エロ小説執筆練習のための試験的短編(タイトル未定)
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幼稚舎時代から数えて、人生で九回目の文化祭。——それは、俺の十四年間の人生で最悪の一日だった。
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〈——ただ今をもちまして、今年度の文化祭は終了します。後夜祭は十八時から開催されます。在校生のみなさんは、後片付けにご協力のほど……〉
校内放送を聞きながら、俺は教室のドアを押し開けた。
廊下に出ると、ひやりとした冷気が顔を撫でた。教室の中では、レジ締め作業やら記念撮影やらのために騒がしい声が飛び交っている。廊下にも模擬店の焼きそばや甘ったるいクリームの匂いが残り、足元には紙くずや段ボールの切れ端なんかが転がっていた。
俺は紙片をよけながら廊下を歩いた。脚も腰も腕も、全身が重かった。もっとも文化祭による肉体的負担なんて、普段の部活や試合に比べれば微々たるものだ。肉体ではなく、精神が疲労困憊しているのだった。
短時間でもいいから、人のいない場所で一息つきたい——その欲求だけが、重たい脚を動かしていた。穿き慣れないスカートが太ももにまとわりついて歩きにくかった。下に穿かされたインナー——パニエというらしい——のせいで裾がふわふわ跳ね上がるし、足を上げるたびに膝のあたりでタイツがこすれるし、エナメルのストラップシューズのせいでかかとには靴擦れの傷ができている。
廊下の突き当たりを曲がって、屋上へ続く階段を上がる。夕方の光がさしこむ踊り場まで来ると、やっと人の気配がしなくなった。ようやく一息つけるかと思った、そのとき——目に入った光景に、俺はぎょっとして息をのんだ。
踊り場のすみに、古びた全身鏡が無造作に立て掛けられていた。
問題は鏡ではなく、そこに映った自分の姿だ。
「……やっぱり最悪だ……」
鏡の中に立っているのは、知らない誰かだった。——いや、知らない誰かだったらよかった。ふりふりのメイド服を着せられた自分、なんて。
黒いパフスリーブの半袖ブラウスに、同じ色のスカート。肩にも裾にも背中にもフリルを重ねまくった、真っ白なエプロンドレス。ブラウスの白襟の下には黒いサテンのリボンが結ばれて、肘から下にはシルク調の長手袋、頭には少女趣味なヘッドドレスまで着用させられていた。「いっつもエラそうな日吉にあざといメイドの仕事させられるとか最高!」などと失礼千万なことを言い出したクラスの女子に捕まったせいで、目元や口元には化粧も施されている。
まごうかたなき女の格好なのに、それを着ているのは骨ばった男の身体だ。白いタイツは脚にぴったり張りついて、膝や足首の骨のごつさを浮き出させている。タイツの中の腿が汗で蒸れて気持ち悪いとか、エプロンドレスのリボンが胸を締めつけて窮屈だとか、一生知らなくてよかった感覚まで知ってしまった。
——なんで俺が、こんな格好で一日中、愛想笑いまでさせられなきゃならなかったんだ。
「……切原のヤツ、三回は殺してやる……」
肺の底から吐き出した声が、がらんとした踊り場に静かに響いた。
鏡の中で、見慣れたはずの自分が、最悪に見慣れない格好で立ち尽くしている。その事実だけで、かろうじて残っていたはずの体力まで全部持っていかれた気分だった。
***
跡部さんが湘南に作ったテニスコートは、跡部さん本人の技によって一部が破壊されたのち、ものの数週間で修理が完了した。
あのエキシビションマッチから、およそ七か月——夏の大会を終えて少し経ったころだった。あのコートを舞台にして、今度は氷帝・立海以外の学校も交えた交流試合を行おうという話が持ち上がったのだ。
まずは会場の要領を知っている氷帝と立海の代表者で打ち合わせをしようと、ミーティングという名のファミレス食事会が開かれた。そして試合開催のために必要な決定が済み、会話がほぼ雑談に切り替わったところで、切原が唐突に言い放った一言——
