第五章 『ブラック・レイン』

発端

『ブラック・レイン』が、どのような形で製作されるに至ったのか、松田優作に関しては多少外れるかもしれないが追いかけてみよう。


一九八七年十二月、水野洋介はロサンゼルスのレナード・シュレイダーから電話を受けた。

レナード・シュレイダーは同志社大学で英文学の講師をしていた親日家で、脚本家・監督のポール・シュレイダーの兄であり、八四年にポール・シュレイダーが監督をした日本未公開映画『MISHIMA』の企画、そして脚本にも名を連ねている。水野はその時の日本側プロデューサーであり、レナード・シュレイダーとも親しくなっていたのである。

「実は、マイケル・ダグラスが、日本を舞台にした映画を撮る企画があるというので、相談を受けたんだ。つまり、製作の協力者を探しているというんだ。それで俺は水野を推薦しておいたから、近々連絡があると思う。その時はよろしく頼む」

これが『ブラック・レイン』について日本にもたらされた最初の情報だった。

マイケル・ダグラスは、七五年のミロス・フォアマン監督『カッコーの巣の上で』で、プロデューサーとしてアカデミー賞作品賞を受賞し、さらに『ロマンシング・ストーンナイルの宝石』『チャイナ・シンドローム』でも製作に参加するなど、プロデューサーのキャリアも持っていて、たんなる俳優の希望ということには止まらなかった。

その彼が興味を示したのが、クレイグ・ボロティンとウォーレン・ルイスの共同脚本『ブラック・レイン』だった。

「『ウォール街』のおかげで違う役どころにチャレンジする機会ができたが、次には今までにないフィジカルなヒーローを演じたいなァと考えていました。そこに、『ブラック・レイン』の脚本が送られてきたんです。書いたのは新人のクレイグ・ボロティンとウォーレン・ルイス。いやァ、ワクワクしながら読みました。エンターテイメントと社会的なテーマがきっちりと押さえられていますから、これまでのハリウッド作品とは異なる日本人像が書きこまれている。これはいけると思いました。早速、『危険な情事』のプロデューサー、スタンリー・ジャッフェとシェリー・ランシングに電話をしたわけです」(TVBrоs 89年9月27日号)

もちろん水野は、その時点でタイトルも内容も一切知らされていない。

それからしばらくして、マイケル・ダグラスの秘書から電話がはいった。

「マイケル・ダグラスが八八年二月に日本に行くことになるので、その時にはよろしく頼みたい。詳しくは、また追って連絡する」

マイケル・ダグラスがスタンリー・ジャッフェ、シェリー・ランシングにこの企画を持っていったのは『危険な情事』以来で、信賴できる人々と組んでやりたかったからだろう。この脚本に基づいて実際に映画製作をやるとすれば、アメリカと日本の二ヵ国に跨っての撮影になることで、膨大な製作費がかかるのも予測されたから、どのような反応を彼らが示すかが大きなポイントだった。

プロデューサーのスタンリー・ジャッフェは、二十九歳の若さでバラマウントの運営役員兼幹部副社長、ついで社長に指名された。『ある愛の詩』『ゴッドファーザー』の指揮を取り、パラマウントの経営基盤を安定させた後、七一年にジャッフェ・フィルムを作り、『がんばれ!ベアーズ』をヒットさせた。七五年、今度はコロンビア映画の幹部副社長に就任、『ディープ』『未知との遭遇』を製作。七七年、スタンリー・ジャッフェ・プロダクションを設立、『クレイマー、クレイマー』で、アカデミー賞作品賞を受けた。

シェリー・ランシングは、数学の教師からモデル、女優に転じたが、映画製作に魅きつけられ、スクリプト・リーダーからMGMのエグゼクティブ・ストーリー・エディターとして働いたあと、製作業務の幹部副社長に昇進、コロンビア映画に、製作の上級副社長として招かれた。彼女が指揮した映画には『チャイナ・シンドローム』(マイケル・ダグラス製作・主演)、『クレイマー、クレイマー』等がある。八〇年、20世紀フォックス社長に就任、メジャーの映画会社で社長になった初めての女性だった。

このシェリー・ランシングとスタンリー・ジャッフェが組んで、八二年に設立したのが、ジャッフェーランシング・プロダクションである。全世界で三億ドル以上の収益を得たエイドリアン・ライン監督、マイケル・ダグラス、グレン・クローズ主演『危険な情事』、ジョナサン・カプラン監督、ケリー・マクギリス、ジョディ・フォスター主演『告発の行方』といった作品をヒットさせた。

今回の脚本については、シェリー・ランシングがどう出るかが大きかった。彼女は脚本の分野で長いこと働き、それだけの実績を上げていたから、マイケル・ダグラスの信頼は絶対的なものがあった。

マイケル・ダグラス——

「このスクリプトがヒットするかどうか。シェリーに読んでもらったんだ。すると、彼女は『大丈夫、絶対にヒットする』。そうした勘というかセンスということに関して、脚本から見極める能力は彼女は飛び抜けて高いグレードを持っているんだ」

シェリー・ランシング——

「『ブラック・レイン」は、恐怖と憎しみが理解の不足から出てくる。この場合には、アメリカの刑事ニックとマツモトの間には、国が違う人々からしばしば相手に感じる用心深さが反映されている」(プラック・レイン プロダクション・ノート)

その点はスタンリー・ジャッフェも同様だった。

「マイケル・ダグラスが『ブラック・レイン』を一緒にプロデュースしないかと言ってきた時、シェリーと私はゾクゾクした。何よりスリリングな刑事もので、私がこれまでに見た映画の背景の中でももっとも興味深いものの一つを舞台にしている。つまり日本という国だ」(同前)

マイケル・ダグラスには、俳優として専念したいという思いもあった。

「今回のようなパートナー・シップの場合、製作チームの一員でありながら実際の製作事務をジャッフェとランシングの二人に任せて、かつ製作の出来具合に口が出せるという一番理想的な立場に自分を置くことができる。だから演技に集中できるんだ」(ロードショー 89年10月号)

スタンリー・ジャッフェとシェリー・ランシングはこの企画をパラマウントに持ち込んで、全面出資が決まり、監督にはリドリー・スコットが選ばれた。当初マイケル・ダグラスは監督に『ロボ・コップ』で成功を収めたポール・ヴァーホーヴェンを考えていた。ヴアーホーヴェンが『トータル・リコール』の宣伝のため来日し、会った時に直接聞いたところ、触手は動かされたものの、すでにシュワルツェネッガーと準備に入っていたために断ったという。ただマイケル・ダグラスのヴァーホーヴェンヘの思い入れは後で『氷の微笑』で実を結ぶ。

リドリー・スコット。一九三九年、イギリスのノーサンバード、サウスシールズ生まれ。少年時代から美術に特別の興味を持ち、ロンドン王立美術大学で舞台美術を志す。同期には現代美術家のデヴィッド・ホックニーもいた。そこでリドリーは映画に関心を持ち、16ミリのポレックスで最初の短篇映画を撮り、高い評価を受けた。卒業後二ューヨークへ行き、ドキュメンタリー映画に参加。帰国後はBBCでプロダクション・デザイナーとなり、三年ほどで自分のコマーシャル会社を設立した。ここで彼は十八年の間に三千本のコマーシャルを作り、会社はヨーロッパで最も成功した製作会社のひとつになった。

七六年、デヴィッド・パットナム製作の『デュエリスト』で映画監督デビューし、いきなりカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞。つぎの『エイリアン』(七九年)が世界的なヒットとなり、『ブレード・ランナー』もその独特の世界が注目され、一部熱狂的なファンを獲得した。以後、『レジェンド/光と闇の伝說』(八六年)、『誰かに見られてる』(八七年)と続いている。

