一九八八年八月の下旬。松田優作の自宅に電話を入れた。
だが、彼は撮影を終えて下関の兄弟の家に寄っているということで留守だった。
『華の乱』の撮影は当初、八月十二日クランクアップの予定だったが、池上季実子が首を捻挫するという事故のため二十日まで伸び、深作監督はそのまま編集作業に入っていた。
また日をおいて電話をすると運よく本人が出た。
「テレビのスペシャルが一本入っていて、それが二週間くらいで終わるから、その時でも電話をくれ」
それは、テレビ朝日の、久世光彦監督『桜子は微笑う』(脚本・寺内小春)で、松坂慶子との共演だった。
九月十七日。この日、赤坂のサントリー・ホールにおいて、大正時代の着物のファッションショー仕立て、しかも観客は正装を義務づけられての、『華の乱』完成披露試写会が行われた。主演の吉永小百合をはじめ女性陣はほとんど出席し、華やいだ雰囲気を盛り上げていた。
しかし、コンサート・ホールの会場に映画用に無理にスクリーンを張ったため、久し振りに会ったキャメラマンの木村大作は画像のチェックに大分苦労していた。音響にしても、もともとコンサート会場として建てられたものであるから、残響が気になる上映だった。宣伝部は松田優作ヘも出席を求めたというが来るはずもなかった。
画面での松田優作は、たとえば与謝野晶子を見送る時の表情など動きがほとんどないにもかかわらず、強烈な印象を残す演技で、初めて会った時に彼が「次には、本格的に深作欣二監督と仕事をしたい」と言っていたことを思い出した。
菅原文太を飛躍させた深作監督が、またひとりの可能性を秘めた俳優と幸福な出会いをしたというのが率直な感想であり、見終えると、その場ですぐ松田優作に電話した。
電話口の彼は、こちらの說明に相槌を打ちながら満足そうだった。だが、彼にとってはもうひとつ大きな事件があったのだ。しばらく、『華の乱』の話をしてから、彼はおもむろに話し出した。
「前に言っていたかもしれないが、『ブラック・レイン』に出演することが、正式に決まったぜ」
「吉田喜重、深作欣二ときて、今度がリドリー・スコットなんていうのは、本当にすごいですね」
「今のテレビの撮影が二、三日で終わるから、その時に会おう」
『プラック・レイン』の出演が正式に決まったのは、正確には二週間ほと前の九月五日のことであった。この作品ヘの松田優作の関わりを、時間的に遡ることにはなるが記してみよう。
松田優作が『ブラック・レイン』に直接関わったのは『華の乱』の製作発表直後であり、彼はオーディションの申し入れを受け、六月二十二日、帝国ホテルでキャスティング・ディレクターのダイアン・クリッテンデンと会っている。
マイケル・ダグラス主演、リドリー・スコット監督というこの作品に、彼は内心、待っていたものがついに来たと賭けていたものがあった。
「リドリー・スコットが日本を舞台にした映画を撮り、それに日本人を求めている。しかもプロデューサーは、スタンリー・ジャッフェとシェリー・ランシングだろう。俺は自分の持っているあらゆるチャンネルを駆使してどうなっているかという情報を調ベたね。もう、これからの俳優は、仕事がきたからということで受け身のままでやることはだめだと思う。ショーケン(萩原健一)もリドリー・スコットが大阪に来ていると聞いた時は、ホテルに朝から晚までずっと張っていて、それでやっとリドリー・スコットをつかまえたっていうじゃないか。俳優も、そのくらいやるもんなんだ」
松田優作はオーディションを受ける以前から、日本だけのスタンスを越えたものを求めていた。
だが、日本で「世界に通用する作品を作り、俳優になる」と言ったところで戯言にしかすぎない。彼も内心、虎視耽々と狙ってはいたものの、実際にはそうした機会は訪れないだろうということで絶望感はあっただろう。
その意味でマイケル・チミノ監督『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』におけるジョン・ローンの出現は、彼にとってショックだった。