「なぁ日吉、どうせならなんか賭けよーぜ!」
——ドリンクバーの飲み物が何種類も混合された謎の液体をストローでかきまぜながら、あいつは続けた。
「俺ら絶対、勝ち上がってどっかで一回は当たるだろ? 勝者が敗者になんでも命令できる権利を賭けるとか、おもしろそーじゃん」
幼稚園児みたいに笑う切原の前で、俺は呆れて言い返した。
「お前それでもスポーツマンか? 神聖な試合を賭けのネタなんかにするんじゃねえ」
「へぇ~、お前そんなこと言っていいのかよ?」
「は?」
「去年の全国大会で、跡部さんは越前との賭けに負けて坊主にしてたじゃん」
「……」
切原はテーブルに片肘をつき(行儀が悪い)、にやにやと俺を覗き込んできた。思わず目をそらすと、隣のテーブルでは鳳・樺地・玉川の三人が、絵画だか彫刻だかの本を広げてなごやかに盛り上がっていた。
俺は目線を戻し、アイスコーヒーを一口飲んでから続けた。
「跡部さんは別次元の人だ。……それにあれは売り言葉に買い言葉みたいなもので……。こうやってあらかじめ賭けをして試合に臨むのは話が違うだろう」
「んなこと言って、俺に勝つ自信がないだけじゃねーの?」
「俺はそんなわかりやすい挑発には乗らないぞ」
「挑発じゃねえよ。だって日吉、実際まだ一回も俺に勝ってねーもん」
ぐっと喉が詰まり、俺は一瞬なにも言えなくなった。切原の言葉は俺を煽ろうとするわけでもなく、ただ事実を述べただけの淡々とした響きだった。
煽られるより、ずっと屈辱的だ。
「……わかった。そこまで言うなら受けて立つ」
「っしゃ! そーこなくっちゃな!」
「もし俺が勝ったら、先週お前がゲームに課金しすぎて親から猛説教くらってたことを立海の先輩たちに報告する」
「ゔぇっ……ま、まあいいぜ。俺どーせ負けねぇし」
「……で、お前は何を賭けるんだ?」
「ん~……」
ズズズッ、と音をたてて謎のドリンクを飲んでから、切原は隣のテーブルに目をやった。
「なぁ、お前らなんか知らねー? 日吉の弱み!」
隣の三人は会話をやめ、顔を見合わせたあと、順々に口を開いた。
「……もし知ってたとしても、教えません」
「弱みって言われても……日吉は成績優秀だし、素行もいいからなぁ」
「そうだよね。切原と違って」
切原はふてくされた顔で「うるせーよ玉川」と言い捨てると、残りのジュースを勢いよくすすった。
「……んじゃ、日吉が絶対嫌がることにすっか」
「なんだよ、俺が絶対嫌がることって」
「そーだなぁ……」
短い沈黙のあと、切原は続けた。
「……たとえば、女装とか?」
——なんて安直な。
そう呆れた瞬間、ふいに隣で鳳が「あっ」と声をあげた。
「そういえば日吉のクラス、文化祭で男女逆転カフェやるって言ってたよね」
余計なことを——と内心で舌打ちした俺の前で、切原は目を光らせた。
「それマジ?」
「いや、でも俺は接客じゃなくて裏方の予定だぞ」
「じゃあ、もし俺に負けたら自分から接客に立候補しろよ。で、女装した姿で俺をもてなせ!」
「……お前、そんなことのためにわざわざ氷帝の文化祭に来る気か?」
「ったりまえだろ~。写真に収めて一生のネタにしてやる」
女装させられ、そのうえ切原相手に給仕をさせられ、そのうえ写真まで撮られる——ある意味試合で負けるより屈辱的な自分の姿が脳裏に浮かんで、背筋に悪寒が走った。隣の鳳をにらみつけたが、鳳はのんきな顔でデザートのチーズケーキをぱくついているだけだった。
「……おい鳳、馬鹿に余計なエサを与えるんじゃねえよ」
鳳はぽかんと口を開け、フォークを運ぶ手をとめた。
「あ……ごめん。でも……」
「でも?」
聞き返して、俺はコーヒーを口に含んだ。
「心配する必要ないよ。だって日吉は負けないもん」
と、鳳はユルい笑顔で答えた。
苦いはずのブラックコーヒーの味が、少し薄まったような気がした。