マイケル・ダグラスやスタンリー・ジャッフェが、リドリー・スコットを監督として起用しょうとしたのは、彼独特の映像感覚によってだった。

マイケル・ダグラス——

「監督にリドリー・スコットを選んだのも僕だ。彼には、ビジュアルなパワーがある。『エイリアン』『デュエリスト』『ブレード・ランナー』を見てごらん。映像の威力がドラマチックですらある。彼は成功したCF会社を所有していてね。そこで生み出されるCFは美しい以上のサムシングがあるんだ。ただ、彼がきっちりとストーリーテーリングできるかどうか心配だった。これまではどちらかといえば映像に負けていたからね。そこで脚本をもとに、リドリーのコンセプトを尋ねたんだ。すると、彼は極めて理論的かつ優れたアイデアを出してきた。僕は基本的にオールドファッションなストーリーテーリングが好きだし、まあ、それなりに経験も積んできた。その僕とリドリーのアイデアを合わせればいいものができる。その確信がつかめたわけだ」(漫画アクション 89年10月31日号)

『ブレード・ランナー』のロサンゼルス東洋人街が強烈な印象を残したリドリー・スコットの名は、日本を舞台に本格的映画製作をするならば、プロデューサーなら誰しも念頭にあったことだろう。

リドリー・スコットにしても、今まで『エイリアン』を除いて興行的には作品評価ほどではなかったから、ジャッフェ=ランシングというヒットメイキング・チームと組み、実績を残すことができれば、今後の映画製作上で大きいものがあることから引き受けたのだろう。

リドリー・スコット——

「監督としては、あらゆる分野、あわゆる時間を撮らなければいけないと思っていて、もうそろそろ現代を取り上げなければならないと感じた。しかし、来日するまでは、ドキュメンタリーゃニュースで知るくらいで、特別これといって日本に対して知識ゃ関心があったわけではない。何といっても、欧米から見れば日本はきわめて遠いので、ミステリアスな感じのする国なんだ。ただ、学生のころは、ロンドンにあるナショナル・フィルムシアターで行われる映画祭で、よく黒澤明の作品を見た。雨とか風とか土とかの使い方がとてもうまくて、これに今でも影響を受けている」(マリ・クレール 89年11月号)

プロジェクト、動きだす

八八年二月下旬、水野洋介自身、前年暮れのレナード・シュレイダーの電話の内容も忘れかけていたころ、フィルムリンク・インターナショナル社長・山本又一朗宛に、パラマウントからファックスが届いた。

「プロデューサーとして、水野洋介を貸してほしい」

当時、水野がフィルムリンクに所属していたことから、パラマウントとしては、一定期間内の貸与を求めたのである。

二月二十二日深夜、水野はロサンゼルスにいた山本から電話を受け取った。

「とにかく明日、乗れる飛行機に乗って、大至急ロスに来てほしい。それでパラマウントの重役と会ってほしい」

二十三日、水野はその通りロスに入ると、早速、山本又一朗と打ち合わせに入り、二十四日の三時、パラマウントで製作担当重役のロジャー・ロステインと会った。

彼はマイケル・ダグラスの企画、主演で、プロデューサーはスタンリー・ジャッフェ、シェリー・ランシング、監督はリドリー・スコットということを告げ、水野はそこに魅力的なものを感じた。

「水野、日本側のブロデューサーとして引き受けてくれないだろうか」

だが、水野はそれまでの合作映画の経験から素直に頷くことはできず、ギャラ、食事を含めた条件面についての合意があればいいということを注文した。

「それだけではない。これまでの日本を舞台にした映画は、あまりに日本の実情とかけ離れすぎている。われわれから見ると、日本が中国や香港のように描かれていたりもする。もちろん認識の違いがあるのは分かっているつもりだが、それにしてもひどすぎたものが多い。われわれにしても、明らかに違うということが分かっていて、しかも、それを平然とやるというわけにはいかない。そのヘんはどう考えているのか」

「とくに今回は日本が舞台だから日本の俳優を多く使うことになるだろう。しかも映画のマーケットとして日本の重要性は增してきている。だから明らかに違うというところは遠慮なく指摘してほしい。こちらも、なんでもかんでもこうでなければならないと主張するつもりはない。ただし、基本的に分かってほしい部分だけは言わせてもらうつもりだがね」

ロジャーの態度は終始紳士的で誠実だった。水野もそうした相手の誠意を感じ、最終的には引き受けることになる。

「具体的なことはプロデューサー側と相談して進めてほしい」 これで『プラック・レイン』の大きな枠組みについての話し合いは終わった。

だが、ロジャー・ロステインは、映画の完成をみることなく、この年、癌のため世を去った。

リドリー・スコット来日

三月一日六時、帝国ホテルで、水野洋介は初めて監督のリドリー・スコット、プロデューサーのスタンリー・ジャッフェ、アソシエート・プロデューサー兼通訳のアラン・プールというメンバーと会った。

このアラン・プールだが、十七歳の時から日本とアメリカを行き来し、エール大学で日本文学の博士号を得たのち、七六年から八〇年にかけて、ニューョークのジャパン・ソサエティのためのフィルム・コーディネーターを務め、高倉健主演の東映映画の上映も担当していた。

こうした日本への造詣の深さから、彼は日米合作映画製作の権威となり、『MISHIMA』でもアソシエート・プロデューサーとして大きな役割をはたした。今回も映画のスケールが大きい分、日本とアメリカの人々の文化の違いによるトラブルが起こらないためにも、彼がとくに大切な役をはたすことになった。

スタンリー・ジャッフェとリドリー・スコットはいきなり本題から入っていった。

「映画の概略は知っているだろうが、その実現のためにも明日から東京のあちこちを見たい」

『ブラック・レイン』の最初の案では、舞台は東京だった。当然、娯楽アクション映画としてカー・チェイスのシーンは絶対に必要なもので、彼らは新宿の歌舞伎町の交通をストップしてカー・チェイスが出来るかどうかを尋ねてきた。

ここで、水野はクギをさした。

「ひとつ、勘違いをしてほしくないことがある。つまり、映画というものに対するまわりの状況だ。アメリカなら、金を払えば警察でさえ撮影に全面協力するし、映画に対する誇りがしみこんでいる。だが日本では違う。役所も警察も、撮影許可を出すか出さないかが仕事であり、そこでのトラブルをいちばん恐れている。当然、繁華街での撮影といったら許可さえ出さないだろう。それが日本の行政の実態であり、もし日本で撮影するならば、そこを理解することからはじめなければ絕対に失敗する」

それでも彼らは、下町、新宿など、あらかじめ想定していた場所についての下見を昼夜を問わずはじめた。

しかしそれで彼らが分かったのは東京での撮影の難しさであり、簡単に道路を遮断するわけにはいかないことを嫌でも納得せざるを得なかった。

もうひとつそれとは別に、リドリー・スコットを幻滅させたことがあった。彼にとっての東洋のイメージは、『プレード・ランナー』にみられるような雑多な混沌の世界であり、その原点は十八年前に訪れたことのある香港の街であった。猥雑な空気が充満していたその時の印象は強烈だった。

だが現実の東京は彼の思いとはかけ離れていた。現代的な超高層ビルの林立する街は、はるかに整然としていた。

彼が映画を引き受けた時には、日本へのこだわりなどなかったはずである。リドリー・スコットの世界を形作るための美としての東洋であり、それが日本だろうが香港だろうがどちらでもよかった。

だが、マイケル・ダグラスやスタンリー・ジャッフェはそうした美学以上に、経済大国として今やアメリカをも飲み込もうという、わけの分からない国、日本にとうしてもこだわった。

彼らは東京で二日ほど過ごした後、京都へ向かった。

だが、京都は東京以上にはるかに整然としていたし、澄んだ世界はあっても、猥雑さとはほど遠かった。

「京都は大変美しい街だけと、伝統的すぎてこの作品には向かなかった」

京都に幻滅したリドリー・スコットはしきりに香港にこだわった。水野は答えた。

「俺は、君たちが日本で撮影するというから協力しているだけだ。日本でやる必然性がなければ、香港や東南アジアに持っていったほうが、少なくとも日本よりは融通がきくことは確かだ。いざとなれば金でなんとかなるし、日本より仕事はしやすいだろう」