「『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』でジョン・ローンがやりましたよね、東洋人で。今まで東洋人でね、本当にチャンバラとかサムライとか、カンフー以外で、ほとんど向こうのニュアンスで芝居をやった人はいないと思うんです、東洋人で。そのことに関しても、この国の俳優たちは向こうの映画を見るようにして見るでしょう。なんで悔しいとか、俺だったらこうするとか、そういう意識を持てないかな」(湯布院映画祭通信 86年 ア・ホーマンス号)
松田優作が世界、つまりアメリカを具体的に射程に入れたのは、一九八四年四月、二ューヨークでリンカーン・センター映画部と近代美術館映画部が主催する「ニュー・ディレクターズ/ニュー・フィルムズ フェスティバル」のオープニングで森田芳光監督『家族ゲーム』が上映されたことがきっかけだった。この作品はアメリカでの評判もよく、九月からニューヨーク、ロサンゼルス等の大都市で公開されることになった。
折から、ニューヨークの高級百貨店プルーミングデールがジャパン・フェスティバルを催すことになり、その一環としてジャパン・ソサエティ(米日協会)が日本映画の若手監督特集を組んだのである。『家族ゲーム』はその目玉作品であり、チケットはすべてソルドアウトとなった。
これに合わせ森田芳光監督と松田優作がニューヨークに飛んだのだが、そこで待ち受けていたのは連日の取材攻勢だった。
これは松田優作にとっては予想もしなかった嬉しい誤算だった。
以前、佐藤純彌監督『人間の証明』でニューヨークを訪れた時、そのあまりに機能的で合理的なベルトコンベアのような撮影システムにいい思いをしていなかったし、しょせんアメリカ映画は自分とは関係ないものと思っていた。ところが、『家族ゲーム』は現代日本を描いているにもかかわらず、すんなりと受け入れられた。
「吉本(松田優作演じる家庭教師)に限らず、あそこに出てくるキャラクターの人たちは、最初からオレたちがいっていたように少し浮いている。だから、ディテールとしては団地に住む日本人の普通の家庭生活になっているけと、映画全体が少し曲がっているところを、そのままストレートに感じられたということだろうね。シュールだっていう部分、そのまま感じてるわけ。何の抵抗もなく。日本人的なセンチメンタルなものはほとんど排除して、さらに少し曲げてあるものを、そのままちゃんと見ているということね」(キネマ旬報 84年12月上旬号)
森田芳光との対談で彼は、こう言っているが、それでもどこか醒めてみていた部分もあった。
「こうやって喋っていると、はしゃいでいると思われるけど、オレたちは絶対にはしゃいでないから。むしろ、当然だなという気分と、そしてやっぱり前ヘ進んできたというかさ」(同前)
彼は、『家族ゲーム』をアメリカに持っていった仕掛け人であるKUZUIエンタープライズの葛井克亮にも、
「アメリカ人はどうでもいいと思っていたけど、意外に近い」
と言い、ある感触をつかめたようだった。
しかし『家族ゲーム』がアメリカで好評だったとはいえ、それはまだビジネスにはなっていなかった。そのことは松田優作も理解し、アメリカで仕事をしていた葛井とも、会うたびにアメリカ映画ビジネスについて話をしていた。
パラマウントの大作、『ブラック・レイン』への出演は、松田優作にとってまさにアメリカでのビジネスそのものであった。だから、オーディション自体は不本意だったものの、受けたのである。
一九八八年九月五日。
この日、最終候補に残された三人の俳優がマイケル・ダグラスと芝居をした上で、佐藤役が誰になるのか最終的判断が下されることになっていた。
松田優作がマイケル・ダグラスと一緒に芝居をした時、日本側キャスティング・ディレクター室岡信明は、彼が全然気負わないのに驚いた。しかも偶然にコンディションがよく、それでうまくいったというものではなかった。
彼が『陽炎座』での苦しい体験以降、自らに問いつづけてたきたこと、俳優であるということ、俳優でありつづけるためには自分はどうあるべきかということの答えがここで示されたのである。それは、自分がどんな状況に置かれてもごく“普通”であり“自然”であるということ。それこそが俳優としての責務であるということだった。