***
俺が宣言したとおり、切原のゲーム重課金の件は立海の先輩たちに知れわたった。誰かは「赤也らしくて逆に安心するよ」とコメントし、誰かは「そこまでしたクセに無課金の俺にランキング負けてたけどな~」と笑い、また誰かはわざわざ高等部からやってきて実の親より長尺の説教を垂れたらしい。
——しかし、それは俺が賭けに勝ったからではない。試合当日、観戦に来ていた先輩の一人に向かって、玉川が勝手に口を滑らせたのだ。「そういえばこのまえ切原が……」と。その場で切原がキレて小競り合いが始まったが、もはや俺にとってはどうでもいいことだ。
俺と切原の試合はタイブレークにもつれこみ、長時間に及んだ。試合中に雑念の入る余地などないが、もしかすると無意識下では「女装も給仕も絶対にごめんだ!」という防衛本能が俺をボールに食らいつかせていたのかもしれない。
しかし、結果は10‐8で俺の敗北。試合終了後の絶望、切原の憎たらしい笑顔、裏方ではなく接客をやると申し出たときのクラスメイトたちのどよめき、どこから話を聞きつけたのか〈中等部の文化祭に行ったら真っ先にお前のクラスに向かうぜ!〉と送ってきた先輩のメッセージ……などは、もう思い出したくもない。
クラスメイト・部員・OB・他校生と全方位からオモチャにされ続けたが、一度「受けて立つ」と言った賭けから逃げるのは信念に反する。俺は感情回路のスイッチをオフにして、粛々と運命を受け入れた。バカな文化祭実行委員どもが予算確保のために無駄に骨を折ったせいで、接客用衣装の選択肢は「セーラー服」「アイドル風」「チアリーダー」など多岐にわたっていた。俺は比較的マシと思われた「女子就活生」に手をあげたが、じゃんけんに負け続けてメイド服が回ってきた。
そして今日——文化祭当日。実行委員からは、「不愛想メイドもアリだけど、日吉は営業スマイルのほうがおもしろい」と謎の指示を受けた。俺は極力なにも考えないように、なにも感じないように心を殺して接客の仕事を行った。後輩は顔をひきつらせて笑い、OBは生温かく目を細めて笑い、わざわざ立海の先輩たちを連れてきた切原は何枚も写真を撮ったあと腹を抱えて笑った。教室全体に響きわたるほど遠慮のない笑い声に、隣にいた先輩が呆れてフォローを入れたくらいだ。
「なんか、悪いな……。赤也のヤツ、去年の文化祭の劇で女装させられたのがよっぽど嫌だったみたいでよ……誰かに同じ思いをさせたかったんだろうな」
「はぁ、そうなんですか」
「ちょっ……よけいなこと言わないでくださいよぉ!」
「さっきからお前が失礼だからだ!」
——どうでもいいから早く帰れよ。
と吐き捨てたくなった言葉を呑みこんで、俺は嵐が去るのをじっと待った。嵐は大きいのも小さいのも、ひっきりなしに入れかわり立ちかわりやってきて、一日が終わるころには俺の心はすっかり損壊・倒壊・浸水の被害に見舞われていた。
「……疲れた……」
肺から大きな息が出ていった。俺はそのまま背後の壁に寄りかかった。どこからか吹き込んだ風がスカートの裾を揺らした、その一瞬の光景がやけに目の奥に残る。
「今日は厄日だな……」
今年いちばん——いや、人生でいちばん屈辱的な一日だ。
もう一度ため息をつくと、はぁっ……という自分の呼吸音がやたら鮮明に聞こえた。屋上の手前の踊り場はしんと静まり返って、階下の喧騒も遠く、空間ごと祭りの熱狂から切り離された異世界みたいだった。この踊り場は廊下からは死角になっているため、誰かに見られることもない。それに屋上は基本的に立ち入り禁止で、入り口のドアも施錠されている。文化祭の後片付けで忙しい今、わざわざこんなところに来るヤツはいないだろう。
——と思った瞬間、階段のほうから足音が聞こえた。
反射的に身体がこわばり、息が詰まった。血の気がひいたのに、心臓は暴れるみたいに鼓動を打ち始めた。足音はゆっくりとしたペースで、一歩ずつこちらに近づいてきた。
