三月十四日に『ブラック・レイン』の全撮影を終了した松田優作は、十六日に帰国した。
そして、家族と共に十九日から一週間の予定でタイを訪れた。
「俺はタイで、本当に天啓とでもいう体験をしたんだ。それ以来、俺は自分でも変わったと思う。それはいちばん大事なものだから、それからよくタイには行っている。この撮影は尻が決まっているからチケットの手配も終わったけど、家族を一緒に連れて、遊びに行くんだ。お前も来るか」
ニューヨークのロケ取材に行った時、タイで霊的なものを実感したという自分自身の宗教的体験を話しながら、半ば冗談のように誘われたこともあった。
しかし、タイからの帰国を待って電話をしても、彼はどこか温泉に行っているということでなかなかつかまらず、次に会えたのはそれからひと月以上もたった四月十九日のことだった。
彼は映画出演が決まると、その役作りのため精神を集中させるということもあってだろうが、よくひとりで旅をしていた。
だがその時は、再び西窪病院に入院していたのである。
松田優作が癌の告知を受けたのは、その前の年、初めて入院した時だったというが、さだかではない。たとえ癌と医者に言われても、初期から末期まであり、本人自身は癌即不治の病であるとは、考えてもいなかった。
彼は美由紀夫人にも言わなかった。
『ブラック・レイン』の撮影の時でも、止まらない血尿に苦しみながら、それがかなり進行した癌の侵入によるものだとは考えていなかったのかもしれない。
彼女も再入院によって夫が癌であることを知ったが、よもやそれが死に直結する病だとは全く受け止めなかった。もちろん告知する医者の立場と、少しでも状況をよいように考えたがる患者側との差はあれ、最後の審判というような深刻めいたものはなかったという。
もちろん松田優作自身、以前よりまして健康に留意していた。
一度、深夜に帰宅した松田優作に、
「なんといっても癌なのだから、気をつけないと」
と夫人が注意したこともあった。
しかしその時も、彼はこう答えただけだった。
「自分では気をつけているから、大丈夫だ」
彼は、自分の癌について、外には一切言わなかった。黒澤満でさえ、そのことを知ったのは、十月に最後に入院した時であり、しかも、本人からではなく夫人の口を通してであった。
それは、病ヘの恐れというものではなかっただろう。彼は自分の苦しみや悩みを決しで口に出さなかったし、それを見せることを潔しとしない人間だった。
しかし、前年の十月の入院以来、癌という病が彼の心のどこかにトゲとして突き刺さっていたことは確かだっただろう。
それが、どの程度まで大きくなっていたのか、今となっては知るよしもない。
三月下旬、松田優作から『緑色の血が流れる』の脚本を依頼されでいた丸山昇一がようやく第一稿を書き上げた。
通例、丸山は自分の手で、松田優作に届けるのだが、その時はひどい風邪で届けられる状態ではなかった。
「すみませんけど、送ってもいいですか」
丸山が電話口で言ったところ、いつもはなんとしても直接届けるようにさせる松田優作だが、その時は違っていた。
「送ってくれ。なによりも体が大事だから」
松田優作という男は、普段こうした言い方は絶対にしなかった。それだけに丸山の中に深く印象としてのこった。
しかも、こうした場合すぐに返事がくるのだが、今回はいつまでたっても連絡がなかった。
もちろんその時には彼は入院していたのだが、丸山は知らない。その脚本には丸山も自信があったし、次の仕事の予定もあることから、松田優作に電話してみた。
「半分まで読んでいるけど、すごくいい。全部読んだら電話をする」
しかし以後、松田優作からの電話はなく、丸山が次に松田優作について聞いたのは、十一月に入り、黒澤満から「覚悟しておくように」との突然の連絡を受けた時だった。
四月十九日、松田優作は京王プラザで『バカヤロー!私怒ってます』の監督・原隆仁と電通関係者をまじえて会っていた。
「たまには稼がないとな」
と冗談に言っていたが、キッコーマンの焼酎“トライアングル”のCMが決まったということで、その打ち合わせが終わってから、合流した。
「でも、『ブラック・レイン』では大分稼いだんじゃないですか」
と聞いたが、簡単に否定された。
「日本と同じだよ。アンディ・ガルシアだって、『アンタッチャブル』まではそうだった。だけど彼はその成功で一気に高額のギャラを取ることになり、今度だって、マイケル・ダグラスの次だろう。俺にしても、これが興行的に成功すれば、とたんに上がることになる。それがアメリカのシステムだ。だけど、それは次の作品での話だ」
確かに、『ブラック・レイン』が全米で公開された時、映画欄の大半はマイケル・ダグラスの記事によって埋められ、その興行上の力を見せつけていた。その中で、新しく登場した松田優作もいくつかのマスコミで取り上げられたものの、彼の価值を判断するには、次に出演する作品によってだろうということは当然納得できた。
公開直後、デヴィッド・コブリンによる『ムービー・プレビュー』(マスコミ向けに配信される映画評)では、松田優作は、
「松田優作は、着こなしのきまった犯罪者役で忘れられない印象を残した。彼は表現力に富んだ容貌、ここぞというとき大きく見開かれる威嚇するような目は、特筆ものである」
と語られていた。
映画の撮影中、松田優作は、マイケル・ダグラスとは違った意味でアンディ・ガルシアに対する友情を温めていた。ニューヨークで、ロサンゼルスで、ナパバレーでも二人は朝方まで語り明かしたし、アンディは現場に妻を連れてきて、松田優作に紹介したりもしていた。
「アンディは、これからもどんどん大きくなる役者だ。話もよく通じるし、最高の友人だ」
初めて大阪で記者会見した時、松田優作が「大ファンであるアンディ・ガルシアと共演できて嬉しい」と言ったことに、彼は驚くと同時に、素直に喜んでいた。