そこで一行はただちに香港に入り、二、三日過ごした後、スタンリー・ジャッフェの本拠地であるニューヨークに戻った。

ロケ地の設定は、この作品の生命線だった。

彼らは、パラマウントの製作サイド、そしてマイケル・ダグラスも交えてこの作品について討議を重ね、結局、初めの予定どおり、日本を舞台にして映画を製作するということが確認された。

大阪で

三月半ば、今度はリドリー・スコット、スタンリー・ジャッフェに加えて、マイケル・ダグラス、そして『地獄の黙示録』のプロデューサーにも名を連ねていたプロダクション・マネージャーのデヴィッド・サルヴァンが来日、水野との間で、『プラック・レイン』の予算についてまで踏み込んだ話も出たが、デヴィッドは心臟病のため途中で降板し、ビル・ワトキンスに変わった。

マイケル・ダグラスはトップ・スターとは思えない飾り気のなさで、空腹になった時などは平気で上野の大衆食堂に入ったりした。水野は彼に人柄のよさを感じたが、このことは実際に撮影に入ってからも変わることはなかった。

この時の来日では、東京での撮影はかなり難しいということが彼らなりに分かったこともあり、山本又一朗が大阪に顔がきくということもあって、僅かの日数だったが関西を回ってアメリカに戻った。

四月十一日、マイケル・ダグラスが、オリバー・ストーン監督『ウォール街』によって一九八八年度のアカデミー賞主演男優賞を獲得。次回作は世界中から注目されていた。

一方、アメリカに戻っていたスタッフも、今度は本格的に関西で撮影するための調査を始めることになった。

三たび来日して、その年取り壞す予定の阿倍野署、北浜、中之島公会堂、大阪城、每日新聞大阪本社社屋などを回り、リドリー・スコットもようやくここで映画を撮ることが出来るだろうという感触をつかんだようだった。

スタンリー・ジャッフェ、リドリー・スコットは、岸昌大阪府知事、西村壮一副知事、そして西尾正也大阪市長にも挨拶に訪れ、映画撮影の協力を訴えた。感触は良好だった。西村副知事はこう言った。

「世界に配給される映画の中で大阪を紹介してもらえば、インパクトは強烈。宣伝効果は何十億円になるか計りしれない。しかもスタッフがいい。なんでも協力したい」

これは『ブラック・レイン』のスタッフにとっては願ってもないことだった。大阪側も自分たちのメリットを当然考え、外交辞令もあったのだろう。大阪は日本第二の都市といってもどこか地方都市の匂いがあり、管轄にしても比較的分かりやすく、巨大すぎて複雑化している東京の行政機構に比ベれば、仕事もやりやすいということは、十分うかがえた。

東京に戻ったスタンリー・ジャッフェは、水野に確信を持って言った。

「自分も、大阪で映画を撮れるという実感を持ったから、大阪でのロケーションを決めるつもりだ」

彼はアメリカに戻って、マイケル・ダグラス、そしてパラマウント側とも話をつけ、大阪でのロケーションが確定した。


五月、プロダクション・デザイナーのノリス・スペンサーが大阪入りした。

日本ではあまり聞き慣れないプロダクション・デザイナーとは、たんなる美術のトップということよりも、もっと大きな地位を占めていた。

リドリー・スコットは言う。

「撮影監督はじめ撮影部は、実際の撮影がはじまってからだが、その前から映画製作の上でもっとも大きな役割を果たしているのは、プロダクション・デザイナーだ。ヨーロッパや日本では美術監督が兼務しているが、実際のロケーションの選択、そしてセットの配置を含め、映像作りの基本を担っている」

脚本は第一稿が上がっていたものの、三月七日からアメリカの脚本家協会のストライキがはじまり、以後、脚本はそのまま全く進まなかった。製作者連盟との最大の争点となっているのは、一時間テレビ番組がネットワーク局での放送終了後にシンジケート局や独立局に売られた際の権利金の配分比率をどうするかということだった。

第一稿の脚本にしても、脚本家のクレイグ・ボロティン、ウォーレン・ルイス双方共、日本に住んだこともなければ訪ねたこともない、いわば、アメリカでのイメージにおける日本を描いたものである。そのために作品の構造、つまり、アメリカで日本のヤクザが捕まり、護送される途中で逃げられるという骨子は変わらないものの、そのディテールやエピソードに関しては誤解やお粗末なところが多かった。

誰一人、このままで本当に映画として通用するとは思っていなかったし、肝心のリドリー・スコット自身、最初から脚本は大幅変更を予定していたようだった。

オーディション

六月、パラマウントは『ブラック・レイン』のロケーションを大阪で行うことを正式決定し、この時点で水野洋介も日本側プロデューサーとして正式に契約した。

それと共にキャスティングの具体化がはじまり、キャスティング・ディレクターのダイアン・クリッテンデンが来日した。日本側のキャスティング・ディレクターは『MISHIMA』での仕事が認められて室岡信明に決まり、一週間ほどダイアンが資料を見て回る間に、さまざまな俳優に会う段取りをつけた。

そして帝国ホテルを舞台に、最初から無理だった三、四人を除き、日本で名のある俳優のすべてと言っても過言ではないくらいの三百人以上の俳優とダイアンは面接した。

当初、リドリー・スコット意中の高倉健のみならず、悪役の佐藤役には熊井啓監督『海と毒薬』に主演した奥田瑛二にまずオファーが行った。これは海外の映画祭でも話題になった『海と毒薬』を彼らが見ていたからだったが、奥田は熊井監督の次の作品『千利休-本覚坊遺文』のスケジュールが入っていたため断った。そのため佐藤役もオーディションになったのである。

松田優作が最初のオーディションを受けたのは、六月二十二日の午後一時からだった。

室岡からの電話を受け取ったセントラル・アーツ社長・黒澤満は、すぐに松田優作に話した。

以前からリドリー・スコットに対して特別の思い入れのある松田優作だけに、オーディションを受けることに同意した。

「俺は、ダイアンが『遊戯』シリーズじゃなくて、『それから』『家族ゲーム』を見てくれたということで嬉しかったね」

キャスティング・ディレクターは、次に行われる監督によるオーディションのためのふるいにかける責任と権限を持っていた。

実はこの時、松田優作は知らなかったが、ダイアンは彼を落としていたのである。

しかし、その様子を見ながら、室岡は監督オーディションを松田優作が受けられるよう手配した。

「ほんのちょっと話しただけで、どの程度の演技をするのかということが彼らに判断出来るはずがない。とくに優作さんに関しては、僕ら、つまり日本側スタッフは、スケールの大きい役者だから、はじめから推薦していた。だから監督と会う役者のリストの中に入れておいた。むこうは誰がどの俳優かということは分からないだろうしね」

七月四日、リドリー・スコットが来日し、キャスティングについて監督自身の本格的なオーディションがはじまった。もちろん、スタンリー・ジャッフェも一緒だった。

七月九日。この日、松田優作はリドリー・スコットに会った。

リドリー・スコットはインタビューでこう語っている。

「私が、俳優に期待するのは、俳優がいろいろと工夫してくれることと、役に自分の味を付け加えることが出来るということだが、なにより大事なのは、俳優の外観、見た目なんだ。だから、私は、見た瞬間の印象を大切にする。松田優作は、オーディションで三人目だったが、彼と言葉を交わす前、帝国ホテルの部屋のドアを開けた瞬間に、佐藤役は彼しかいない、使いたいと思った。そう、ルトガー・ハウアーに会った時のような感じだった。その理由は、ユーモア感覚がすぐれていることで、非常に残酷な暴力的シーンでも、彼ならユーモアが出せる。それも微妙な感じで出せると思ったからなんだ。この佐藤という男は、人間的で、現代的で、エレガントであり、ヤクザの古いシステムを根底からくつがえそうとした人物だ。ただ、そうありつつも、前に新しく踏み出そうとすることよりも、むしろ伝統に戻っていった男だ。だから、彼は現代的な面と伝統主義的な面と両方を合わせ持っているんだ」