左脇に立てかけられた鏡の中に、露骨に動揺した顔の自分が映っている。こんなところで、こんな格好で立っている姿なんて見られたら、新種の変態だと思われるんじゃないか。女装自体は文化祭のノリで許されたとしても、終了後にまでそれを着て一人きりで佇んでいる男なんて——
——パニクった脳が高速回転して、言い訳のフレーズを検索し始める。が、足音が近づくにつれて、心拍はむしろ落ち着いてきた。脳より先に、身体の非常事態モードが解除されていく。
心臓の鼓動は少しずつ和らいで、足音の穏やかなテンポと重なった。とん、とん、とん……と、重さはあるものの柔らかな足音。いやというほど聞き慣れている音だから、いまさら焦る必要もない。
「——やっぱりここにいたんだ、日吉」
その声とともに、階段の死角の向こうからジャージ姿の人影が現れた。
「……お前はなんでここにいるんだよ、鳳」
いつものハーフパンツにいつもの白T、いつもの上着。文化祭のあいだ、こいつはほとんどテニス部の模擬店に詰めていたから、いたって普段通りの格好なのだ。——俺と違って。
「日吉のこと探してたんだ。ここにいそうな気がして」
「なんでわかるんだよ、そんなこと」
「だって日吉、接客中すっごいしんどそうだったから……」
と言って、鳳はドアの脇に立った。窓からの夕日に照らされて、リノリウムの白い床に長い影が伸びる。
「お昼すぎに先輩たちと見に行ったとき、笑っちゃうくらいげっそりしてたんだもん。きっと疲れきって、ひとりになれる場所に避難してるんじゃないかなって」
「……もう『ひとりになれる場所』じゃないけどな。お前が来たせいで」
「もー、かわいくないなぁ……」
文句を言っているはずなのに、腹が立つほど上機嫌な笑顔。溶けたバターみたいなその顔のまま、鳳はこっちに歩み寄ってきた。その指が俺の胸元にのびて、リボンの端をつまむ。
「……こんなにかわいいメイドさんなのにね?」
その言葉で、急に二の腕の産毛が逆立った気がした。
頬が勝手に熱くなる。思わず目をそらすと、鏡の中の光景が目に入った。メイド服を着た自分と、それを見てうれしそうな鳳の姿。
さっき一人で鏡を見たときより、もっと最悪だ。鳳がでかすぎるせいで、俺はいつも実際より小柄に見えてしまう。こんな少女趣味な格好をさせられている今は、屈辱もひとしおだった。
「お前、わざわざ俺を侮辱しに来たのか?」
「えー、ひどい……ねぎらいに来てあげたのに」
「ねぎらい?」
「日吉、きょうはいっぱいがんばったから……。ごほうび欲しくない?」
「は?」
白い指先が黒いリボンから離れた——かと思うと、すぐにその指が俺の左頬を包んだ。
鳳の顔が目の前に迫ってくる。抵抗する間もなく、ぴたりと唇が合わさった。一拍おいて下唇に、ちゅっ、ちゅ、と吸い付かれる感触。動きは柔らかいのに、やたらと熱い。吸われたところがじんじん痺れて、そこから全身の皮膚が緊張した。尻の奥の骨までびりっと痺れると、腹の底から力が抜けて、背後の壁に体重を預けるしかなかった。壁にヘッドドレスが擦れてずれた拍子に、飾りのリボンが前髪と一緒に額に落ちてくる。
「んっ……」
唇と唇が離れる。あまったるい声と温かい吐息が、唾液で濡れた下唇にかかる。そのまま終わるのかと思ったが、鳳はふたたび唇の端に触れてきた。
最初はただ触れるだけだったのに、いつのまにか唇の隙間に舌が潜り込んでいた。身体が思うように動かず、ただ息が浅くなる。喉元でリボンが揺れ、胸が詰まったまま細い呼吸をつなぐしかなかった。
「っ……ふ……」
「んぅ……♡」
舌同士が絡む音が生々しく響いて、耳の裏から背骨にかけて熱が走る。ぬめりと熱でいっぱいの口内に、鳳の唾液が流れ込み、自分の唾液と混ざって奥に流れてくる。どろり、と喉奥に重たい唾液が落ちる感触。息ができなくて、思わず鳳の肩に指をかけていた。
「ん……日吉、反応かわいい……♡」
「……っるせぇ……」
「あっ」
鳳はふいに目をみはった。ぱちぱちと二回まばたきをしたあと、俺の口元のあたりを凝視する。