それだけに、アラン・プールから松田優作の訃報を聞かされた時、彼は、フランシス・フォード・コッポラ監督『ゴッドファーザーPART3』の撮影中だったが、真っ青になり、言葉もなかったという。
アンディ・ガルシアは、『ブラック・レイン』でも重要な役をしっかり演じていたし、それ以後も、マイケル・フィギアス監督『背徳の囁き』ではリチャード・ギアと張り合った。『ゴッドファーザーPART3』では、アル・パチーノと並び、今や押しも押されもせぬトップスターに駆け上り、完全に自分の地歩を築いたといってもよいだろう。
電通の関係者とは食事をしただけですぐ別れ、三人で、阿佐ヶ谷の松田優作が十年以上も行きつけの店に行った。この店が、彼にとっても気が休まるのだろう、以後、なにがあっても最後は決まってこの店になった。
とくになんの変哲もないカウンターだけの小さい店で、客といえばほとんどがサラリーマンや年配者だが、そこでは松田優作もただ好きな酒を飲む一人の客に過ぎなかった。店の他の客も、松田優作が来たといってもどうということもなく、時に世間話を交わしながら自分の時間を楽しんでいた。それはすべてこの店を経営している女性の人柄によるものだった。
「アメリカは、本当の意味での個人の力や才能が問われるところだ。日本のように、よけいな奴がいて保護したりはしない。誰もが直で向かってくる。お前が見たニューヨークのあの時と同じなんだ。こういうことがあった。助監督のチャレン・グラックを覚えているだろう。彼にある俳優が送迎車のことで文句を言ったんだな。チャレンに車でホテルに送るように言ったんだ。かなりしつこかったが、それは助監督の仕事ではない。で、あの小柄なチャレンが、『なに!もう一度言ってみろ!』と怒鳴ったんだ。そしたらそいつは、なにも言えなくなったんだ。
アメリカのスタッフは、一人一人が皆そうさ。いい加減な奴もいるけれども、自分の仕事に対しては、監督やプロデューサーとも対等だと皆思っているから。だけど日本人の場合、どうしてもマネジャーや付き人をはじめ、本人の前に厚いベールがあるし、何人かで徒党を組んでいないと不安に思っている奴も多いだろう。だけど、それじゃ世界には通用しないんだ。リドリー・スコットだって、俳優に対して、それがマイケルだろうが誰だろうが決して容赦しない。自分が納得するまで何度でも繰り返させるのは見た通りだし、その執着力は尋常なものじゃない。それである時、とうとうねをあげた日本の俳優もいたんだな。俺のキャンピングカーは、例によってスタッフの連中が入れ代わり立ち代わり出入りしていたんだが、そいつらが言うんだ。
『日本の俳優のレベルっていうのは、こんなものかい』
俺だって日本の俳優の一人だから、いろいろ弁解したんだ。だけど、そうしたことが続くうちに俺は恥ずかしくなったね。情けないよ。……本当、健さんだけだぜ。
しかし、ナパバレーの撮影では、每日、每日がパーティ、パーティの連続。マイケル・ダグラスが一時も俺を放さないんだ」
こうしたことは、ロサンゼルスでの撮影の合間、フラン・ヌベール・葛井にも言っていた。松田優作と彼女とは、佐藤純彌監督『人間の証明』の時からの付き合いだったが、彼女自身『ブラック・レイン』を見て、それが松田優作が自分自身を発見した演技ということで、ひどく感動していた。その彼女に彼はこうも言っていたという。
「アメリカでは、役者として働くと非常に解放されるし、フリーだ。リドリー・スコットやマイケル・ダグラスとも、自由にコミュニケート出来ることを自分でも認識したよ」
松田優作は、完全に仕事を終えたという安堵感もあったのだろうか。それまでずっと持続していた緊張から解き放たれ、二時半まで飲んだ。しかも体調がよかったのか飲む量も多かった。
それでももちろん、酔った様子は全然見せず、店を出て、阿佐ヶ谷駅のタクシー乗り場まで、サングラスをかけて長いコンパスで悠然と歩いていった。
それからふた月がたった。その間、電話で何度か話したが、CMの撮影もあり、忙しいからしばらくは会えないということだった。
松田優作はなにかを考えている時、それが具体的になるまで絶対に話さなかった。
その時も、いったいなにで忙しいか不思議だったが、聞くわけにはいかなかった。
六月十三日、また京王プラザ・ホテルで会った。彼は黒澤満と日本テレビで放映される、村川透監督『華麗なる追跡』の打ち合わせをしていたのだが、その時初めて松田優作に黒 澤満を紹介された。
だが、黒澤満とはすぐに別れ、松田優作と軽い食事をすますと、彼が芝居を教えている青年が働いている店に行き、そこから再び阿佐ヶ谷に戻った。
その時、この二ヵ月間の忙しさが分かった。
「実は、自動車免許を取っていて、今日やっと免許証が出たんだ」
思いもよらないことだった。バイクがよく似合う松田優作は、『華の乱』でも、サイドカーをかなり器用に運転していたし、運動神経が抜群の彼のことであるから、四輪の免許を持っていないなどとは思ってもみなかった。彼が免許を取るために学校に行っていたこと、まして、講習を受けるということも信じられなかった。
「優作さんは、人の話を黙って聞くなんていうのはだめなんじゃないですか」
「前はな。前も、一度免許を取ろうと思って通ったんだけど、途中で阿呆らしくなって止めた。だけど今度は、不思議だったけど、教師の話にしても面白いんだ。運転を教える教師ともいろいろ話をしたりして、なかなか得難い体験だったぜ。むこうも俺が松田優作だということを知っていたとしても普通にしゃベっていたし、俺もそうさ」
彼自身はいつものように自分の感じたことをそのまま話し、裸でぶつけていたかもしれない。しかし、彼は『ブラック・レイン』の撮影を終えてからは、他人を受け入れることについてもひどく寛容になっていたし、穏やかだった。
松田優作と会うということに関心を引かれたのは、考えてみると、その都度、彼が変化していく様が分かるからでもあった。彼の他人に対する評価にしてもそうだったし、自分の好みというものも結構よく変わっていった。こちらがそのことをなかなか追及できなかったのは、その都度、彼が真剣だったからだが、しかしこのころには、何事に対しても大きく距離を取り、受け入れていたような気がする。
