【1986年4月】
構成◉田島尚子
凍るような厳寒のなかでロケが続く。ドカジャンに濃紺の毛糸の手袋をはめた、大きな松田優作。頭がひとつ飛び出てるぶんだけ、視点が高く「人間」を見つめる目が光る。だれよりも熱く、映画への思いを抱きつづけてきた松田優作が走る——。
この『ア・ホーマンス』で、松田優作がアクション映画に帰ってきたとか、前作の『それから』の反動じゃないかとか、言われてるけど、そういうわけじゃなくて、なんつうんだろう、ぼくはもともとアクション映画が好きだから。もう単純に、荒唐無稽な楽しめるようなやつをやりたかったんだよね。『それから』のような文芸ものの次に、こういうのをやるからといっても、おれはどこも変わってないっつうの。つまり、人間って、風が吹かないのにむりやりやってもしようがないでしょ。だけど、風が吹けば、風の方向に行けるわけ。おれはその風が吹いたときに一気にやる、それだけのことなんだよね。
でもこんどは、当初は小池監督でやってたんだけど、ある事情があってね、ハプニング的におれが監督も引き受けちゃったからねえ。半分撮り終わった段階なのに『監督』って呼ばれても、反応するまで一瞬、間があってね。しばらくして、ようやく「あ、なんだ、おれのことか」と気づくほどで(笑)。
監督って、ほんとに大変だよねえ。とにかく、口では表せないよ、いまのこの感じは。カメラのぞいてアングル決めて、遠くにいる役者に演技つけて、走ってカメラのところにもどってテストして、また役者のところまで走っていって演技をつけ直して、またカメラのぞいて。しかもこんどは役者として自分も演技するんだから。大変だよねえ、正直いって。渾然となってるから、監督と役者とどっちに比重があるか、わかんないねえ。頭は切り替わるんだけど、おれはやっぱり、欲望が役者でしょ。だから自分の演技でも、役者としての考えと、監督としての考えとがあって、どっちを選ぶか悩んじゃってね。ほとんと暴力的に決めてるよ(笑)。
ただ、監督っていうのも、初めは「できるかな……」と思ったけど、いざやり始めてみたら、染みついてたものが少しずつ出てきた。そういう意味では、いままでつき合った監督さんたちから受けた影響、それが非常にぼくにとっては幸せだったね。それと、いままで役者としてやってきたなかで、自分なりの感じ方やものの見方を身につけてきたわけだけど、監督になってみて、ほぼ自分がやってきたことはまちがっていなかったということを確認できたと思う。こんなこと言ってて失敗したら、おれは松田不作になってしまうけどね(笑)。
『ア・ホーマンス』は、一応、狩撫麻礼原作なんだけど、テーマのニュアンスだけっていう感じなんだよね。ちょうど『パリ、テキサス』みたいのをやりたいなと思ったときに「漫画アクション」で見てね。『パリ、テキサス』っていうのは、記憶を失って放浪の旅をしていた男が、もう一度“人間”をとりもどしに帰る話なんだけど、だれのなかにも、記憶をなくしてしまいたいという憧れがあると思う。だって、人生をやり直したいと思ってても、記憶が白くならないかぎり、できないから。どうしても、いままでの常識や道徳観念に引きずられてしまうからね。
だから、この映画の主人公“風”という男を、ただの記憶喪失者ではなく、レプリカントにしたかった。脳だけ人間で肉体は機械というロボットにね。
機械だから、皮膚感覚とかなくて、たとえば、銭湯で一時間もお湯につかっていても“熱い”と感じることができない。汗ひとつ流れない。人間なら、ちゃんと“熱い”という皮膚感覚があるのに。でも、その感覚はレプリカントである“風”もかつては持っていただろう、それを確かめる旅というか、人間回復の旅をしているという、ストーリーなんだけどね。
だからちょっと、近未来っぽい。いまって、機械がどんどん人間の仕事をやってくれて、人間は機械に動かされ、管理されているような時代でしょ。いま、コンピュータと人のかかわり方が3パーセントだとしたら、一〇年後には50パーセントになって、ロボットだらけになってしまう。そういうなかでの人間回復というか、機械の力ではなく、自分の力であらためて感じたいという、そういうニュアンスなんだよね。