だが、海千山千のリドリー・スコットは、そのまま黙ってオーディションを続けた。だいいちキャスティングのひとつをとっても、監督の思うままにはいかない。しかもこの時点では、プロデューサーのスタンリー・ジャッフェが、まだ本格的なキャスティングには乗り気でなかった。スタンリーには、大阪で本当に出来るのかという疑問、予算の問題等、懸案が多かった。そして頭が痛いことに、全米で行われている脚本家組合のストライキがあった。

このストライキは当初、比較的短期間で解決すると思われていたが、泥沼化の様相を見せはじめていた。現場の脚本家の生活ヘの影響はもちろん秋のテレビ番組ヘも影響し、また映画会社にとっては年内の配給には間に合うものの、撮影に入る段階でこの『ブラック・レイン』のように身動きがとれない企画もいくつか出てきた。

この段階では、スタッフでもあるマイケル・ダグラス以外は全くの白紙で、相手役の松本刑事も誰にするか決まってはいなかった。当然、彼に敵対する最大の悪役の選択については慎重が上にも慎重になる。

リドリー・スコットは松本刑事役について、高倉健への接触を求めた。これをうけ、キャスティング・ディレクターの室岡が翌十日から高倉健との接触を試みた。

リドリー・スコットは『エイリアン』の時にも船長役に高倉健を起用したいと思っていたほどであるから、並の情熱ではなかった。

高倉健は、パリ-ダカール・ラリーを描いた『海ヘ See You』の撮影を終え、沖縄の小島で休んでいたが、急遽、東京に戻ってきた。

「監督とプロデューサーが飛行機をチャーターしてでも会いたいって言うんで、そこまで言ってくれてるんじゃ、お目にかかりに行かなきゃならないと思ってシノプシスを読んだ。

でも、どう見ても僕の役じゃない。こうやって僕にこだわってくれる理由はどういうことなんですか、って聞いたら、あなたとマイケルを同じフレームで、自分は監督として撮りたい、と言う。そしてパッと立ち上がって、すっと手を出された。僕もつられて立ち上がって、さっと手を握ってしまった。

ギャラも撮影期間も何も決めないで、パッとなんとなく。あれは、あの監督の持っている『気』みたいなものですね」(月刊朝日 90年3月号)

高倉健にとっては脚本の問題があまりに大きすぎたが、リドリー・スコットの粘りは執拗だった。何度も、時には単独で、高倉健と会い、說得した。

「脚本に関してはこれからであり、日本に対する理解も含めて私が責任を持つ」

リドリー・スコットにとっては、高倉健に対するこだわり、画面の映りも含めて、松本刑事役は彼以外に考えることはできなかった。

当初、スタンリー・ジャッフェは高倉健に対してはとくにこだわっていなかったが、彼もまた高倉健と会ってからは彼以外には考えられなくなっていた。

ひと月が過ぎ、リドリーの熱意と信頼にほだされた形で、ようやく高倉健は松本役を引き受けたのである。

佐藤役に、松田優作が決まる

アメリカの脚本家組合のストライキは、八月に入り、経済的な面では幾分の不満があったとはいえ、脚本家の創作上での権利を勝ちとった上で、二十二週間という組合史上最長を記録して終結し、八月からいっせいに製作が再開された。

八月下旬、リドリー・スコットは大阪に入り、ノリス・スペンサーとともに大阪府庁舎、魚市場、また松本刑事が住んでいるという設定の団地を見て回り、さらに堺の新日鉄、神戸中山製鋼所のコンビナートのロケハンを行った。


九月三日、松田優作にとっては三回目のオーディションがホテル・オークラで行われた。リドリー・スコット、スタンリー・ジャッフェも同席していたが、このころには佐藤役は松田優作、萩原健一、根津甚八、小林薰の四人に絞られていた。

リドリーの腹では佐藤役は松田優作と決まっていたが、最終的にスタンリー・ジャッフェとともにマイケル・ダグラスをも納得させなければならない。

九月五日、これが最後のオーディションであり、実際に四人の俳優とからんでマイケル・ダグラスが芝居をやってみることになっていた。ただし、小林薰は脚本の問題で事前に辞退し、結局、マイケル・ダグラスと芝居したのは三人だけだった。

松田優作はマイケル・ダグラスとの芝居を終えるとすぐ黒澤満に言った。

「むこうがアドリブできたから俺もアドリブで応えたけど、マイケル・ダグラスはさすがに凄い。だけど黒澤さん、この役は絶対に俺に決まりですよ」

松田優作は確信を持っていたが、それは客観的にも明らかだった。

室岡信明——

「やはり、天下のマイケル・ダグラスと芝居をやるというのだから、あがった俳優が多かった。だけど、優作さんだけはごく自然にやっていて、誰が見ても優作さん以外にいませんでしたね。日本映画だと、単純にそうはならないかもしれないけど、『プラック・レイン』に関しては、柄からしてもそうだし、彼しかいなかった。僕らも見ていてマイケルが乗ってきたのがすぐ分かったし、結論はすぐ出ました」

キャスティングについては、プロデューサーと同時に主演俳優であるマイケル・ダグラスの力が大きかった。

結局、この日のオーディションはマイケル・ダグラスに松田優作でいけるかということを最終確認させたようなもので、その日のうちに室岡が黒澤満に佐藤役は松田優作に決定した旨を伝えた。

松田優作は久世光彦演出『桜子は微笑う』のリハーサル、本読みの最中だったが、そのニュースが入るや出演者たちが松田優作を祝福した。

マイケル・ダグラスの相手役としてアメリカ側では『アンタッチャブル』のアンディ・ガルシア、日本側では高倉健が決まり、この三人の刑事に対する悪役として松田優作、謎の女性として、パラマウントの推薦するケート・キャプショーと、メイン・キャストが固まってきた。

残る大物は、松田優作演じる佐藤との戦争を繰り広げるヤクザの親分である菅井役だけとなった。

巨大な物量作戦

『ブラック・レイン』で終始問題になったのは脚本だった。

日本の状況を知らないで、ことさら日本とアメリカの文化の違いを描こうとしたアラだけが目立ってきた。

たとえばストーリーの中心になる贋紙幣造りにしても、脚本では、彫金、象嵌といった手作業で原版を彫ることになっていた。実際の紙幣印刷には相当に複雑な写真製版、印刷過程を経る高度の技術を必要とするのだが、脚本家は職人による伝統的な手作業を考えていた。そのため、もし紙幣を印刷するシーンがある場合には現実にはありもしない機械をどうしようかと、日本側スタッフは真剣に悩んだ。また、その彫金師は京都に住んでいるのだが、弟子を何十人と抱え、僧侶と技術者とがごっちゃのイメージだった。

幸いその設定は変えられたが、名残りは、松田優作にニューヨークで殺される男が彫金師であるという形で残っている。

脚本は第二稿になっても、決定稿とはほど遠かった。この段階で、脚本家を日本に呼び、撮影しながら変更していくことが考えられ、脚本上のあらゆる弱点は撮影を進める中でリドリー・スコットによってほとんど割愛され、異なったエピソードに替えられた。

おそらくリドリー・スコットは最初からこの脚本ではやれないと考えており、日本側からあらゆることを聞き出し、あるいは自分で日本というものを感じるようつとめた。しかし、それを単純に取り入れるのではなく、自分のイメージの中の日本ヘと映像をしたたかに変えていった。