もしかしてそれが、『ブラック・レイン』でアメリカの最前線の現場をくぐり抜けて得た自信というものかもしれなかった。
もう構える必要はなかった。構えずとも、そのままの自分を出せば、その通りに、単純に、率直に評価してくれる。それが仕事を通じて出てくる。それが、アメリカの現場だった。
もちろん日本でも、彼は同じように振る舞ってはいた。
しかし、評価となるとまた別のものが出てくる。映画業界の狭い世界での足の引っぱり合いから、映画というものを作品そのものの評価によってよりも、誰かが褒めた、あるいはなにかの賞を取ったという、映画そのものとは関係のないところで、動いていることが多すぎた。その根本には、映画などまともな仕事ではないという価値観が、どこか日本人の中にあるのかもしれない。
それは、映画だけに限ったことではない。演劇でも同様で、蜷川幸雄(にながわゆきお)は、初め日本で問題にもされず、たまたまイギリスで、ヨーロッパで、アメリカで、つまり日本以外の白人支配圏で評価され、それが逆輸入されてようやく日本で評価されたくらいである。
蜷川幸雄は、一度、松田優作に出演を要請したことがあった。だが、松田優作はこの誘いを断っている。
「最初から芝居に出るつもりはなかったけど、蜷川幸雄には会いたいと思ったから、プロデューサーに直接話させてくれと頼んだ。だけど、結局それきりになってしまったな」
松田優作がアメリカ映画『ブラック・レイン』によって日本の枠を突破できたことも、
ある意味で文化の逆輸入だったのかもしれない。
今や彼は、企画を考える時、日本の、さらにまた小さな世界を、相手にする必要もなくなっていた。
もちろん、それがはっきりするのは『ブラック・レイン』が公開されてからのことだが、内容的には問題なかったし、彼は自信を持って次の準備を始める時期に入っていた。
「ロサンゼルスの街を知っているか。俺の泊まっていたホテルにしても、とにかくホテルの周辺には飯を食うところもないし、探そうと思っても信じられないほど広くて、歩くわけにもいかない。ニューヨークならまだいいけど、ロサンゼルスには本当にまいった。車がなければどうしようもない。仕事の時は、もちろん送迎車があるからいいけど、四六時中仕事をしているわけじゃない。そんな時に車がないと、絶望的なくらいどうしようもないんだ。それを肌で感じたから、集中的に自動車免許を取ろうと思ったし、これでまた新しい車が買える」
そして、この夏、家族揃ってキャンピングカーで、キャンプをする計画などを話してくれた。
だが、具体的にアメリカで仕事をする上での大きな問題は、もうひとつあった。
飲んでいる途中、彼は何度か電話をかけるために席を外したが、やがて納得したような顔をして戻ってきた。
「前から、いろいろ当たっていたんだけど、ようやく英会話のいい先生が見つかったんだ」
松田優作が国際スターとして仕事をする上で、英語は必要不可欠のものだった。もちろん日常では困ることはないにせよ、アメリカ映画に出演するとなると、細かいところまで、彼の言う「ニュアンス」を身につけなければどうしょうもない。『ブラック・レイン』は英語が出来なくても通用する設定だったが、彼はいつまでも限定された役をするつもりはなかった。
彼は、次なる未知の道を切り開かなければならなかった。松田優作がアメリカ映画に出演するということは、彼一人がスターになるということに止まらなかった。彼はいつも、後に来るものの先導者でもあった。
松田優作が七月七日に香港で『ブラック・レイン』のアフレコをすませ、日本に戻ってきたのは九日だった。
彼と会ったのは十一日で、また京王プラザから阿佐ヶ谷といういつものルートをたどった。
この時、彼は自信に満ちていた。
「アフレコ自体は一日だったけどな。本当、アメリカは奥が深いぜ。リドリー・スコットはもちろんいなかったし、アラン・プールだけだが、アフレコ・ディレクターというのが出てきて、絵を見ながら俺が吹き込んでいくのをチェックするわけだ。だが、その指示の的確さ。言葉は互いに通じないにせよ、俺の吹き込む音が違うと、それがドの音とかレの音とか具体的に言ってくるから、言葉の違いによってニュアンスが通じないということはないんだな。最初は戸惑ったけどすぐに慣れて、スケジュールは二日取っていたけど一日で終わった。こうした音響技術に関していえば、若山(富三郎)さんが『ブラック・レイン』のテーマというか、ブラック・レイン(黒い雨)がアメリカの空襲と価値観を象徵するものだということをしゃべるシーンがあるのだが、英語ではあの人は無理だったんだ。それでコンピュータで合成することになったんだが、まず若山さんの音質に似た男を探して録音し、さらにアメリカ人の英語ではなく下手だけど確実にアメリカ人に分かる英語に置き換えるようにコンピュータで処理したんだな」
松田優作は香港で、部分的ではあったが『ブラック・レイン』の映像を初めて目にした。
「リドリーは凄い。アンディ・ガルシアを殺すシーンがあるだろう。実際の現場では、刀を地面に擦って火花が散ったりするので、少々あざといとは感じていた。だけど、ラッシュで繫がってみると、全然そうは感じない。すごい迫力だった」
香港では、スタンリー・ジャッフェからの要請がアラン・プールを通して伝えられた。
「本当、アメリカというのはとんでもない国だぜ。撮影を終えて、もう四ヵ月もたつというのに、アラン・プールが『ワン・ショット足りないから、リテイクをしたい』と言うんだ。どういうことかというと、テスト・フィルムを二種類に分けて、六月に覆面試写(スニーク・ビュー)をしたんだな。つまり、俺が死ぬバージョンと生かすバージョンなわけだ。撮影中は、本当に俺が殺されなければ誰もが納得しなかった。だが、観客に見せてアンケートを取ると、圧倒的に俺が死なないで捕縛されるほうがいいという結果が出たんだ。となれば、杭を見せてそのまま雪崩込んで突き刺さって死ぬのではなく、杭が見えた後に、健さんがフレームに入り込むショットが必要なんだが、それは撮影していない。だから、リテイクの要請がきたんだな。