「な、なんだよ」
鳳の手が頬から口元に移動し、中指の腹で俺の唇を押し撫でていく。鳳はその指先を眼前に掲げて一瞥すると、ふっと短い笑みをもらした。
「日吉、お化粧してる?」
「……あ」
顔が熱くなり、気づくと手の甲で口元をぬぐっていた。白い手袋に、かすかにピンク色の跡がつく。
「よく見たら目元もキラキラしてる……」
そう言って、鳳は俺の前髪を持ち上げた。俺は体勢を立て直し、鳳の手を払った。
「……言っておくが、自分でやったわけじゃねえからな」
「わかってるよ~。メイクしてくれた子、色とか濃淡とか、ちゃんと日吉に似合うようにしてくれてるね」
「アホか。遊ばれてるだけだ」
「そんなことないよ。すごく綺麗になってるもん」
「男相手に綺麗もクソもないだろ……」
「日吉、こんな格好でそんなこと言っても説得力ないよ?」
鳳の膝が、メイド服のスカート越しに太腿を押してくる。蹴り返してやりたくなったが、もちろんそんなことはできない。
「……で、なんだよ。これが『ごほうび』か?」
「うん。……でも、これだけじゃないよ」
「え——」
急に鳳の顔が近づいた。次の瞬間、熱のこもった声が耳の穴に直接吹き込まれる。
「……俺、いっぱい勉強してきたんだ」
「は?」
勉強って何のことだ——と思っていたら、ふいに耳たぶを甘噛みされた。じんと痺れた皮膚を、ぬるりとした舌先が這っていく。そのまま鳳の舌が、耳の穴の入り口をゆっくり探る。じゅるっ……と生々しい水音が、唾液ごと鼓膜を直撃する。思わず肩が跳ねた。
「っ……学校で何やってんだ、バカ」
「だってこんな格好の日吉にこんなことできるの、今日だけのチャンスなんだもん……」
「そんなもん、チャンスとは言わねえだろ……。つーか、これ以上見んなよ」
こいつは切原みたいに大笑いしたりはしないが、だからって女装姿を見られて愉快なわけはない。
抵抗しようと両手をのばしかけたら、鳳の両手に捕らえられた。指と指を絡めた状態で、背後の壁に押しつけられる。鳳の体温が、腹から胸までじかに伝わる。重なった胸板のあいだで、リボンの結び目の上に鳳のネックレスの十字架が乗っていた。
「日吉、耳たぶ真っ赤になってる……」
「……誰のせいだよ」
「俺のせい? ……ほんとはうれしいくせに」
耳に絡みついて離れない、蜜のような響き。そんな声を鼓膜のそばから流し込まれると、脳の裏側がぬるく溶ける感じがした。そのまま耳を強引に舐められる。舌先で軟骨の裏をゆっくり転がされると、舌の動きに合わせて脳みそごと振動する。噛み殺そうとしたのに、短い息が漏れてしまった。
「っ、ふ……」
「息も体も震えてるね……。日吉、耳だけで気持ちよくなっちゃうんだ?」
「……っ……」
「声、がまんしてる? ちょっとなら出してもだいじょうぶだよ……」
ねっとりとした声に鼓膜を撫でられ、耳たぶを強めに噛まれた瞬間、腹の裏側から背骨をなぞるみたいに熱が駆け上がった。反射的に喉が閉じる感覚と、それでも吐き出したい息がぶつかって、殺しきれない声が勝手にこぼれてしまう。
「……っ、あ、やっ……」
なさけなく響いた自分の声が耳に届いて、頭の芯が熱くなる。死にたくなるほど恥ずかしいのに、耳の奥がじわじわ疼いて、そこから下腹に快感が流れ落ちていく。
「日吉、声かわいい……」
そう耳元で囁かれただけで、膝が震えた。とっさに壁にもたれなきゃ、崩れ落ちていただろう。
「っ……もう、だめ……やめろって!」
抵抗したくても、両手を取り押さえられ、胸同士が押し合ってるせいで身体にうまく力が入らない。耳をしゃぶられるたび、下腹が熱を持って、ついにはガクッと脚の力が抜けた。今度こそ膝から崩れ落ちて、床に座り込んでしまう。床に落ちる瞬間、メイド服の裾がふわっと広がって、汗をかいた腿の間に冷たい空気が舞い込んできた。
鳳は俺の両手をつかんだまま、その場にしゃがみこんだ。