高倉健——

「監督もマイケルも、おかしいと思ったことはドンドン言ってくれという要望がありましたから、例えば警察官の家が立派すぎるとか、不自然だと思ったことは、全部言いました。その通りに全部訂正されましたが、ひどかったですね。どうしてこんなつまらないものを、ハリウッドのトップの人たちが来て撮ろうとするのだろう、と思ったこともありました。リドリーが真剣になって僕に火をつけてくれて、出演が決まってからはマイケルが本当に力になってくれてヤル気を起こさせるというか、ムチをあてるというか、僕はもうヨタヨタしながらついて行っただけですがね」(週刊明星 89年10月12号)

撮影規模はスタッフでみてもアメリカ側五十人、日本側百人と、これまでの日本での撮影にない大規模なものになった。それだけ増えたのは、撮影スタイルを完全にアメリカ流で通したからである。

『MISHIMA』の時にはメイン・スタッフだけだったが、今回は各パートで人数を揃え、しかも、それがプロデューサーの下で統括されているという形での完全にパート主義がとられたため、パートごとに通訳、車両が増えたのである。

打ち合わせにしても、双方入り混じってて、大変だった。

スタンリー・ジャッフェ——

「ミーティングは、まるで“モンティ・パイソン”みたいに狂気じみていた。まず会議室に三十人から四十人集まり、さらに五人ほどの通訳がテープルを囲んで座る。ひとりずつ意見が言い終わるのを待って、今度はそれが通訳されるのをじっと待つ。そんなことをしている間に年が明けてしまうよ。そこで、同時通訳にしてスピード・アップを計ったんだ。当然混乱が起こったけれども、どうにかこうにかやり遂げられたよ」(ビデォマガジンアビック 89年11月号)

通訳は二十人以上。極端な言い方をすると、ひとりアメリカ側スタッフが来れば、ひとり通訳をつけるほどだった。

また、各パートがそれぞれ自分たちの車両を要求し、日本の道路事情の関係でアメリカなら大型トラック一台ですむところが三台以上も必要になる。

しかも、リドリー・スコットのイメージが固まってくるにつれ、たとえば自転車にしでも常時百台を用意することになり、それを運ぶのにトラック三台が必要になる。自動販売機等の飾りもの、屋台のために一台と、美術、装飾、小道具だけでトラックが十台。

衣装にしても、衣装トラックが二台。衣装を着替えるための車で一台。メークのための車も二台。

またSFX、グリップ、ドリー、その他撮影機材を運ぶ車両。また、リドリー・スコット独特の画面構成に欠かせないスモークにしても、日本の撮影でよく使う携帯用ではなく機関車のような巨大なものだった。

しかも、道路は常に濡らしていたいというリドリー・スコットだから、タンク車も大小二台を用意した。

結局、車両は常時七十台が用意され、それに加えて送迎車があるものだかち、実際の撮影時には、百台もの車が大阪の街を走り回ることになったのである。

また、日本なら衣装屋があり衣装担当がその日に使う衣装のみを持ち運ぶのだが、アメリカでは衣装担当のエレン・ミロジェニックがお針子から揃え、現場に衣装をすベて持っていくのだから大変だった。それは衣装だけに限らず、自転車、屋台はおろか劇用車も撮影予定に入っていなくてもつねに現場に持っていった。

とにかく六階建のビルを借り切り、一階は編集室につぶしたとしても、残りの五階に衣装、装飾、小道具の全部は納まり切らないほどだった。

SFXはアメリカから大きなコンテナ二つを持ってきた。

ところがそれを置く場所など、どこにも用意してなかった。たまたま大阪駅の傍に六千坪の空き地があったので、その一角を借りて駐車させることになった。一角とはいうものの、実際にはほとんどを占領し、そこにプレハブを三軒立てた。ということは、当然、水道、電気、電話工事をすることになる。

一事が万事こうした具合で、撮影スケールも予算もどんどん膨らんでいくことになった。思いあまった水野はスタンリー・ジャッフェにこう言った。

「機能的じゃないから、物を二ヵ所に分散するのではなく、一ヵ所にまとめて建てたほうがいい」

だが、スタンリーはそのためにまた出ていく出費に対して渋り、結果的には予算の膨張に輪をかけることになったのである。

困難なロケーション

十月十二日、松田優作は東宝で衣装合わせを行った。日本の場合、主演俳優の衣装合わせには監督、キャメラマンが同席するのが一般的だが、この時にはエレン・ミロジェニックのみが同席し、手際よく進めていった。

松田優作は実際に撮影に入る前にリドリー・スコットときちんと会って話をしたいという意向があり、十四日、大阪ヒルトン・ホテルで夕食をとりながら二人は会見した。

そこには黒澤満と、アラン・プールが通訳として同席した。

「アメリカ人の脚本だから日本人からみておかしいところもあるだろう。それは遠慮なく言ってほしいし、佐藤という役についても優作さんの意見を聞きたい」

リドリーは松田優作の質問には答えたが、ディスカッションというよりは、リドリーが多くを尋ね、松田優作について知りたがった。

しかし、そのことで松田優作はリドリー・スコットという監督を一段と信頼することになった。

「映画に関係ない話も多く出たな。リドリーが『どんな音楽家が好きか?』というから、ブライアン・フェリーとスティングを挙げたんだ。そしたらリドリーは目を細めて喜んでいた。ベつに彼を刺激するためにブリティッシュ・ロックを選んだわけでもないけど、リドリーも彼らの音楽は好きなんだ」


最後まで残っていた大物役・菅井がようやく若山富三郎に決まり、マイケル・ダグラス、アンディ・ガルシアと次々に大阪入りしたのであるが、クランク・インを前に深刻な間題が起こっていた。

スケジュールが全然でなかったのである。

つまり、アメリカでの撮影のやり方と日本での撮影条件の違いが直接ぶつかってきていた。

たとえば候補地が二ヵ所あれば、アメリカ側は両方あらかじめ押さえておいて、実際の撮影があっても不備があればすぐ変更する。その日の予定地以外にも、あらかじめ第二、第三候補地を予備として押さえておく。だが、そうしたやり方は日本では無理だった。

つまり、映画に対する基本的な前提条件の差だった。

アメリカでは市や州に映画部があり、映画撮影があるとなると許可を出し、便宜を図り、公共施設、道路での撮影は無条件で出来ることになる。警察にしてもトラブルを避けるための交通整理など積極的に行う。

マイケル・ダグラス——

「スタッフが日本に来て驚いたのが規制だった。撮影許可の問題だね。もちろん、最初はみんなで怒ったけど、日本の映画関係者も同じように苦労し、怒っていることを知らされたんだ。アメリカだと市役所と警察にそれぞれ“映画部”というものがある。アメリカの映画はそういう協力があるので幅広い条件の中での撮影が可能なんだ。アメリカ人は、映画の持つ力を知っている。だから、自分たちの街で撮影が行われる時は、街を美しく見せるための協力を惜しまない」(ロードショー 89年10月号)

それは映画に対して誇りに感じるということと同時に、映画がビッグ・ビジネスであり、撮影が行われれば巨額の金がその土地に落ちるということを見越しているからでもある。

刑務所を主な舞台にしたシルベスター・スタローン主演の映画『ロック・アップ』の監督ジョン・フリンもこう語っていた。

「刑務所にしても、ロケーションに貸すことでトラブルが起こることは、非常に警戒している。だけど、映画というものはビッグ・ビジネスだ。もし、その機会を逃せば、他の州に取られてしまうし、映画撮影に貸すことによるメリットを考えた場合、そうしたトラプルなど問題にもならないのだよ」

だが日本では、映画撮影による有形無形の経済的メリットがあっても、それだけでは事は運ばない。映画撮影に場所を貸すことでトラブルが起きるのを恐れる官僚的態度がいちばんのネックだった。

それは、たとえ大阪府知事という行政のトップが協力すると言ったところで、ほとんど効果がなかった。

府庁舎のロケでは、最高権力者の知事が許可し、協力を惜しまないと約束したにもかかわらず、組合、ここでは府職労が出てくるのである。

「公務でもないのに、休日を返上させ、庁舎管理をさせるのは納得できない」「大阪の顔である府庁が、警察署だと誤って世界に紹介される」「犯罪人の町、大阪という設定で、大阪のイメージがあがるはずがない」