俺は怒ったね。『たしかにスケジュールは空いている。だけど、すぐ行って、ハイ撮影とはいかないだろう。あの時とは完全に気持ちが切れているから、リテイクは無理だ』
しかし、日本では、撮影後一週間ですぐ封切りというところもあるというのに、まだリテイクしようなんて、本当になんていう国だと思ったね。本当に手間暇かけてくれる。お前が見たあの精肉工場の肉だって、あれだけの肉を全部買い占めたんだろう。そのあげくリドリーがあの調子で、血糊を使ったり、強いライトを浴びせたり、好き勝手をしている。まさか食べるわけにはいかないから、全部捨てたんだろうけどな」
この日、途中から石橋凌を誘った。彼が合流してからも、また話は『ブラック・レイン』の撮影の時の様子になった。
「ロサンゼルスでだったが、マイケル・ダグラスと一緒に車に乗ろうとした時、そこにマイケルのファンだというジャンキー(麻薬中毒患者)がやってきたんだ。もう、目は完全にあっちに行っている。それでマイケルに絡もうとするんだ。マイケルは全然相手にしないで、『ほっとけ!』と言うんだが、俺はそいつに殴りかかろうとした。マイケルは俺を必死になって止める。するとそいつは図に乗って車にまで乗り込もうとするので、俺は完全に頭にきて外に出たんだ。そしたらマイケルが慌てて俺を引っ張って車に戻し、そのまま出発した。マイケル・ダグラスは呆れていたよ。
『本当、ユーサク!お前は自由人なんだな』」
日本での行動とほとんど変わることはなく、どんな場でもあるがままの姿を出すというのが、松田優作らしかった。
こうした彼の態度、実際の撮影での彼の振舞い、そして演技は、まず周囲のスタッフの信頼を獲得したが、それ以上に、じっと見ている監督やプロデューサーも日本と違って直接に反応してきた。
「リドリーが言うんだ。『ユーサク!お前は、やっぱり普通の役者なんだ。俳優なんだ』日本でだと、こうしたことで興行的にも成功すると『松田優作はアクションスターだ』という形でしか言われないだろう。でも違うんだ。むこうは違った角度で評価してくれる。リドリーが“普通”の俳優だという時、それは俺がどんな役でもやれるという可能性を持っていることをそのまま言ってくれたんだ」
そうした話の中で、松田優作のアメリカでの仕事が具体化しつつあり現実性を持ってきたことを、聞いていても感じたから、逆のことを聞いてみた。
「しかし、これからはどうするんですかね。アメリカからのオファーがあれば、それだけに集中することになりますか?」
すると、彼は落ち着いて答えた。考えてみれば、彼の得た自信というのはそんな中途半端なものではなかったし、彼自身、アメリカで興行的に成功するかどうかは別として、『ブラック・レイン』の出来に心配はしていなかった。まして自分の出番については自信を持っていたから、決して浮わつくこともなかった。
「そんなに簡単なものじゃない。いちばん大きいのは英語だ。俺だって日常的には不自由しない程度には大丈夫だけど、俳優がしゃべるというのは違うだろう。ニュアンスが今のままでは伝わらない。まあ、個人教授が見つかって必死にやっているといっても、すぐに体得できるものではないだろう。ある程度の時間はかかる。後は、『ブラック・レイン』が、ヒットしてくれることを願うだけだな。今、丸山に脚本を一本書かせているし、深作さんとも、『華の乱』のいい出会いがあったから、次の企画を考えているし、森田とも、そろそろやろうかなと思っている。
今、松竹で二・二六事件をやろうとしているだろう。あれは俺も考えたことがあるんだ。あの事件は切りロによっては本当に面白いものだから……。ひとりの兵隊に焦点を当て、彼がちょつと違う人間だということで、そこから二・二六を捉えられるようなものを、一時は真剣に考えたこともあるんだ。結局、脚本を書くまでにも至らなかったけどな。
だけど、俺が成功することで、これまで通らないような企画が通ることになれば、これほど素晴らしいことはないんだがな」
松田優作は丸山昇一の脚本『緑色の血が流れる』を読んでいたであろう。にもかかわらず丸山に連絡しなかったのは、アメリカ映画を体験する中で、興行の成功の是非が大きく明暗を分ける現実を見てきたことがあり、娯楽映画が完全なビジネスの世界であることを実感し、自分の映画に対する考え方に多少の修正を加えたかったためかもしれなかった。
「しかし、俺が今度、日本映画をやる時は、本当の娯楽映画で、ヒットする作品でなければだめだな」
もちろん彼は、『ブラック・レイン』のヒットを望んでいたし、実際にロサンゼルスの劇場まで確かめに行こうとまで言っていたほどだった。最初の予定では七月公開だったから、なんら支障はなかったのだが、公開が大幅にずれ込むことで彼の次の仕事と重なり、結局、それは無理になった。
その次に松田優作と会ったのは八月も終わりのころだった。電話では話していたものの、この時期、彼はよく家族と共に旅行をしていたので、間があいたのだった。
彼はしきりに言っていた。
「考えてみれば、今まで俺にもいろいろ先輩とか仲間とかしがらみに縛られたことが多かった。だけど、今度のアメリカでの仕事を通してつくづく思ったのは、そうした人間の上下関係、仲間なんていうのは物を作る上では全く関係がないということだ。俺自身にもそうした部分もあったけど、今はゼロだ。ひとり。俺は、たったひとりなんだ。ただ、家族だけだ。理想的に言えば、これからアメリカでの仕事が多くなれば、移住というわけではないけれども、半分くらいはアメリカで生活するようにしたい。家族も向こうに移って。日本でも、映画の仕事はするつもりだが、この国にはもううんざりしていることも多いし」