「俺、まだ耳しか触ってないのに……そんなに気持ちよかった?」
「……そんなんじゃねえ……」
「でも立てなくなっちゃったんでしょ? ……メイドさんなのに、そんなお行儀悪い座り方しちゃだめだよ」
「誰がメイドだ……」
左手の甲に、手袋越しに唇が落ちてくる。
鳳は俺の手を放し、ヘッドドレスの位置を直すと、シワを整えるようにスカートの裾を軽く引っぱった。
「ねぇ、このまま耳だけで気持ちよくしてほしい? 俺、もっといろいろ勉強してきたんだけど……」
「な、なんだよ。『いろいろ』って……」
「ん……」
鳳はふいに目を伏せ、何かをのみこむように黙った。頬がじわりと赤くなり、唇が何度も開きかけては閉じる。
「……この前やってあげたとき、俺あんまり上手にできなかったみたいだから……」
声がだんだん小さくなる。恥ずかしがっているのか、鳳は俺の顔をまともに見ようとしなかった。
「……ネットとか、本とか見て……日吉が、気持ちよくなれる方法、ちゃんと……」
そこまで言って、鳳は俺の膝に目を落とした。
鳳の視線が、スカート越しに太ももをなぞり、股間へと上がってくる。目だけで撫でられている気がして、下腹の裏側がむずがゆくてたまらなかった。スカートの下で、腿の付け根が擦れて、タイツに押し込められた下着の中身が勝手に締まった。——これから何をされるか、身体が勝手に想像してしまっている。
「……何の勉強してるんだよ、お前……」
「勉強だけじゃないよ。ちゃんと練習もしてきたから」
「れ、練習?」
「その、ラムネの空き瓶とか使って……」
「……ラムネの……」
脳裏に夏の夜空が広がり、暗闇の中に青い花火が咲く。数か月前、八月末の夏祭りで見た景色だ。
浴衣姿で花火を見上げる鳳は、右手に水色のラムネの瓶を持っている。その瓶が持ち上がり、ぷっくりとした先端が鳳の唇に沈み込んで、飲み口からあふれた透明な液体が口元を濡らす——その光景が再生された瞬間、下着の中で性器の先端が膨らんだ。
「……日吉、どしたの?」
「……あ、いや……」
はっとして現実に戻る。夏ではなく、十一月の夕方。窓からさしこむ夕日には、夜の紫色の気配が混ざり始めていた。鳳の髪やジャージ、そして俺のタイツやエプロンドレスは、陽を吸い込んで微妙な色に染まっている。
「ね……後夜祭が始まるまで、まだ一時間以上あるよ」
鳳は上目で俺を見た。唾液で濡れた唇が見えて、俺は思わず視線をそらした。
「……だから何だよ」
「わかってるくせに……」
鳳の手のひらがエプロンドレスに乗り、生地の向こうから腿を包み込む。その熱が、布越しにじわじわと皮膚にしみてくる。手はさっきの視線の動きを再現するように、スカート越しに太ももをなぞり、股間まで上がってきた。
「どっ、どこ触ってんだ……」
「……今日の日吉、ほんとにかわいいね。この服、サイズもぴったりだし」
「やめろ、そんなとこ撫でるんじゃねえっ……」
「……それに、日吉みたいな男がこんなの着てるの反則だよ。かわいすぎて、いっぱい甘やかしたくなっちゃう」
「か……かわいいわけないだろ。俺なんかがこんなの着たって……」
「……でも日吉、かわいいって言われて反応してるよ? ここ」
「……っ」
顔が焼けて、頬骨の中まで焦げていく。鳳の手が動くたびに、ほてった皮膚の奥に刺激が沈む。
「ほら、またビクってなった。かわいい……」
鳳はうっとりと頬を上気させて呟いた。
鳳の手つきは優しい。優しすぎてかえって拷問だ。スカートの生地が擦れる音と一緒に、下腹の血がどんどん股間に降りていく。身体が勝手にもっと強い刺激を欲しがって、無意識に腰を浮かせてしまう——その瞬間を見計らっていたみたいに、鳳は手を離した。想像していた感覚が訪れなかったことで、逆に身体が跳ねた。
「……っ……」
まるでリモコンで身体の動きをコントロールされたみたいだ。鳳は満足そうににこにこ笑いながら、今度は俺の膝に手を置いた。俺は歯を食いしばり、靴の中で足指を握りしめて、次の一撃に備えた。あんな思惑通りの反応を見せてやるのは二度とごめんだ。