というのであるから、これほど組合というものの表向きの発言とは裏腹の一面を示した態度もなかった。

こうしたトラブルの頻発と、現実にクランク・インの時間が迫ってくる中で、アメリカ側のチーフ助監督ベンジャミン・ローゼンバーグは、ノイローゼ状態になっていった。

当初この『ブラック・レイン』の撮影では、クリスマス休暇でいったんアメリカに帰り、年を越してから再び来日するはずだった。しかし、それではコストが高くなるので、「クリスマス前に日本での撮影を全部終えたい」というのがスタンリー・ジャッフェの意向だった。

ところが、そうしたプロデューサーの思惑から、この撮影はだんだん外れていったのである。

一方、脚本家のクレイグ・ボロティン、ウォーレン・ルイスも大阪入りした。当初はスタッフとは別行動で、日本に馴染ませるようにつとめ、脚本の書き替え、設定の変更に対応させた。

そして、第一稿の面影は、ほとんどなくなっていった。

製作発表

十月二十五日、マイケル・ダグラス、スタンリー・ジャッフェ、シェリー・ランシングが岸昌府知事と西尾正也大阪市長を表敬訪問した。

マイケル・ダグラス——

「映画は国際言語です、違った文化がいっしょになってひとつのものをつくっていくことはすばらしい。道頓堀や卸売市場などアメリカ人の目から見て面白いと思う場所で撮影、大阪の顔を世界に紹介したい」(スポーツニッポン 88年10月26日)

岸知事も協力を約束した。

「滞在中、困ったことはなんでもいって下さい。九〇年には、花博も開かれますし、五年後に新空港もでき、大阪も国際化を目指しています。こういう時期の国際映画は大歓迎で協力をおしみません」(デイリースポーツ 88年10月26日)

一九二六(大正十五)年に建てられた府庁舎は、映画では大阪府警にみたてられ、警察署長室として知事室が、取調室として地下一階会議室が、使用された。

この後、マイケル・ダグラス一行は大阪府警本部に新田勇本部長を表敬訪問した。

二十六日午後三時から四時まで、ホテル大阪ヒルトン・インターナショナル四階真珠の間で、内外報道人約二百人を集めて製作発表が行われた。

アメリカ映画では製作前や撮影中の取材に応じることはほとんどないが、これは日本のマスコミの強い要望で、一度に限り記者会見を行ったのである。

出席者は、マイケル・ダグラス、高倉健、松田優作、アンディ・ガルシア、リドリー・スコット、スタンリー・ジャッフェ、アラン・プール、山本又一朗、水野洋介だった。

マイケル・ダグラス——

「今、(クランク・インを前に)とてもエキサイトしている。この作品は一年半、準備期間をかけてきた。シナリオがよくかけているし、テーマも面白い。スタッフも大ヒットした『危険な情事』と同じだ。それに、日本のすばらしい俳優と共演できる。映画というのは国際語、文化交流のすばらしい場になると思うし、大阪を世界にアピールしたい」

高倉健——

「縁があって、アメリカを代表する方々とご一緒できてたいヘん興奮しています。言葉がネックになりますが、いい映画を作る気持ちはひとつ。日本を舞台にしてヒットした作品は少ないといわれていますが、なんとしてもヒットしてほしいし、僕もベストをつくします」

リドリー・スコット——

「『ブレード・ランナー』では(多民族が混在する)近未来の世界を描いたが、今回は現代から未来ヘと移行してゆく中間期に、東洋的な世界観をおりこんだ作品にしたい。大阪は大都会だが美しいし、日本のいろいろな面をもった街。映画を“ビジュアル”に語るためには、非常に適している。警察も協力的。俳優にしても、高倉は人間として正直で、しかも存在感がある」

松田優作——

「国際的な映画に出演でき、本当に嬉しく思っています。映画は世界共通語。監督に自分の演技のニュアンスを理解してもらえたのが、うれしい。しかし、尊敬していた高倉健さんと米国映画で共演できるのもすばらしいのに、大ファンであるアンディ・ガルシアさんと仕事ができるということは、僕の至上の喜びです」

アンディ・ガルシア——

「マイケルさんやスコット監督のファンだし、日本のいい俳優さんと仕事ができるのも嬉しい」

クランク・イン

二十八日、府庁本館ロケで必要な資財の搬入が行われ、三十一日午前、三十人のガードマンが撮影現場付近をシャットアウトして、撮影がスタートした。

記者会見でのマイケル・ダグラスやリドリー・スコットの言葉とは裏腹に、撮影条件に制約が多いためスケジュールが確定しないまま撮影に突入したのである。

翌十一月一日には、

「『三階知事室だけを使う』という約束を破って、執務時間内に同階東側廊下に府民や職員を閉め出して撮影。撮影効果を高めるため大量の食用油を気化させたことから、白煙と目にしみる刺激臭が三、四階にたちこめ、一時は職員らが火事と間違えて部屋から飛び出すなど大騒ぎになった」

と新聞の社会面に書かれるという事が起こり、次々に「府庁ロケとんだ火事騒ぎ」「トラブルの“雨降る”」などと報道された。各紙とも撮影の暴走を非難する論調で、以降の撮影に暗雲を投げ掛けた。

大阪府はパラマウントに厳重に抗議した。

五日、府庁ロケ最終日、記者団にアメリカ映画としては異例の撮影現場を公開したのも、

そうしたことに対する気づかいだったのかもしれない。

こうした状況で、現場を仕切りスケジュールを調整するチーフ助監督のベンジャミン・ローゼンバーグは、クランク・イン早々に更迭された。

翌週、新たにチーフ助監督としてやって来たのは、アラン・パーカー監督『ミシシッピー・バーニング』のチーフ助監督で、リドリー・スコットとも以前仕事をして、いずれは監督にと嘱望されているウォードリック・ラオーリ・ポーターだった。

そしてさらに、現場では絶対的な発言権を持つ撮影監督までもが更迭された。

彼の場合は技術上の問題だった。カメラ・テストの時から準備に問題があったのだが、いざ実際の撮影に入った時にもミスが多すぎた。

そのためスタンリー・ジャッフェも交代を決め、『ダイ・ハード』やポール・ヴァーホーヴェン監督作品の多い撮影監督ジャン・デ・ボンが撮影の指揮をとることになった。

チーフ助監督や撮影監督という現場の要が辞めたりした場合、日本だとほとんど撮影自体がおぼつかなくなるのだが、パート主義の徹底しているアメリカでは、それで仕事に支障の出ることは全くなかった。プロデューサー以外は、監督でさえその歯車のひとつなのである。

次には、撮影時間の短さが深刻な問題になっていった。

ロケ現場のことごとくが空き時間にしか撮影を許さないということで、バチンコ屋から地下鉄まで、官民ともに映画撮影に寛容でなく、時間超過がトラブルをよび、パチンコ屋での撮影ではプロデューサーのシェリー・ランシングが店の女将から足を蹴飛ばされるということまで起きた。

シェリー・ランシング——

「彼らのビジネスのやり方は、とてもストレートね。私たちのやり方と全然違う。余裕がないというか、ロケのために八時間場所を使わせてくれるように頼んだら、八時間きっかりでおしまいなの。数分の狂いもなしに。たとえば、屋外、屋内の撮影許可も、私たちが当たり前としていることが通用しない。エキストラにしても同じね。大阪では登録されたエキストラが三百人しかいない。しかも、その七〇%が二十一歲以下。この状況に適応するのはなかなか大変なことだったわ」(ビデオマガジンアビック 89年11月号)