彼の中で、また再び大きな変化が訪れていたようにも思える。以前のように積極的に人の中に入り込むことはなく、ひとりでいることを望むようになっていた。
日課である座禅はもちろんだが、彼自身が生活する一瞬一瞬を大事にするようになっていた。かつては、自分が日本映画の最先端を走っているという意識から、他人を引き上げたりするなど、どうしても背負うものが多かったのだが、この時にはもっと違うものを見つめていたように思える。
彼は仕事はもちろんのことだが、それ以上に自分が生きる上での時間というものを大事に、演技についてコンマの話をした時と同様に、デリケートに見つめ直そうとしたのに違いなかった。
そして松田優作は、俳優としての日常ということを考えた時、どうしても宗教的なものを深めることが自分自身を高めることにもなると感じていた。
松田優作の変化については理解出来るような気がしたが、肝心の『ブラック・レイン』については、多少、部分的に関わったものの、はっきり全体像がつかめず、どこか消化不良というか、突っ込んで聞くことも出来ないでいた。
彼は、確かに聞いたことに関しては丁寧に答えてくれたし、それはまたそれなりに面白いものだった。
しかし、彼のみがラッシュにせよ映像としての形を見ているのに対して、こちらにはあまりに材料がなさすぎた。
それでも会うというのは、もしかして彼の言うところの「愛情交換」かもしれなかったが、私のほうでは『ブラック・レイン』の封切りが近づくに従って差し迫った用件が出てくるので、それを彼に伝えた。
「公開はアメリカが九月二十二日、日本が十月七日ですが、それに合わせる形で『ブラック・レイン』のルポを連載しようと思っているし、公開された時、優作さんとのロング・インタビューをやりたいと思っているんですが」
「俺は、『ブラック・レイン』に関しては、もうマスコミに対しては面倒臭いから一切やるつもりはないんだ。お前がどこかでやるならそれは構わないし、俺はお前となら話す。そのインタビューはいつでもいい。なにかやるならお前の方で好きにしてくれ」
正直、その言葉は嬉しかった。俳優、とくにスターの場合には、マネジャーや事務所の方での規制が厳しいのだが、松田優作とは、本人と話がつけばそれですんでいた。黒澤満もそうしたことでは松田優作を信頼していたし、セントラル・アーツは具体的な手続きをするだけだった。
松田優作は、これまで自分の関わった一本一本の作品について、様々な雑誌で、それこそありとあらゆる角度で語ってきたが、こと『ブラック・レイン』に関しては、公開前に撮影に関する公的な発言をすること自体の禁止が契約書に明記されていることもあって、以前ほど積極的ではなかったようだった。
話を他人にすることで、自分の中で未整理な部分を明らかにしたり、方向をはっきりさせるということがこれまであったのかもしれないが、『ブラック・レイン』を終えて確かな自信を得た今では、その必要もなくなってきたのかもしれなかった。
「お前は、ニューヨークの現場を見たんだから」と、ことあるごとに彼は言ってはいたが、宣伝ひとつとっても、松田優作は、これまで関わった日本の映画会社とは違って一俳優に撤していればよかった。あとは配給会社であるUIPが大きな宣伝プロジェクトを組むのである。
九月になった。すでに『ブラック・レイン』のプリントは到着していたが、日本語版を作るのに手間取って、われわれマスコミ関係者はなかなか見ることができなかった。
六日、配給会社であるUIPに偶然立ち寄った時、キャメラマンの木村大作に会った。彼も降旗康男監督『あ・うん』を終えたばかりの時で、UIPに来た理由を聞くと、「打ち合わせ」という、この業界の都合のよい言葉で逃げた。
しかし、その謎はすぐ解けた。その日、高倉健が『ブラック・レイン』の英語版を見るために来たからであり、第三者の批評を求めて、信頼厚い木村大作を誘ったのだった。
翌日、木村大作に電話をした。
「見終わって、健さんと一緒にコーヒーを飲んで話したんだけれども、健さんはその出来にすごく満足していたようだったな。だけど、言っていたよ、『これからは、松田優作の時代だ』と。まあ、僕自身は大阪の撮影についてはちょっと(不満が)あったけど、前半のニューヨークの画調はすごくよかった」
この高倉健だが、翌年、『ブラック・レイン』が第六十二回アカデミー賞の二部門(錄音賞、音響効果賞)にノミネートされた二月のある夜、小林稔侍を伴って松田優作邸を訪れた。彼は、公開当時、アメリカでも松田優作の評価が高く、アカデミー助演男優賞の可能性があるということで、あらかじめローレックスの時計を贖い、時期に合わせて松田優作に贈ろうとしていた。しかし、思いもかけない急死により、高倉健は、マイケル・ダグラスが『ブラック・レイン』について語ったテープと共に、その時計を夫人に渡したのだった。
九月十一日、午前十時、UIP試写室で、『ブラック・レイン』の最初のマスコミ試写が行われる旨が通知された。
私は松田優作にも一緒に試写を見ることを勧め、彼自身もその気になっていたが、九日に電話をすると、その段になって躊躇した。
「黒澤さんが俺の代わりに見てくれるだろうし、俺は、後で公開されてから劇場で見るからいいよ。批評家もどうせ来ているだろう。そんな奴らに俺がどんな顔をしているかを見られるのは嫌だね」
批評家は少ないとか、その日は特別とか說得したが、彼がいったん「ノー」と言えば、ひっくり返るはずもなかった。
そして、十一日になった。この時ばかりは、製作関係者でもあるかのようにひどく興奮した。
なにしろ『ブラック・レイン』という作品は、待ちに待たされた映画だった。映画の撮影から公開まで一年近くも待たされるというのは、経験がなかった。それをやっと見ることができるのだ。
見終わって、安心したというのが正直な印象だった。というのは、こちらの思い入れと作品の出来とが全く関係しない例をいくつもみてきたからだが、さすがリドリー・スコットだった。
