【1985年12月】
クリント・イーストウッドによる「男(クールガイ)」の条件は、適切なときに言いたいことが言えて、あとで言いたいことを思いついて悶々としたりしない男、ということになるらしい。とすれば、言いたいことを言いすぎて誤解されたり、悶々とする前に手のほうが先に出たりといったイメージのある男の場合、いったいどう呼ベばいいんだろう。とにかく、過剰なものがあるわけだ。
ところが、ここへきて、松田優作のそうしたキャラクターが、どうやら日本映画にカツを入れる方向に作用しはじめた。森田芳光監督と組んだ『家族ゲーム』の成功に続き、同じコンビによる二作目『それから』でも、映画全体へののめり込み方は単なる主演男優のそれをはるかに超えている。
自信は男を輝かせる。三六歳になった彼は“無賴”を売りものにアクションスターの道を突っ走っていた時期を「生ものを売っているつもりが、干ものを売って生活していただけだった」と表現できるところに、いま立っている。
過剰なものは、影をひそめたのだろうか。
インタビューは『それから』の成り立ちから始まった。
———作品を見るまでは、なんでいま漱石の『それから』なんだろう、というのがあったわけですよ。見たあとでは納得しましたけどね。そもそも、どういうところから出てきた話なんですか。
松田 巨匠になりたかったんじゃないですか、監督(森田芳光)は(笑)。一挙に。具体的には、やつぱりニューヨークに行ってからですね、監督とふたりで。
———いつごろでしたっけ。
松田 去年の九、一〇月ですよね。それも変なきつかけでね。エージェントのKさんという人がいて、実はぼくが『人間の証明』をやったときに助監督をやってて、ひっぱたいたことがあるんですよね(笑)。その後アメリカに渡って、日本映画のいいものを入れたりしてがんばっているんだけど、去年、日本に来たときに久しぶりに会って『家族ゲーム』を見て、あれをアメリカヘ持っていきたいと。それと同時に、なにかジャパン・ソサエティというところが、日本人新人監督週間というのをやるについて、それも頼まれてきているというものだから、それをある程度ぼくがピックアップしてあげた。つまりぼくとしては、日本映画を一〇日間なら一〇日間、日替わりで上映して、そのなかのひとつだと思っていたんですよ『家族ゲーム』は。
そうしたら、そうじゃなくて『家族ゲーム』だけは、ちゃんとしたメジャーの小屋にかかって、ニューヨークタイムズのウィンセント・キャンビーという大変な批評家が最高傑作だと艳賛してくれた。だから、初日の日に小屋に行ったら、もう長蛇の列で、看板も森田芳光とゴダールが同格で、でっかいやつがかかってる。それでちょっとびっくりしちゃって、劇場のなかヘ入ったら、日本人はひとりもいなくて全部外人で、それが大笑いしてるし、ウケ方もすごいしね。終わると、むこうの若い監督とか役者とか来て、余裕だね、こっちは。「まあ、がんばれよ」とか(笑)。
———二ュースは伝わってましたよ、日本にも。
松田 ところが、日本に帰ったら、製作したやつはだれも来てないし「ああ、よかったらしいじゃないですか」ぐらいなもので、森田芳光は相変わらず小僧っ子だったりとか、おれなんか「えっ、次はどんな映画撮るの」ぐらいのことしか考えられてないという、そのギャップがね。だけど、おれたちはやれると思ったのよ、むこうで。ちよっと傲慢になったんだけどね、そのときは。
これで、日本の映画状況がどうだのこうだのとか、黒澤明の映画がどうだのこうだのとかいうような、そういうぐずぐず泣いているひまはねえなと。とにかくアメリカで通用することがわかったんだから、おれたちの方法論というのはまちがってなかったんじゃないかということが、監督とふたりでわかったということであって、そしたらふたりで『家族ゲーム』以上のものをつくっていかないとまずいなということで、元気になって帰ってきたんですよ。
———それがいきなり『それから』につながったわけですか。
松田 いや、最初は『家族ゲーム』が終わって、監督と、またやりましょう、というのが漠然とありまして、当初はこれじゃなくて、もっと一般ウケするようなエンターテインメントをやろうという話で、一年がかりで脚本をつくったりなんかしたんですけと、SFXっぽい部分もけっこうあるんで、どうしても予算的に無理があるということになった。そのときに、監督自身のなかのプログラムとして、エンターテインメントをやったら次はきちんとメロドラマをやろう、それもクラシックの古典でやろうというのがあったらしく、そのエンターテインメントものがダメになった段階で、急きょそれをくり上げてやりたいと。それはなんだと。実は『それから』というのをやりたい……。