トラブルをかかえながら、大阪の街では『プラック・レイン』の撮影は注目の的だった。

十二日から十三日未明にかけての戎橋(えびすばし)での撮影は、ファンをはじめとする見物人でごった返し、道頓堀の撮影では高倉健見たさの群衆が大勢集まった。大阪での屋外ロケではこの状況は終始変わらなかった。

マイケル・ダグラス——

「とくに道頓堀での撮影は、健さん見たさの物凄い数のヤジ馬が集まってきて一時はとうなるかと思ったけど、誰もが協力的だったからなんとかうまくおさまった。しかし、アメリカであんなに皆が尊敬をあらわにしたのを見たのは、ブルース・スプリングスティーンの時だけだよ」(プラック・レイン プロダクションノート)

時は金なり

アメリカ流の撮影システムをとった『ブラック・レイン』はスタッフに対して、準備も含めて日本の撮影とは比較にならないほど長い時間拘束することになった。そのため製作サイドは、スタッフの労働条件および生活環境条件を大切にしていた。

日本側プロデューサー水野洋介は撮影に入る前にスタンリー・ジャッフェと事前の協定を結んだ。

週契約で、一日の基本労働時間が十二時間の週六日間労働。しかも、その中に食事時間を含ませるということにした。それはたとえば、現場での撮影が九時開始としても、ホテルを七時に出発するなら七時が労働開始時間であり、またホテルに戻った時が終了時刻となる。

それ以降の時間は残業とし、それは倍づけ、つまり週給を六で割り、さらに十二で割った時給を倍にすることに決めた。休日出勤は最初から倍のペナルティを払うという契約だった。

食事はスタッフはもちろんメイン・キャストからエキストラに至るまで同じもの。日本ではアメリカほどケータリング産業は進んでいないとはいえ、長い撮影時間のため、食事は出来るだけ贅沢にさせようと試みていた。

そうした気づかいはスタッフのみならず俳優に対しても同様だった。主演クラスにはロケーションの場合、キャンピングカーを与えた。

このような労働条件を満たした上で、プロデューサーは金銭管理を徹底して行った。そこは“時は金なり”の世界であり、しかも出費が半端ではないため、プロデューサーは必ずリドリー・スコットの傍にいて、ストップ・ウォッチを見ながら、撮影されているショットのひとつひとつをチェックしていた。

日本側スタッフには、映画とはすなわち金の世界であるということをこれほど思い知らされたことはなかっただろうし、小道具一つ描えるのも、食事時間をずらすのも、すべてが金に換算され判断されるのをまのあたりにした。

また、日本側スタッフはプロデューサー優先のシステムの中で初めて経験したことも多かった。

撮影でのトラブルやうまくいかない時には、スタッフは必ず不満や意見を文書にしてスタンリー・ジャッフェに提出するというのもその一例だった。

逆に、アメリカ側が全く理解できない日本のシステムもあった。

典型的だったのは俳優の付き人の制度だった。

アメリカではビジネス上の交渉をするエージェントはあっても、俳優の身の回りの世話をするという制度はないから、マイケル・ダグラスにしてもエージェントや弁護士を連れてきたことはあっても、付き人はいなかった。当然、自分のことは自分でする。

しかし日本側は、自分で費用を払ってまで付き人を連れていく俳優もいた。椅子に座った若山富三郎に対してひとりがタバコを取り出し、もうひとりが火を点ける様子などを見て、アメリカ側スタッフが最初はヤクザの役のための練習だと思っていたら、どうも違うらしいという習慣の違いによる勘違いもあった。

しかし、主演のマイケル・ダグラスが単身で現場に乗り込み、一俳優に徹して不平ひとつ言わず、リドリー・スコットが呼ぶまで何時間でも待つものだから、日本の俳優が影響を受けないわけにはいかず、高倉健と松田優作は日本での撮影とは異なり、アメリカ側のシステムを受け入れ、付き人を連れていかなかった。

スタンリー・ジャッフェとリドリー・スコットの相剋

相変わらず大阪でのロケは困難を極めていた。

道頓堀の撮影など、「俳優は橋を歩かない。カメラは橋には置かない。スモークは焚かない」等、細かい制限がつき、さらに十二時から三時の間のみという厳しい時間制約が付いた上でようやく許可された。しかも、事前に警察に提出した書類にカメラの位置も指示してあったため、撮影の時には警察が駆けつけ、リドリー・スコットがカメラの位置を少しでも動かそうとしたり、予定と少しでも違うことを試みるのを一切許さなかった。

リドリー・スコット——

「ドリーやクレーンはおろか、位置を指定しても、ナイトクラブ街の路上に置くライトは一つも許可されなかったんだ。ライトというライトはすべて空中か、ビルにセットしなければならなかった。私が撮りたいライティング手法とは正反対だった。そこで、ついには、その場所で細かい描写をするかわりに、派手なライトを使うしかないというわけだ。

とにかく、ひとまず怒りを抑えて、夜になったらカメラを少し動かして照明を固定できるだろうと考えた。ところがどうだ!カメラを二メートルばかり動かそうとしたところで、怒られてしまった。それでカメラを最初の位置まで戻さなければならなかった。そんなことを繰り返しているうちに、警官の方が『これではいつまでたっても平行線だ。もうこれ以上こんな関係は続けられない』と言ってきたんだ、それで万事休す、だ」(ビデオマガジンアビック 89年11月号)

暴走族にマイケル・ダグラスとアンディ・ガルシァが絡まれるシーンは、キリン・プラザから道頓堀、戎橋を通り、商店街へと一ショットで撮りたかったのだが、商店街の協力が得られず不可能になった。

こういう場合、日本の撮影隊だと部隊が小さく鼠のように小回りがきくが、『プラック・レイン』の撮影隊は巨象のようで、ちょっとした移動といっても簡単にはいかず、臨機応変の対応も難しかった。

こうしたことで撮り残しがどんどん出てきて、大阪だけで日本のシーンの撮影をするのは不可能になっていた。

スタンリー・ジャッフェにしてみれば、許可の問題、手続きにしても複雑な手続きが多く、なぜこれほど面倒なのか到底理解できなかった。民間経営の魚市場にしても行政府のコントロールを受けている関係上、稟議制で、一発判でオーケーというわけにもいかず、「なんで、俺の思うようにいかない」という思いは、強かった。

また、こうした環境条件以外にも、作品の根幹の部分でリドリー・スコットとスタンリー・ジャッフェの対立が起こってきた。

それは当初から予想されていたことでもあったが、スタンリー・ジャッフェ、シェリー・ランシングという、アメリカのピューリタニズムとプラグマティズムを背景にした合理主義者と、リドリー・スコットというイギリスのデカダンスを背景とした非合理主義者では、根にあるもの、映画に携わるものとしての資質が最初から異なるのである。

あくまで自分の美意識が先行し、その下でビジュアルな幻想世界を作り上げようというリドリー・スコットと現実主義のプロデューサーでは水と油のようなものだった。それでもマイケル・ダグラスがリドリー・スコットを監督に選んだのは、日本という異文化を描写する時、これまでのような合理を貫く監督では無理だと考えたからである。

しかし、頭ではそうと分かっていても、現実にはいたるところでこの絶対権力を持ったプロデューサーは口を出してくる。

中山製鋼所での撮影では、スケジュールをめぐってリドリー・スコットとスタンリー・ジャッフェが口論になり、温厚なリドリーがへルメットを地面に叩きつけたこともあった。もっとも、その後での昼食は二人で仲良く食べていたとはいうのだが。

もし本気でやり合うとなると、アメリカ映画の力関係ではプロデューサーの方が絶対的に強く、監督の更迭さえ珍しくないのである。

それだけにプロデューサーの自負心には相当なものがある。

スタンリー・ジャッフェは言う。

「映画を出発させるのは、まずわれわれだ。映画の黄金時代はセルズニック、ザナックを始めとする、よきプロデューサーがいたからだが、私もそれを手本にしたい。当然、作品に対する決定権は、会社、つまりパラマウントではなく私たちが握っている。もちろん、これは一般的ではなく、われわれの映画に関してだがね。しかも、私もシェリーも撮影所出身だから、監督とも同じレベルで話ができる。脚本はもちろん、時には俳優の演技に対してもそうだ。つまり、プロデューサーというのは、映画製作に関する、ありとあらゆることに編集にいたるまですべて関わるものなんだ」