昼食をとっていた時、UIPから、一時の試写に松田優作が来ることを聞いた。
そんなバカなとは思ったが、その通りだった。彼は黒澤満と共に試写を見た。
「優作は最初、嫌だと言っていたんだ。まあ、僕も、優作が『嫌だ』と言えばそれまでだから、そんな時には無理強いはしない。だけどあの時は、虫の知らせとでもいうのかな、『優作、いいから一緒に見よう。UIPだって批評家は来ないと言っているぜ』と半ば強引だったけど、連れていったんだ。だけど結果的には、それがよかったんだな。そうでなければ、彼はその後、見ることはできなかっただろうから。
あいつは、事前に、『黒澤さん、タイトル・ロールが出たら、すぐ出ましょうね』と言っていたから、終わるとすぐに飛び出して、そのまま帝国ホテルに入り、二時間ばかり彼と飲んだ。しかし、あの日、あの時間ばかりは、優作との長い付き合いでも特別に楽しくて、おいしい酒だった。あんなに充実した時間はなかったね」
こうしたことで、彼との連絡は夕方になっても取れなかった。
私は『キネマ旬報』の編集者と渋谷で祝杯を上げていたのだが、どうも収まりがつかなくなり、九時半頃、松田優作の家に電話をした。すると、美由紀夫人が「阿佐ヶ谷のいつもの店で待っているから、すぐ来てくれと言っている」との伝言を伝えた。
急遽、タクシーを飛ばして駆けつけると、松田優作は、梅林茂と静かに本当にうまそうに、焼酎を飲んでいた。
ゆったりとした時間の中に、これまで溜まりに溜まっていたこちらの思いと喧騒をそのまま持ち込んだ。
「いや、優作さん。ホッとしましたよ。最高でしたね」
だが、彼はニヤッと笑って言った。
「だけど、俺の力はまだまだこんなものじゃないぜ!」
そうは言いながらも、彼は体全体で満足した気持ちを、充実したものを現していた。本当は、正式のインタビューの前に、あまり引き出しを出すわけにはいかなかったが、そんなことには構っていられなかった。
「しかし、登場にはまいりましたね。機関銃を持っている男がレストランに入るや、次の瞬間、あなたがシルエットのようにスッと入ってくる。それでサングラス姿が分かると、持っていたタバコをポイと捨てる」
「タバコを捨てるのは俺のアイデアだった。最初、なにもなしに登場していたんだけど、リドリーが『なにかないか』と言うので、タバコにしたんだ。それも、あれは見えないけどアメリカ製のタバコで、それがまずいということで捨てるわけだ」
これまで松田優作は、日本の代表的なアクションスターと言われてきた。しかし誰がこうしたセンセーショナルな登場をさせただろう。最初に松田優作が帝国ホテルのドアを開けて姿を見せた時のリドリー・スコットの驚きがそのまま画面に出ていた。
あれが、松田優作だった。誰でも皆知っていると思い込んでいた松田優作の全く別の姿だった。
リドリー・スコットは、マイケル・ダグラス、高倉健、アンディ・ガルシァの増悪を一手に引き受けるスケールの大きい悪役を観客に強烈に印象づけるために、こうした演出をしたのだろうが、裏返せば、それがリドリー・スコットの松田優作に対する愛情の大きさであり、彼の仕事の姿だった。
その瞬間、松田優作は世界に飛び出した。あとは、リドリー・スコットの丁寧なお膳立ての上で松田優作がどう生きるかということだったが、見ていくと確かに、撮影しているうち殺さなければ気がすまなくなったというスタッフの気持ちもよく理解できたし、それだけ大きな役になっていた。
しかしそれでいて、観客がスニーク・ビューの時から、彼を生かす方に拍手が多かったというのは、ひどい人間であるにもかかわらず「そこにユーモア、微妙なユーモアを入れることの出来る俳優だ」と言った、リドリー・スコットの直観を裏付けるものだっただろう。
「その後、ナイフで男の首を切りつけるシーンがあるだろう。あそこの撮影は一種の特撮だったから、準備で結構時間がかかったんだな。男の首に血糊の袋を貼りつけて、その上にラテックスの人工皮膚を被せて固め、俺はそこを切るわけだ。だけど、血の飛び具合とか、いろいろ難しくて、なかなかOKが出ない。カメラはたえず回っているとはいえ、その度に俺のワイシャツにも返り血を浴びるわけで、一回ごとにワイシャツは換えなければならない。俺はどうしても日本での現場の経験から、演技をしながらも余計なことを考えてしまう。『あと、着替えのワイシャツは、二、三枚だろうから、うまくやらなければいけないな』とか、つまらないことを心配するわけだ。だけど奴らは一向お構いなし。リドリーは平気でテイクを重ねるし、衣装にしても、NGの度にどんどんワイシャツやスーツを持ってくる。まあ、十回くらいでようやく0Kになったんだけど、感心するのを通り越して呆れてしまったな」
目の前でこうして静かに話している男が、つい先程まで興奮させてくれていたスクリーンのヒーローと同一人物とはなかなか思えなかった。
この日集まった四人の中で、唯一映画を見ていなかったのは梅林茂で、彼は静かに聞いていたから、考えてみれば興奮していたのはこちらの方だけだった。
松田優作はいつものように、慎重に話した。
松田優作、梅林茂の二人とも、明日『華麗なる追跡』で、タイのロケに出発するのだったが、時間はすでに十二時を過ぎていた。
「飛行機の中で護送される時、マイケル・ダグラスに殴られますが、あれもなかなかよかったですね」
「あれもそうさ。マイケル・ダグラスは、ニューヨークでも言ったけど、アクションは、それほど得意な俳優じゃないからね。ちょっとしたアクセントを出そうとしたんだ」
もちろん、殴るということは、脚本には書いてあったが、問題はその殴り方、タイミングだったし、こうしたことに関して松田優作の右に出る者はなかった。
彼の喧嘩の強さはほとんど天性のものであり、場数も踏んでいることは、会った時から感じていた。かつての私の師匠唐十郎に松田優作が挨拶に行った時のことだった。
