十二時より若干前にバーを出た。松田優作は明日一シーン出演する予定があるとのことで、きわめて穏やかな酒宴だった。

ロビーで別れる時、彼は、

「また東京で会おう。八月半ば過ぎには撮影が終わるから、そのころ電話をくれ」

そう言って、自宅の電話番号を教えてくれた。「本当に電話をしてもいいのですか」と確認するのは少々情けなかったが、それでも松田優作にそう言われるのは嬉しかった。

私はその足で東映撮影所に戻り、撮影中の『華の乱』のスタッフに合流して、松田優作とのインタビューがうまくいった旨を報告した。

翌日、東京に帰る日で、豊島プロデューサーに付き添われ松田優作の控え室を訪れた。

何日か前の険しい顔とはうって変わってにこやかに迎えてくれたが、その時、彼はラジカセでオペラを聴いていた。ヴェルディのオペラのアリアに聴き入る松田優作は、その雰囲気が音楽によく似合っていた。

「また、東京で会おうぜ!」

それが、松田優作との初めての出会いだった。

インタビューの仕事をしてきてこうした成り行きになったのは初めてのことだったし、あまりの急展開に自分でも驚いていた。

これまで距離を感じていた松田優作という俳優が急に身近に感じられたのはもちろんだが、この時から俳優としての彼がなにをしようとしているのかが私にとっても大きな関心事になってきた。

《松田優作 炎 静かに》

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