彼はオーディションの時、マイケル・ダグラスと手錠で結ばれたシーンを演じたが、マイケルに「ネクタイを貸してくれないか」と言った。けげんな顔でマイケルが理由を聞くと、松田優作は答えた。
「手錠の代わりにしたい。手錠をかけられているシーンなんだから、実際にあなたと結んでやってみたい」
あとでマイケル・ダグラスが「何人か、オーディションをやったけど、そんなことを言った俳優はお前ひとりだけだ」と言っていたが、松田優作にしてみればごく当たり前のことだった。
オーディションを終えた松田優作は、美由紀夫人に言った。
「とにかく最高だった。マイケル・ダグラスは本当に素晴らしい男だ。芝居を続けているうちに熱が入ってきて、彼は上着を脱ぎ、それで芝居を続けたんだ。俺も精一杯応えたけれども、マイケル・ダグラスとこれだけの芝居をアドリブを含めてやったのだから、オーディションに落ちても俺は十分だと思う」
松田優作はしばらく前から丸山昇一に『チャイナ・タウン』という脚本を書かせていたが、ようやく準備稿が上がったということで、オーディションを終えたこの九月五日、『桜子は微笑う』のリハーサルが行われる赤坂のスタジオに、丸山を呼んだ。
『チャイナ・タウン』は、通称“ブン”という探偵が調査を依頼され、事件を解決していく一種のハードボイルドものだった。それをテレビの連続ドラマとしてもちこもうとして断られたため、映画化するか、テレビで二時間のドラマ・スペシャルにしようということで丸山が書き直したものである。
松田優作が演じる主人公のブンは、「漂白者(エトランゼ)」と呼ばれる、丸山の言い方によれば、「地面から五センチくらい浮いて彷徨う」人物だった。そしてディテールには、『ア・ホーマンス』でも見られたが、インド哲学に対する傾斜が、主人公の人物の性格づけにも、曼陀羅模様のある部屋などといった装置にも現れていた。
この作品は松田優作の企画であり、彼のために書かれてあるから、『プラック・レイン』に参加すれば企画自体が不可能になる。ということは、『プラック・レイン』に選ばれなかった時に初めて、この作品の具体化が図られるのだった。
しかし、リハーサルの最中に黒澤満から佐藤役に松田優作が正式に決まった旨の電話が入った。そのため『チャイナ・タウン』はついに陽の目を見ることがなかった。
その夜、丸山をつれた松田優作は、六本木にある友人大木雄高経営の「ロマーニッシェス・カフェ」に赴いた。石橋凌は美由紀夫人からの連絡を受けて、とるものもとりあえず、とにかく祝福の気持ちを込めて赤い派手なスーツを来て駆けつけ、祝杯を上げた。そこでしばらく飲んだあと、丸山昇一が言った。
「優作さん、今夜はひとりで喜びを嚙みしめたいでしょうが、優作さんの家に行って、美由紀さんも入れて、ワーワー騒ぎましょう」
梅林茂は松田家で合流し、皆、普段はなかなか松田優作に言えないことをこの時とばかりに言い、また彼も笑顔で聞いた。その酒宴は朝まで続き、忘れられない幸福な時間になった。
こうした経緯の中で、私はたんなる取材者としてではなく、もう少し深く、今までとは違う角度で俳優松田優作と関わることが出来るのではないかと考え、彼となんとか会おうとした。
だが、なかなか会うことはできなかった。
彼が西窪病院に一週間ほど入院していたからだった。
しかし退院してから一度、夜十一時くらいに彼が下北沢の「レディ・ジェーン」で飲んでいるのを電話でつかまえられたのだが、
「じゃ、これから来るか?」
と言われ、時間が遅いことと、自宅の青梅から掛けていることを理由に断った。
「遅くても、ここまでは来れるだろう」
彼はけげんそうな声をした。
次に『桜子は微笑う』の打ち上げで新宿で飲むという機会をとらえ、そのあとで会う約束を決めた時は、待ち合わせ場所の居酒屋に一時間待っていても彼は電話してこなかった。
もうこれっきりだと思って、次の日に電話をした。
「いや、書いたメモを忘れて、連絡の取りようがなかったんだ」
そうしたことが何度か続いた。
最初、これはスターのわがままとも思えた。
だが彼の場合、それとはすこし違うところから来ていたようだった。