「一緒に酒を飲んだんだが、そのうち彼が絡んでくるんだな。それで、ボクシングの真似をして挑発するから、言ってやったんだ。『やめた方がいいですよ。俺はあなたのところにいた若い奴とは違いますから、ただじゃすみません』と言ったんだね。それで、終わりさ」
しかし、松田優作は全く恐れを感じない男ではもちろんなかった。
「『ア・ホーマンス』を終えた時だったけど、家にヤクザから電話がかかってきて、『親分が会いたいと言っています』と言うんだな。逃げようと思えばできたし、事務所に言えばとも思ったけど、ひとりで会うことにした。もちろん、カミさんに言えば心配するから言わないよ。それで、迎えの車に乗ってどこかの料亭に行ったのかな。そこでは、幹部とか親分が待っていて、映画について質問をするんだな。俺はいちゃもんをつけられると思ったんだが、そうではなく、『よく、ヤクザについても、ここまで調ベて映画にしたものだ』と、逆にほめられたんだな。しかし、まわりを固められた時は腹を決めたけど、出された食事や酒も喉に通らないし、まいったぜ」
そんなところにひとりで行く度胸がよくもあるものとも思ったが、それより、彼が素直に、
「怖くて、小便をチビりそうになった」と正直に言うところが、妙に面白かった。
「それから取調室で、右手で目の上を差し、見えるはずのないところであなたを見ているマイケル・ダグラスの傷を示すシーンがありますね」
「あれは、最初のニューヨークで撮ったものなんだが、東洋の神秘の部分を出してほしいという要求があったから、透視能力というのかな、それを暗示したんだな」
「また、日本に戻って、偽警官を使って逃げる時、マイケル・ダグラスに合掌しますね、あれは優作さんのアイデアですね」
「ちょっと臭いけどな。リドリーが『いろいろやってくれ』と言って、普通に見つめたり、いくつものバリエーションを随分やらせられて、リドリーが編集段階で選んだのがあれなんだろう」
この時、多少気になっていたことも聞いてみた。
「しかし、優作さんの演技が時に過剰になるところがありますね。語尾に『ンー』と強調するところとか、表情もそうです。若山さんとの鉄工場でのやりとりにしてもですが」
「最初、俺にしてもナチュラルな演技をしていた。だけど、リドリーの狙いはもっと違うところにあったんだな。もちろん、その都度、様々なバリエーションでいくつもの演技のパターンをやるわけだ。だけど通して見ると、リドリーは、俺にかなり過剰なものを求めていたんだな。それは、そうした演技の方がはっきりして分かりやすいということもあったんだろう。日本映画じゃない、これは、アメリカ映画だから」
その日は久し振りに話が弾んだ。というより、ようやく問題の作品を見て、同じ土俵に立てたので、はじめて対話が成立したのである。
アメリカではたしてヒットするかどうか。
だが、松田優作にとってアメリカ映画は、かつて考えていたような絵空事の世界ではない。すぐ手に届くどころか、リドリー・スコットからも次の作品で使いたいと言われていた。もはや距離はなくなっていた。
この夏、アメリカでは、『バットマン』が興行記録を次々に塗りかえ、社会現象になるほどだった。日本でもワーナー・ブラザーズの正月本命作品とみなされ、試写もそろそろはじまろうとしていた。
「次は『バットマン』にいこうぜ。ジャック・ニコルソンの二十四億円の笑いが見たいね」
松田優作のその言葉を聞いてうなずきながらも、『キネマ旬報』の編集者もいたことで、その前に彼との本格的なインタビューを行いたい旨を伝えた。
「いつだっていいが、とにかくタイから戻ってからだ。十八、九日には戻ってくるから、それから決めよう」
すでに午前二時を過ぎていたが、人通りの少なくなった阿佐ヶ谷の通りを、大男を含めた男ばかりが四人、いい調子で歩いていた。駅のタクシー乗り場で握手をして別れた。
そして、これが彼を見た最後になった。
日本で『ブラック・レイン』が試写にかけられた時、批評はおおむね好評だった。なによりこの作品は、これまで日本を描いた作品とは大きく違っていた。リドリー・スコットは日本人を偏見なく見ていたし、体の大きさにしても、主演の高倉健をはじめ、松田優作もマイケル・ダグラスに全く見劣りしない。また、若山富三郎はある凄味さえ見せ、神山繁もいかにも官僚的な警察署長役をいきいきと演じていた。
『ブラック・レイン』は、日本人が自分に対してコンプレックスを持つことなく見ることのできる初めてのアメリカ映画といえるかもしれなかった。
九月二十二日、当初予定予算三千万ドルが四千二百万ドルに膨れ上がった大作『ブラック・レイン』は、全米でいっせいに公開された。
しかし、日本側の反応に比ベ、アメリカ側の評価は別れた。というより、主人公のマイケル・ダグラスの役が“醜いアメリカ人”であることで、否定的なものも多かったようである。
ニューズウィーク誌など、「日本の経済進出で無力感に陥っているアメリカ人を慰めるために、ハリウッドはアジア叩きをしている」「野卑で、荒々しいランボーばりの復讐劇」と評していた。
加えて、観光としての日本を一切撮らず、說明などしていないから、分かりにくく、二時間五分が多少長すぎるという批評もあった。
にもかかわらず、アメリカの観客には支持され、興行的に落ち込む秋としては珍しい大ヒットとなった。公開されるや、いきなり興行収入の一位に飛び出し、三週間トップの座を占め、三週間で二千七百七十二万ドルの興行収入を獲得、長い間べスト・テンの上位に食い込んでいた。一週目の週末には、パラマウント映画として過去最高の観客動員を誇った。十二月七日の統計では四千六百万ドル(六十四億九千万円)の興行収入を得、ハロルド・ベッカー監督『シー・オブ・ラブ』と共に、八九年度アメリカの秋の興行を潤す原動力となったのである。
こうした興行に関しては、アメリカ映画は徹底したマーケットリサーチを行う。この時も、サンプルの劇場の観客の何人かをモニターにして、映画館に入る前と見終わった後で脈を計り、意見を求めた。