「日吉のタイツ姿なんて初めて見たかも……。日吉、脚きれいだから似合うね」
鳳は俺の脚をタイツ越しに撫で始めた。
「……似合わねーし、きれいでもねぇよ」
「えー、きれいだよ……俺よく見入っちゃうもん。試合中とか」
「……変態」
「だって試合中の日吉、すっごくかっこいんだよ? 脚だけじゃなくて、頭のてっぺんから爪先まで全部——」
鳳の長い手が、白いタイツの上から俺の脚をゆっくり撫でまわす。膝からふくらはぎ、足首まで。タイツの繊維が皮膚の上でこすれるたび、むずがゆい摩擦が起こり、脚の筋肉が勝手に収縮した。
「——この前の試合も夏の大会のあいだも、俺ずっと見てた。たとえば髪の毛……」
鳳は左手で脚に触れたまま、右手を俺の頭にのせた。
「……こんなふうに整えてるのも、女の子みたいでかわいいけど。試合で走り続けて、いつもさらさらの髪が汗でぐしゃって乱れて……たまに指で前髪をかき上げる仕草まで、男の子だなって感じで見とれちゃう」
ヘッドドレスごと、ふわっと髪を撫でられる。その感触と同時に、鳳の左手がスカートの中へ潜り込んできた。腿の筋肉の流れに沿って圧をかけるように、五本の指がじりじり這ってくる。指先の軌道に合わせて、骨伝いに熱が波打ち、奥へと押し寄せる。その波を堰き止めるように、下腹にぐっと力が入る。次は何をされるのかと身構えたが、鳳は左手を止め、今度は右手を髪からまぶたへと滑らせた。
「……それに、前髪をかき上げた瞬間に見える目もかっこいい。日吉、普段はすぐに目をそらすくせに、試合中は絶対そらさないよね。対戦相手とボールだけを見て、口もぎゅって結んで、『絶対に勝つ』って顔……あんな顔を正面から見られる対戦相手がうらやましいって、いつも思う」
「……お前、ベンチで何考えてたんだよ……」
「えー……ちゃんと応援もしてたよ? 副部長として」
俺のまぶたをなぞっていった鳳の指先が、夕暮れの陰の中でキラキラと微細な光を放つ。化粧品のラメが移ったんだと気づいた、その瞬間——スカートの中の親指が、腿の付け根をくすぐるようになぞった。その微かな刺激だけで、ぐっと締めていた下腹が、粟立つような震えを起こしてゆるんでしまう。堰を切ってあふれ出した熱が神経を駆けて皮膚にぶつかり、肩と膝が同時に跳ねた。
「っ、……っ」
「……」
露骨な反応だったのに、鳳は何も言わなかった。沈黙のまま、一秒、二秒、三秒……静けさが続くほどに身体が熱くなり、背中に脂汗が滲んだ。
静寂の中で、鳳の手だけが動く。右手は目元から肩へ、左手は内腿を撫で下げて膝の裏へ。左手の動きに合わせてスカートの生地が盛り上がり、フリルのついた裾が揺れた。
「……あとね、腕もかっこいいよ」
鳳はようやく口を開き、右手で俺の肩から二の腕までを這った。
「ラケット振る瞬間、前腕の筋肉がグッと盛り上がって、血管まで見えるの……ボール打ったあとの腕の震えとか、汗の光り方とか、ぜんぶ目で追っちゃう」
「……お前、さっきから俺のこと褒めちぎるみたいな……何が目的なんだよ」
「えっ?」
鳳は虚をつかれたように顔を上げ、手を止めた。膝裏で円を描いていた指先が急に停止して、皮膚の下を細い火花が走る。
「べつに目的なんてないけど……。お花見に行って桜が満開だったら、『きれいだね』って言いたくなるでしょ? それと同じだよ」
「……俺は花じゃないぞ」
「うん。俺も花より好き」
会話が噛み合っていない……と呆れる間もなく、鳳の手がまた動き始める。左手はふくらはぎの筋肉をなぞるようにして足首へ向かい、右手はエプロンドレスの向こうから腹に触れてくる。——今度は腹を褒められるんだろうか。
「お腹も……ダッシュして返球する瞬間にシャツが浮いて、偶然ちらっと見えるから余計にドキドキする。腹筋とか腰骨とか、細くてもしっかり男の体してるのがわかって……コートの外でみんなが見てるの嫌だな、って思うくらい」