後に気付いたことなのだが、松田優作にとって人と会うことは、それこそ一期一会という気持ちでなければならなかった。電話一本にしても安易なものではなかった。
彼は親戚が家に訪ねてきても、時に自分の部屋に閉じこもったまま会わないことさえあった。人との出会いは挨拶だけすればいいというものではなく、たんなる気難しさからきているものではなかった。
それほど人との出会いは、彼にとっては大切なものだった。それを最初こちらが理解していなかっただけだった。
彼との出会いはそれが電話であれ、おおげさにいえば勝負というところがあった。だからその時以降、彼に電話をする時には必ずあとの時間をすベて空けておいた。
その一瞬、電話を受けたときの状態、そして誰が電話をしてきたかということで、松田優作はただちに反応を示す。そこに明日ということはなかった。
しかし、電話では会おうとは言いながら何度もだめになり、しかも『プラック・レイン』のクランク・インが近づき、松田優作はリドリー・スコットと会ったりして余裕がなくなりかけてきた。といって諦めたくはなかったので、一計を案じた。
それは映画ヘの誘いで、その時ちょうど正月興行にむけて、彼の好きなロパート・デ・二ー口主演の『ミッドナイト・ラン』の試写がはじまっていたころだった。
彼が評論家たちと一緒に見るのは嫌なこととは知っていたから、配給会社UIPの宣伝部・高橋美子に話したところ、彼だけのための試写が出来るということで了解がとれ、松田優作に電話した。
彼に異存はなかった。
ただしUIPは、もし彼が気に入れば新聞用のコメントがほしいという条件付であった。
十月十五日、『華の乱』での出会いからふた月ばかりで、ようやく彼と再会することができた。
十月十五日という日は、いま思えば微妙な日だった。というのは、松田優作は十二日に東宝で『プラック・レイン』の衣装合わせを行い、十四日には大阪でリドリー・スコットと会っていた。大阪から戻ったばかりのところで、『ミッドナイト・ラン』の試写を見ることになったのだった。
もしこの機会を逃せばその先はなかったと思う。彼は役に集中するタイプの俳優であるから、演ずる上でのポイントをつかむまでは余計な雑念を入れたくなかっただろうし、手探りの状態の時には彼自身ひとと会うことを望まなかったからだ。
試写は四時からという約束で、その十五分前に帝国ホテルのロビーで待ち合わせをした。五分前に彼は現れた。
眼鏡を掛け、黒づくめの衣装に決めた松田優作はノソッと入ってきた。
声をかけると彼は、最初に会った時と同じようにニコッと笑って、「なかなか帝国本テルで、そういう頭をした奴はいなかったけどな」と、こちらのボサボサ頭を面白がった。
松田優作は格好よかった。大男だという以上に、雰囲気があたりの空気を変えていた。服の着こなしにしても、さすがスターと唸るしかなかった。ただ、美由紀夫人に言わせると、本人は服装には全くの無頓着で、放っておいたらなにを着るか分からないのだが、彼の場合、放っておいても様になっていた。
その時すぐ話題になったのは、「キネマ旬報」に、『華の乱』の有島の衣装が浮いていたこと、松田優作が自分專用のスタイリストを使ったことを非難めいた口調で書いた林真理子を彼が呼び出したことについてだった。
「優作さん、そういえば、林真理子を呼び出したんですって」
彼は呆れたようにこちらを見た。
「まいったね。なんでお前がそんなことを知っているんだ」
「僕のところに担当編集者からあわてて電話が掛かってきましたからね」
「だって、そうだろう。あの女は本当に映画のことを、現場を知っていてものを言っているのか。俺の衣装に関しては北村道子さんが、好意で全部やってくれているんだ。もちろんそれは、作さんやキャメラマンとも何度も打ち合わせをし、さらにテストして納得してもらった上でやってもらっているんだ。映画の衣装なんて俳優の独断で決められるものでもないのに、それを承知で書いているのか、こいつは。それで事務所に電話して、『そっちに行くから』と言ったんだが、外で会いたいというので、六本木に呼び出したんだ」
「そしたら?」
「下を向いて一言も喋らないんだな」
「優作さんが怖かったんじゃないですか」