スタンリー・ジャッフェ——
「観客の反応は、すごくよい。皆、脈が上昇しており、興奮していることが、図らずも証明されたよ。日本の俳優にしても、松田優作は『非常にセクシー』だと女性客は騒いでいるし、高倉健も『同情できる人物で、彼の魂が顔に現れている』と感じているようだ」
マイケル・ダグラス——
「健さんは素晴らしい役者だ。もちろん、英語で演技しなくてはいけないというプレッシャーがあったと思うが、彼はプロだ。それに松田優作は、センセーショナルだ。この二人は、世界のどの国に出しても通用する最高の俳優だ。アメリカでの試写の反応も、日本人キャストに対する賛美が大変多かったしね。本当の“演技”っていうのは、言葉を超越したものなんだ。その意味で、あの二人の演技には感嘆したし、彼らと共演したことをとても誇りたい気持ちだよ」(ビデオマガジンアビック 89年11月号)
このあたりから、彼の病状は悪化の一途を辿っていったのだろう。『華麗なる追跡」の撮影でも、彼は腰痛を訴えた。
ロケに同行した黒澤満は言う。
「アクションが多かったから、撮影前日にでも『延ばそうか』という話は何度かしたが、その日になると『なおりました』ということで、撮影はスケジュール通りにこなした。だけど今思うと、相当しんどかったと思う。ただ、現場で、自分が休むとどうなるかということは、あいつは知っていたから、こっちによけいな心配をさせなかったんだろう」
日本に戻った九月十八日の夕方、電話を入れると、
「今朝帰ったばかりだ。勘弁しろよ」
と不興を買ってしまった。翌十九日に再び電話して、インタビューの打ち合わせをしたが、結局、これが松田優作の声を聞いた最後になった。
インタビューの日は二十六日の夕方と決められたが、その日になって、セントラル・アーツから延期の申し出の電話があった。
それより前の二十一日、この日は松田優作の三十九歳の誕生日だった。
松田優作は、午前中から東映化工で『華麗なる追跡』のラッシュを梅林茂と見て、夕方は、「レディ・ジェーン」で、石橋凌ら親しい友人たちも合流し、最後は自宅で酒宴の続きを行った。
誕生日のプレゼントに美由紀夫人の贈ったスーツを羽織って彼は踊っていたが、この時にはすでに彼の心は、友人たちからすら離れてしまったかのようだったと美由紀夫人は言う。
そして、それが友人たちが松田優作を目にした最後になった。
そして、二十六日には西窪病院に彼は入院していた。
黒澤満が、松田優作の病気が癌であることを美由紀夫人から知らされたのもこの時だった。
二十八日に電話をすると、美由紀夫人がいつもと変わらない声で、温泉に出かけた旨を伝え、十月五日の東京国際映画祭の時には出席するから、そこでコンタクトを取ってくれるようにとのことだった。
十月五日、渋谷文化村のオーチャード・ホールは『ブラック・レイン』公開に先立つ特别上映で超満員の観客を集め、リドリー・スコット、スタンリー・ジャッフェ、シェリー・ランシング、高倉健、内田裕也が舞台挨拶をした。
だが、そこに松田優作の姿はなかった。
UIPに聞くと、パーティには参加し、リドリー・スコットとは再会したものの、腰痛がひどく、中座して帰宅したとのことだった。実は、パーティに参加するのも病院から特别の許可を貰ってのことであり、松田優作はそのまま再入院していた。
この日、黒澤満のもとに松田優作に対するアメリカからのオファーが届いた。
「ショーン・コネリーが初監督をして、主演はロバート・デ・ニーロ、その相手役に松田優作を使いたい。プロデューサーはショーン・コネリーの娘だが、彼女は、こちらの段取りがつき次第、ロサンゼルスから松田優作の顔を見に来たいと言っている」
だが、黒澤満は、こう言ってペンディングにした。
「今、優作は温泉に行っていて、こちらからは連絡がなかなかとれない。来てくれるのは嬉しいが、空振りの可能性もあるからもう少し待ってくれ」
黒澤は、このことを病床の松田優作に伝えた。
「黒澤さん。今度はオーディションじゃないんでしょうね」
「今度は違うな。プロデューサーが優作に会いたいと言ってきているのだから」
すると、松田優作は満足そうに頷いた。
ただ、この作品は具体的に映画化はされなかった。
その後のことは、『文藝春秋』(90年1月号)に載った美由紀夫人の手記がすベてである。
入院中、日常の世界からは解き放たれたように、精神的にある高みにたった松田優作の様子。そして危篤になり、しゃベれる状態でなくても、医者に「うちのカミさんによけいなことを言うな」という松田優作の強さと、夫人に見せるやさしさ。会話を交わさなくても持てる夫婦の間の密接な時間がそこにはあった。
また、夫婦の出会いから結婚生活、『ブラック・レイン」で高揚していた時、そして死を迎えた夫人の意志が素直に吐露されてあった。
その頃、私は、彼がそんな状態になっているとは夢にも思わず、十月の半ばでも時々は電話を入れていた。その都度、夫人はいつもの声で、「まだ戻ってこない」とは言っていたが、「入院しているのではないか」と聞くと、否定はしなかった。
せめて病室でもインタビューができればという心もあったのだが、彼女の手記を読むと、それはあまりに恥ずかしいことだった。
だいいち、松田優作自身が、そうした現実的な仕事に対する関心から遠いところにいた。病床に横たわりながら、彼は次第に現実の俗な部分から離れていったようだ。そこでは、『ブラック・レイン』の撮影がどうであったかということなど、問題にもならなかったに違いない。
その時彼は、たった一人の病床で、彼が背負ってきた、あるいは、彼自身を生み出した多くの人々との無言の対話を行っていたのだろう。
松田優作は、十一月六日、午後六時四十五分、息を引き取った。
膀胱癌による心臓死であり、そのこと自体彼が病との壮絶な戦いを行っていたことを示していた。
翌朝、十一月七日の新聞でその死を知って急遽駆けつけたが、夫人が「噓を言っていてごめん」と言った時には、言葉が出なかった。