———それはいつころのことですか。
松田 ことしの一月の終わりぐらいかな。
———男と女の話にしても、作品の背景は明治の末ですよね。明治である必要はあったんですか。
松田 やっぱり、いまの時代にない風格とか、情緒とか、雰囲気とかそういうにおいのある毛のを背景に置いておいたほうがいいんじゃないか、というのが一致した見解であって、そこから出てくる言葉なり仕草なりが、非常に古風で、古風でありながら非常にきれいだというような……。そういうまだはっきりしたものじゃないんだけと、うーん、わかるなというような……。監督は監督で確かなものがあったのかもしれないんだけど、ぼくは、においだけ、香りとかそういう部分だけで、明治である必要はあったと思うんですよ。
———原作は『三四郎』と『門』のあいだにはさまる作品ですよね。代助という主人公と、その親友の平岡、それにかつて代助に好意を持っていた平岡の妻・三千代がからむ、典型的な三角関係がテーマ。ただ、漱石の作品のなかでも決して映画向きとは言えませんよね。
松田 そうね。『それから』の前半ほとんどは、心象風景というよりも、代助のモノローグに近いようなことばっかりでしょう。自分の気持ちはこうで、こうで、こうで……。それを映像にしていくときに、切りさばいていくというか、魚なら何枚かにおろしていくというみたいな、そんなニュアンスで、それも実にうまくいったというか……。
あとは、森田芳光自身が持っている、作家としての自分の画づくりですか、レトリックというか、文体というか、そこに最大公約数でそれを表していけるかどうかというのがテーマだったと思いますけどね。意外や意外、森田芳光のなかに持っている格調というものがぴったり合ってしまってね、文体としての格調が。
———あと、優作さん自身の問題として、原作はむろんお読みになったと思うんだけとも、代助という男にシンパシー持てましたか。
松田 原作は早く放したんですよね。読んでいるうちに、バカじゃないか、こいつは、なにを甘えてんだ、おまえ、アホ、とか言いながら読んじゃったものだから……。
———そうでしょうね。てめえはなにもしないで、偉そうなご託ばかり並ベている“高等遊民”ですからね。そのヘんの違和感は、どういうふうに解決したんですか。
松田 ぼくが見つけたっていうか、ぼくが決めたことっていうのは、やはり普通の言い方なんだけど、三千代に対する愛情の純粋性というものを、それをずっと引きずっているからなにもできなかったんだということにしたんですよ、ぼくは。
———なるほど。まず仮說を立てる。
松田 だいたい、女がいて、その女が自分を好きになろうとしているのがわかっていて、それを適当にあしらいながら、一方にはその女のことがほんとうに好きな男がいて、それもわかっているというような状態の三角関係というのは、非常に気持ちがいいものですよね、男にとって。そういう三角関係として成立していた悪意としてのゲーム性みたいなものが、三千代の兄の死によって、思いがけず早く、なんらかの結論を出さなきゃいけなくなってしまった。天涯孤独になった三千代に手を差しのべれば、自分の高等遊民としての快適な生活を犠牲にしなきゃならない。ここは平岡に恩を壳りながら押しつけてしまえと。でも、いずれ三千代はおれのところにもどってくる。そういう、あくまでも自分が優位に立つ悪意みたいなところで手玉にとっている。
それに対する罪の意識があって、それが顕在化してきて、おまえは人間じゃないなって自分のことを思い始めたときに、自分の心臟とか、脳の状態というものが異常に気になり始めたというふうに解釈をして、かろうじて代助という男の皮膚のなかに入り込めたかな、という感じですね。だから、代助を金しばりにしたものは、自分でも気がつかなかった、三千代に対する愛の純粋性であると。善意に解釈すればね。
———もうひとつ、よその映画会社なりプロダクションなりが『それから』を企画したとしたら、代助役に優作さんを、という発想はまず起きなかったと思うんですよね。はつきりいってイメージじゃないわけでしょう。
松田 うん。だから原作を読んで、肌にうっすらと脂肪がのってるという、およそ精悍さみたいなものとは裏腹のイメージで、三〇いくつという年配にもかかわらずぼっちゃん顔であるということ、まずそこだけはおさえておこうと思って、決心して太ろうと。
———とりあえず何キロぐらい?