人間回復に向かっていく“風”に、いちばん人間の熱い血のたぎりを感じさせるのが、ARB(アレキサンダー・ラグタイム・バンド)の石橋凌が演じる“山崎”というヤクザだけど、石橋っていいんだよねえ、これが!四年前からのつき合いで、初めて会ったとき、ひらめいたんだよね。おれって、いつも人とはひらめきで出会ってるから。やっぱり理屈じゃないもんねえ。そのときから、絶対いっしょにやろうと思ってたからね。もしかしたら、だれかが先に石橋を使うかもしれないと思ったけど、この国の映画のプロデューサーたちってなまけものだし、耳も悪いからロックコンサートなんて行かねえのね、あんまり(笑)。ほんとに、あいつを四年間もほうっておくなんて、ねえ。それがおれにとっては幸せだったけどね。あいつ、スターになるよ、絶対。
だから石橋のことにしても、めんどうみがいいとかいうより、やっぱりおれは人間が好きなんじゃないですか?‘
映画にしても、人間から始まるんだよ。たとえばアクション映画だからって「アチョーッ!!」とかやってればいいんじゃなくて、ストーリーのなかに人間がちゃんと描かれていることのほうが大切だということなの。最初にバンバンバーンと殴るシーンゃればいいみたいなのは、人間があとまわしになってるから、すごくもカッコよくもないわけ。もし、その男がヤクザだったら、ひとりの人間として生きてるむこうにアクションがあるという、そういうもんだと思うよ。日常のなかで、ご飯を食ベたり、ちゃんと生活してなきゃダメなんだよ。だから、アクション映画は体でやるって考えられているけど、アクションだって体より先に、ここだよね、ここ、頭だよね。
さっき人間回復っていったけど“風”が“ルージュ”という女とセックスするシーンもあってね。そこでルージュは「こんな気持ちのいいセックスしたの初めて」というんだけど“風”にしてみれば、セックスの快感がどういうものかをつかむためで、気持ちがいいとかじゃないわけ。
そりゃ、おれなら「セックス?なんたって最高ですよ」っていうけど(笑)。ただ、女はどう感じるかなんて、知りませんよ。女にならなきゃ、わかんないでしょ。逆に聞きたいですよ、ほんとに。「気持ちのいいセックスってのは?」って(笑)。しばらくセックスシーンのない映画が続いたけど、これからはどんどんやりますよ。森田(芳光)監督なんかとも「大ポルノをやろう」とか話してるくらいだから。
でもね、映画をつくるということは、人が気がつかないことをやるわけで、陰に隠れてやることだから、どこか犯罪めいてるんですよ、ほんとに。だから、皆さんの前で「こんな映画やってるんです」と、堂々と言えることじゃないんですよ。それが週刊誌に載ると、家を建てて、お金がいっぱいあるとか出るわけでしょ。関係ないつうの、おれには!
世間は「松田優作は着々と……」なんていうけど、着々なんていうのは、そんなもの、目的じゃないもの。家を建てたとかこどもが生まれたとか、おれのなかでは、そういうものは着々でもないしねえ。家とか、家庭とか、着々とか、ないわけでねえ。だって、七〇年しかないんだから、人生って。
ただ、ゼロとの落差はつきやすくなったかもしれないね。でも、危険度は相変わらずですよ。むしろ、增してんじゃないかな。だけど、ま、いつゼロになってもいい覚悟はしてるから。転げ落ちるのはぜんぜん怖くないよ。だって、物質的に欲しいもの、ないんだから。
みんな、いまのおれに「いちばんいいとき」っていうけど、いちばんいいときって、逆にいちばん苦しいときでしょ。苦しいもん、いちばん!
この苦しみが、次にいったとき、さらに二倍になるかもしれないけど、見えないものをつくっていく喜びがあるから、どんなに苦しくてもやり続けられるんだよね。
だから、三五、六歳で目的なんか決められないですよ、やっぱり。でもね、苦しくても、いま、おれが感じるものから逃げないで、元気に勇気を持って、人に合わせないでやっていきたいなっていうのがあるからね。その結果、四〇歳、五〇歲になったときに、また同じことを感じるかもしれないけど、そのときに恥ずかしくないおれでいたいからね。
だけど、監督はもうかんベんしてください(笑)。おれはやっぱり、役者一本でいいですよ。
JUNON○1986年4月号