「……誰もお前みたいによこしまな目では見てねえだろ」
「お、俺だって別によこしまなわけじゃないもん」
と否定しながらも、鳳は俺の腿から足首までを両手で揉むように撫で下げた。手のひらの圧が肉に沈むたびに、筋肉の繊維ごと熱に溶かされるみたいだ。
「……いつも本当にかっこいいなって、純粋な気持ちで見とれてるんだよ。でも」
「でも?」
「……コートの中ではあんなに男らしくてかっこいいのに、今はこんなにかわいい。女の子みたい……」
耳の内側まで一気に熱がのぼった。言い返そうとしたけれど、喉が詰まって空気だけが擦れた。頭の中で、「コートの中の自分」が握り潰されるイメージが見えた。
数時間前、切原に女装姿を散々に笑われた記憶がよみがえる。死ぬほど癪な話だが——「かわいい」なんて言われるよりも、あいつみたいに遠慮なく嘲笑してくれるほうがずっと優しかったのだ。
鳳の指が、タイツ越しに右の足首を持ち上げる。ストラップシューズのすきまから甲を撫でられると、皮膚の下からじわじわ熱が浮き上がり、靴の中で爪先がピクついた。
「靴もかわいいね。ピアノの発表会の日の衣装みたい」
「……はぁ?」
ピンとこない比喩だった。鳳は俺の足首を片手で固定したまま、指先で靴のストラップの金具を弾いた。カチッという音がやけに大きくて、胸の内側が縮む。
鳳はストラップを外すと、甲に残った薄い帯状の跡を指先でなぞった。タイツ越しだからよけいに線が際立って、そこだけ感覚が生っぽい。靴が押し下げられ、かかとがすぽっと抜けた瞬間、靴の中でこごっていた蒸気とエナメルの匂いがほどけて、冷たい空気がタイツ越しに足を撫でた。鳳は靴を床に置き、俺の足を自分の膝にのせて、タイツの上から甲と土踏まずを交互に押し始めた。
押される場所ごとに反射が違うのが、自分でも嫌というほどわかる。甲を押されると足指が内に、土踏まずなら外に開く。くるぶしに指が触れると、ふくらはぎ。アキレス腱なら膝。身体が勝手に順番に反応して、呼吸の拍子まで乗っ取られていく。
「……こっちの足も脱がせるね」
鳳は左足のストラップにも指を滑らせ、金具に爪をかけて小さく弾いた。パチン、と金具が外れる乾いた金属音が、狭い踊り場に跳ね返る。左足の靴は、まだかろうじて俺と外界を隔てる最後の防壁だった。
その防壁を、鳳はあっけなく引き剥がす。足が抜け、タイツ越しの皮膚が空気に触れる。足裏から背筋まで、細い筋が凍えるように駆け上がった。逃げようと膝を引く前に、鳳の手のひらが土踏まずを包み込み、逃げ道を断たれる。
「……鳳」
「ん?」
爪先に走るタイツの縫い目をなぞりながら、鳳は上目で俺を見た。
「……もしも今大火事が起こったら、俺は靴を履き直す時間のぶんだけ逃げ遅れるぞ」
「えっ……うーん……そしたら俺が背負って逃げてあげる」
「……それじゃスピードが落ちて二人とも逃げ遅れるだろ」
「そうだけど……。だいじょうぶだよ、大火事起こらないから」
「……」
鳳はタイツの縫い目に唇を寄せ、ちゅっと短く吸った。湿りが一転、冷えて残る。続いて、舌先が縫い目をなぞっていく。タイツの繊維が舌に押し込まれて沈み、すぐに引かれて戻るたび、足指の骨の付け根がピクつく。舌は親指の爪の輪郭をたどり、指のあいだの布を押し広げて、また閉じた。反射的に足指が丸まり、ふくらはぎの筋肉が縮み、膝が小さく跳ねる——身体のあちこちが、自分の意思とは関係なく動いてしまう。
「日吉の味、タイツ越しでもわかる……」
ふざけた声が、足の指先にじかに響く。それから爪先をそっと噛まれ、布越しに歯の線が食い込んだ。瞬間、ぞわっと鳥肌が立つ。その細い震えが一拍遅れて脚の内側を這い上がり、腰の奥で熱に化ける。——爪先から伝わった刺激が、骨を伝って性器まで届く。根元がゆっくり持ち上がっていくのが、いやでも分かる。思わず身じろいでしまった俺の動きに合わせて、スカートの裾が上下した。
(つづく)