松田 5キロぐらいを目標にしたんだけど、結果としてなかに入ってるあいだに7~8キロ。太った顔とかって、いやなもんだよね。それはいいんだけど、あとは行間をいくつおさえられるか……。
———行間というのは、映像には直接現れない役づくりみたいなことですか。
松田 だから、なぜ彼女に結婚を申し込まなかったのかとか、なぜ平岡に譲ったのかとか、それから、三千代の兄が生きているときに、彼女のことをどういうふうに自分の意志を伝えようとしていたのかとか、そのほか、きょうだいに対してはとか、おやじに対してはとか、ひとりずつに対する自分の姿勢とか距離とかをずっとおさえていって、それを三日ぐらいかけて、あの台本の三倍ぐらいのページ数で全部書いてきて……。
———それはメモみたいなものですか。
松田 台本にもメモをして、ノートにもメモをして。それでやっと、あっ、わかった、というんで、帰ってきてから少しずつ体重を増やしながら、監督とふたりだけで、そのメモを全部しゃベって、いくつかの点に関しては、そこはこうじゃないかというようなことがあって、なるほどと、お互いに解釈としては了解点ができて。で、クランクイン寸前になったら、そんなものはもう関係ない。
———代助をやってて楽しかったですか。
松田 最初はひどかったけどね。ラッシュなんか見て、人はぜんぜん気がつかないような1ミリぐらいのずれみたいなものが、自分には10メートルとか、100メートルぐらいのずれになってきたような気がして、そういうのを監督に言う。監督はわかるんだけど、ほかのやつはなに言ってるのかわからない。だから話さないし。監督に話したら、監督も、確かにそうだとか言っているうちに、ふたりで落ち込んでしまうのね。それをまた次の日に引きずり上げるのがね。それもなんか、1ミリのずれとかなんとか、そういうふうに考えてない人から助けてもらわないと、大丈夫よ、とか言ってもらわないと……。そのぐらい、異常なスローニュアンスできたものだから……。
———自分のことばかりじゃなく、共演者についても、優作さん流にいえば、演技の行間だとか、1ミリのずれとかが、当然、気になるわけでしょう。
松田 こんどの場合、問題は藤谷美和子さんだったんですけど、彼女自体の間題じゃなくて三千代としてのね。自分が会ってない何年間かのあいだ乎岡と暮らして、大阪のほうに転勤して、こどもができて、すぐ死んじゃって、そういうなかで彼女独自の自立した生き方が持てたかどうか。そのあいだのことは本には書かれてないけれども、藤谷美和子さん自体がそういうことをちゃんと考えたかどうか。東京を出た直後に代助に対して抱いていた気持ちとか、平岡に抱かれて毎日のようにセックスをしながら自分が性に目覚めていったりする時間、それから、こどもができて、親子三人で暮らしていくという束の間の幸せのときに、代助という存在はどうだったんだろうとかいう、そういうことをひとつひとつ聞きたかった。
———それをやったわけですね。
松田 やりました。
———びっくりしたでしょうね、むこうは。
松田 初めは逃げてたけどね、会社ぐるみで(笑)。あんまりよろしくない話題を持っている人だからね、こつちが。
———でも、結果、いけるなというところまで持ってったわけでしょう。