『ブラック・レイン』は、こうした意識と権力を持つプロデューサーと、自分独自の世界を築こうとする監督の対決と妥協の産物だった。

スタンリー・ジャッフェは、日本を舞台に映画製作をしているのだから、どちらかといえば観光的な側面の日本を見せるシーン、背景にしても寺院のような絵ハガキ的なものを入れたがった。

だが、リドリー・スコットにとっては、そんなものはさして興味のないところだった。

「映画とは、カメラのレンズを通し、自分に見えるものを選別し、ストーリーを観客に伝えるものだが、その意味で、私はリアルなものを目指しているし、あれが私のリアリズムなんだ。今回は、ニューヨークからきたガイジンが異国で訳が分からなくなるため、不安や危険を感じる設定だから、現実の大阪よりも、そうした側面が強調される画面になっている。しかし、日本の都市のほとんどが近代的で実用的だったから、ノリス・スペンサーと私は、その表面の下にあるものをくまなく探し、ユニークなものを見つけようとした。それで、伝統的な側面を無視したわけではないが、観光客が見るのとは違う、現代の日本の姿を少しでも示そうと思った」

リドリー・スコットはしたたかだった。プロデューサーの言うことを一応は聞きながら、自分の思うところを貫いていく粘りは驚異的とすら見えた。

ただし、自分の世界を追究する上でリドリー・スコットほど他人の言葉に真摯に耳を傾ける監督も珍しかった。どんな人間に対しても高飛車に出ることなく、意見を求め、その中で自分の世界を追究していった。

『ブレード・ランナー』で忘れることのできない悪役を演じ、トップスターの仲間入りをしたルトガー・ハウアーも言っていた。

「『コブレード・ランナー』を撮った時、リドリー・スコットにも大変なプレッシャーがかかったし、それだけ価値のある、本当に二十年に一度あるかないかの傑作だと思うけど、彼とはいいコンタクトが取れた。なにより、私のような当時無名の俳優に対しても意見やアイデアを求め、それを生かそうとする。それは私にとっても映画にとってもたいヘんよかったことだと思う」

そうしたリドリー・スコットの態度、そして粘りに粘る撮影に日本側のスタッフも次第に魅了されていったし、マイケル・ダグラスもその力を認めざるをえなかった。

「あんなにスタミナのある監督は知らない。十六時間もカメラの脇に立ちっぱなしなんだから。才能に関しては驚異的だ」(朝日新聞 89年10月24日)

「この作品は夜のシーンが多い。ライトの魔術師リドリーの独壇場だ。しかし、彼は凄い。僕と同じ景色を見ていながら、見ているものが違うんだ。彼の目は恐ろしいくらい鋭くて、微妙なライティングの効果だとか、僕には分からないスモークの具合だとか、またフィルムを通したら効果的にどう映るのかまでお見通しなんだ。何か魔術的で、敬服するばかりだ」(ビデオマガジンアビック 89年11月号)

リドリー・スコットは、撮影監督の手腕を高く評価していた。

「この映画がうまくいったのはジャン・デ・ボンの存在が大きい。撮影するのにこれだけの制限のある中で、私たちは非常に切り詰めたスケジュールで進行していかねばならない。しかも私自身は好きでないマルチ・カメラのセットを使わなければならなかった。普通だったら、カメラは二台にしているんだが、時には五台同時に使うような場面があり、非常に困難を極めた。マルチ・カメラが必要なのは、十四時間の撮影許可を四日間もらっていたが、後になり、二日、しかも夜中の三時から六時までの間に、そのシーンを撮らなければならなくなったからだ」(同前)

そのジャン・デ・ボンは、映像のねらいをこう語った。

「僕らがめざしたのは『ゴッドファーザー』のような映像ではないけれども、あれに似た雰囲気だった。リドリーの好みでスモークを使ったけど、あれもそういう雰囲気を出すのに役立った。本当にスモークが効いているなと思っている場面があってね。製鉄所の場面なんだが、そこはかすんだ空気がすでにその一部になっていた」(映画撮影 90年2月号)

松田優作はこう言っていた。

「ラッシュを見て、どうも暗すぎるのではないかという意見が出た。しかし、通して見ると、リドリー・スコットの世界を見せつけられ、納得せざるをえなかったらしい」

撮影監督に対する注文にしても、リドリー・スコットはあくまで完璧を求めた。ラッシュに日本の撮影助手がたまたま同席したら、リドリー・スコットはなんと色温度(光源の色調を表す尺度で、青白い色調では高く、赤みがかった色調では低い)まで細かくチェックしていて、「こんな監督と付き合わなければならないのか」と背筋がゾッする思いをしたと言う。

それは撮影だけに限らず、映写に関しても、リドリー・スコットは映画が公開され東京に来た時、オーチャード・ホールでの上映、さらには公開する時の劇場の音響に対してもいちいち確かめ、時に、「これは自分の音ではない。レベルが違う」とクレームをつけるほどだった。

意地

クリスマス直前まで大阪で撮影し、休暇ののちに戻るという予定は諸般の事情から考えられなくなり、最終的には十二月八日までで撮影は切上げとなった、

スタンリー・ジャッフェ——

「必要な部分の撮影が終わったら、アメリカに戻ろうと最初から計画していた。ロサンゼルスやニューヨークで撮れるものは、何も日本で撮らなくてもいいということだ。常識的判断だよ。室内でのシーンの多くは、きちんとした装飾さえすれば、ロサンゼルスのサウンド・ステージで撮った方がずっと安く上がるからだ。事実、ニューヨークで撮影するよりも日本で撮影する方が五〇%は余計にコストがかかるね。ロサンゼルスだったらもっと安く済む。大阪のクラブを借りるよりも、ロサンゼルスに同じものを一軒建てたほうが安上がりというわけだよ」(ビデオマガジンアビック 89年11月号)

それでも製作費はさまざまなロスのため膨大に膨れ上がった。

日本での撮影の最大の問題は、ラストのクライマックス・シーンをどこで撮るかだった。

ロケハンは近畿一帯のみならず九州にまで手を伸ばしたが、とりあえず脚本通りに寺院での殺人ということで、京都や奈良を徹底してロケハンし、最終的に京都の大黒寺が候補地となり、許可も取った。血で汚すので床をすべて張り替えるのが許可の条件だった。

もちろんスタンリー・ジャッフェとしても、重要で時間のかかるシーンであるから大阪で撮り終えたかった。だが、今度はリドリー・スコットが納得しなかった。

「これでは、アクションのスケールが出ない。こぢんまりしすぎる」

リドリー・スコットが求めたのは、見渡す限りの水田や畑があり、視界には民家も入らないという広大な場所だった。しかし、ロケーション・マネージャーが必死になって探しても日本にはそうした場所はなかったし、北海道というわけにもいかなかった。リドリー・スコットとしては、日本でのロケーションをアメリカに置き換え、空気の状態の違いから違和感が多少出たとしても、それとアクションのスケールを比較した場合、あくまでもアクションのスケールにこだわった。

結局、サンフランシスコ郊外、葡萄の産地ナパバレーでのロケーションが決まり、十二月八日、神戸での撮影で日本での全撮影は終了した。

その夜、十時半ころから打ち上げを行い、マイケル・ダグラス、シェリー・ランシングが挨拶をして、翌朝、アメリカに戻って行った。スタンリー・ジャッフェは、それより前の七日に帰国していた。

その後、アメリカに舞台を移し、ニューヨーク、ロサンゼルス、ナパバレーでの撮影に入ったのである。

《松田優作 炎 静かに》

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