「いや、俺は女には優しいよ。まあ、結局、いろいろと話したんだけどな。林真理子に関しては、事情を知らなかったということで許せるよ。だけど許せないのは、彼女に同調するような形で発言した映画監督だ。その男だけは会って半殺しにしてやりたいね。そうだろう。日本の映画だってこれからはどんどんそうした方向へ行かないといけないのに、映画人の自殺行為じゃないか。だからなんとしてもそいつの名前だけは聞き出そうとしたんだ。だけど黙ったまま」
「女は一度こうと決めたら、絶対に喋りませんよ」
「そうなんだ。だから諦めたよ」
北村道子は、松田優作の衣装に関しては、たとえ映画の中の予算枠が決まっていても、よりよいものを求めるために犠牲を払ってでも提供していた。「松田優作の衣装」と、ロールタイトルに彼女の名が載っているのは、彼のせめてもの思いやりだった。
ある意味で現代の日本映画に残っている良質な部分というのは、映画に対する思い入れや愛情の強いこうした人々の無償ともいうべき犠牲の上に築かれているのだった。
だから映画製作の現場をなにも知らないで発言する作家や映画評論家に対して、松田優作は「彼らは映画を知らなさすぎる」と、露骨に不満を言い続けていた。
彼と会うたび、話といえば映画が主であるから、作品や監督に対する評価で違いが現われることも多かった。
彼は自分の好みあるいは評価に関してはあいまいな態度は一切見せず、それこそ露骨に好き嫌いをはっきりさせる男だった。話していて、ある作品や監督について二人とも認めていなかった時など、それこそ本当に気持ちのよいほど貶し、罵倒し合ったものだった。
けれども彼の思い入れが強い監督、たとえば森田芳光については、ちょっと違うニュアンスを見せた。感覚的に新鮮な森田監督との出会いで納得できる作品ができ、「彼と出会って、なんでも出来るんじゃないかって思えるようになった」というだけに、たとえ内心それほど買っていなくても、『そろばんづく』のような作品を撮ることはよくないという旨のことを話すと、彼は反論した。それは映画という仕事をする上での“共犯関係”を持った人物ならではのものであった。
「お前にしても、どうして森田をもっと長いタームで見てやれないんだ」
「しかし、彼の力が分かるだけにこのままでは歯痒い。そんなことをしていいのかという思いがいつも付きまとうんですよ。彼は先頭に立たなければならない男だし、その力はあるのに」
「いやそれは、森田が自分がそういう立場に置かれてるのが嫌なんだ。だけど今の自分が日本映画の中でどのようなところに置かれているかはよく知っている。そこで、彼はやり過ぎてはいけない。といって、そのままでは問題にもならない。そうしたギリギリのところで彼は映画を作っているんだ。そのヘんは、今の作品ばかりでせっかちに評価するのではなく、もっと長い目で見てやれよ」
森田監督については以前こう言っている。
「男と女を撮るというのはたいヘん難しいんですね。ほんとうにひとつの会話を交わすまでのあいだに、ストロークがいりますからね。それをちゃんとみつめる人が作家にいない。どうしても早くしちゃうんですね。映画でいえばお尻が痛くならない程度の時間——1時間40分ですか——それでやろうと考えるとどうしても先を急いじゃうんじゃないですか。森田監督と一緒にやるとほんとうにいいストロークで人間をやっていけると思いますよ、映画の中で」(MORE 85年11月号)
だからこそ彼は怒っていた。日本という土壤に対して、才能を認めようとしない人々に。とくに『家族ゲーム』『それから』と連続してベスト・ワンに選ばれたにもかかわらず、鈍感な反応しか示さない人々に。
「いいか。なのに、このふたりに仕事がこない。ナンバーワンの映画を作ったんだよ。わかる?ナンバーワン映画を作った監督と映画俳優に、なんで会社が金出して、映画作ってくれってこねえんだよ、一本も」(スコラ 88年6月23日号)
UIPの試写室に行くと、宣伝担当の高橋美子と映写技師が待ち構えており、松田優作のために『ミッドナイト・ラン』(マーチン・ブレスト監督)が上映された。
主人公ロバート・デ・ニーロは、シカゴ警察を退職した元刑事で、現在はバウンティ・ハンター、つまり賞金稼ぎをやっている。保釈金立替屋に頼まれた彼は、ギャング組織の金を横領した経理士チャールズ・グローディンを捕らえ、ニューョークからロサンゼルスに連れてくるのだが、その中で二人の間に奇妙な友情が芽生えるというものである。
映画が終わると、近くのステーキ屋で食事をした。
彼は満足そうだった。
「皆、きっと『デ・ニーロは、久し振りに、自分の地を出し、楽に演じている』なんて言うかもしれない。だけど、とんでもないぜ。彼のしぐさ、最初に警察から依頼されて犯人をつかまえるためドアをぶち破るシーン、あるいはラストの大金をせしめてから帰路につく時のシーンを見たろう。役の貧しさからか、地面をふと見たり、そうしたしぐさが自然に出ている。それは、デ・ニーロが本当にミリ単位の、いやその十分の一、百分の一ミリのところまでじっと観察し、洞察しているから出来ることなんだ。しかしアメリカは本当に俳優の層が厚い。相手役のチャールズ・グローディンだって、日本じゃ知られでいないけど、あれだけの芝居をするんだから」
松田優作はロバート・デ・ニーロに対しては特別な思いを持っていたし、つねづね公言もしていた。
「デ・ニーロが役のために、体重を何キロも増ゃしたり減らした話は有名だろ。しかしあれ、単に体重の問題じゃなくて、例えばヤツの細胞の中を電子顕微鏡なんかで覗きこんでみると、分子にくっついている微粒子が踊ってんじゃないかみたいな、何かそんな感じがするんだよ、今。ことによると、デ・ニーロは体内に自分でつくれる覚醒剤でも持ってんじゃねェか?何ていうか、役者として誰も行かなかったところに、デ・ニーロは触ったような気がするんだ。もうとても、オレなんかとは比較になるようなもんじゃねエよ」(PENTНOUSE 88年10月号)
こうしたことを言っていたのは、『ブラック・レイン』に入る前だった。『ブラック・レイン』を終えてからは、アメリカのメジャー映画での仕事をやりきったということで、ロバート・デ・ニーロに対してもそれまでと若干二ュアンスは違ってくる。
しかし、『ミッドナイト・ラン』に関してはそれとは別に、彼は個人的に感慨を持っていた。
「途中、デ・ニーロが別れた妻の家を訪ね、金がなくなったというので屈辱的に金を乞うだろう。その時、ハイスクールに行っていた娘が、自分のなけなしの貯金百五十ドルを渡す。あれにはまいったぜ。あの娘は、いま別れている俺の娘と全く同じ年なんだ。もう、見てたら、泣けて泣けて仕方がなかった。娘とは今でも年に一度、娘の誕生日の時だけ会うんだけどな」
プライベートなことを話してくれるというのは意外だった。しかし、そうしたことを隠しだてする男ではなかった。
松田優作は、考えていた以上に切実だったし、無防備だった。
インタビューという仕事を通して初めて話した時には、緊張していたこともあり気がつかなかったのだが、回を重ねて会うたびに感じたのは、彼がとんな話題に対してもいつも真剣で、とくに自らの天職である俳優という仕事に対して極端なまでにストイックなことだった。
しかも、その言葉の背後には彼の必死の叫びが込められていた。
普通、俳優に対するインタビューというのは相手が構える部分が多く、距離感があるものになる。その距離感をいかに縮め、あるいは相手が心の底で思っていることを引き出すかが聞き手の職業上の術だとしたら、松田優作に対してはそんな術を使う必要は全くなかった。
彼は人と会うことには慎重だったが、会えば、どんな人間に対しても自分を裸にして向きあった。たとえインタビューにしても、対話としてこちらに向かってきたのである。
それは、俳優だろうが、監督だろうが、物を書く人間だろうが表現者としては同等であると認めていたからであり、だからこそ対話という行為を通して彼ほどそうした繋がりを求めた男はいなかった。
だが、自分は裸でぶつかろうとしているのに対し、肝心の相手が自分の立場という殼を着込んでしまうことで彼は傷を負う。彼は苛立ち、時に暴力に訴えた。
しかし、相手を殴りながらも傷ついたのは、松田優作自身だった。
别れる時、彼は言った。
「月末から大阪で撮影が始まる。ホテルの電話教えるから、遊びに来いよ」