松田 そうですね。だから、そこになるまで履歷書みたいなものを自分なりに探してきて、いまどうしてるのかと、どうしたいのかということをね、彼女が自覚できるまでが問題であって……。彼女にとっては、ああいうしゃベり方がまず問題だし、そういう役もやってきてないし、履歷書をつくるなんていう話よりも、まず現実にある問題のほうが大変であって、それを早く突破しなきゃいけないということで……。ほんとうなら黒澤さんぐらいの時間があればいいんだけども、リハーサル、イコール本番というような時間で現場やってるもんだから、そのなかでテストをくり返していくというのは、ほかの待ってるスタッフの人たちも大変だと思うんだよね。第一、藤谷美和子さん自身がいやにならなけれいなと思って。
———現実、いやになってましたか。
松田 いくつかあったけどね。でも、やっぱりだんだん役を……大したもんですよ、全体の吸収の仕方がね。自分の白いところがどんどん出てきて、初めに持ってた臆病とかバリアみたいなものがだんだん外れていって、自分の白いところが前に動き始めたあたりから、すごいスピードできたから。
———『家族ゲーム』から『それから』までの二年間のことをうかがいたいんですけど、なにもしないで待っていたわけじゃないんでしょう。
松田 それはもう、自分でやりたいものをいくつかあたためてきたり、脚本家(ホンヤ)を連れていっしょにロケハン行ったりとか、コンサートのために音楽家を連れて、こんど考えてるやつを、おまえがどうつくれよ、とかいうので連れていったりとか、そういうのがおもしろいから……。
———コンサートは去年はなかったんでしたっけ。
松田 去年やった。
———そうすると、経済的にはどうなってたんですか。
松田 ひどいもんだね。もう、コマーシャルさまさまですよ。
———その間、映画の話もいっぱいあったわけでしょう。
松田 そうね、一〇本ではきかないんじゃないですか。最近はほとんどこないですけども。持っていくだけむだみたいな感じはあるんだろうけど。
———一〇本以上も話があって、やりたいと思うものが一本もなかったわけですか。
松田 いや、においがするのはたくさんあってね。でも、結局、信頼できないんですよね、監督なりなんなりが。失礼な言い方ですけれども、現場でもめるのはいやだしね。だから入る前にしっかりもめておくんだけども、もめてるうちにいやになってくるんだよね、だんだん。無理だな、こいつはとか。
———伊丹(十三)さんの『お葬式』も結局、断りましたよね。あれはどういう…….。
松田 偉そうに言ってしまえば、山崎努の脇役なんてやってられねえよということなんですよ。遊びでゲストっていうのはいやなんだよね。
———結果、(江戸家)猫八さんがやったんですよね、葬儀屋さんの役。
松田 だから、猫八さんでよかったと思うし。伊丹さんは『家族ゲーム』でいっしょで、非常に勘の鈍い人で……頭はいいんだけどね。その人が監督をするっていうんで、脚本ができたときに、読んでくれませんかといわれて読んで、おもしろかったですよって話して、なんかお手伝いができればいいねっていうぐらいの話だったんですよ。だから、お手伝いができなかったというだけのことで……。
———それは正解でしたか。
松田 彼のレトリックで、文体で撮れば、結局『お葬式』みたいになっちゃうでしょう。おれはあの映画嫌いだから、はっきり言って。だって、血がかよっていないんだから。魚眼で全体を見ているような目だからね。魚眼のなかに全部入っちゃってるわけですよ。いっペんに見られちゃうから。だから、いちばん手前にいる人たちの顔は大きくてはっきり見えるけれども、うしろにいる人たちは、どんなに血がかよってても、ただ「ブツ」でしかない。
———それは、いい悪いじゃなく、好き嫌いでしか言えないような…….。
松田 そうでしょう。だから、そういうレトリックを持っている人だから、ぼくはダメなんですよ。いつも、横から一回ねじって見るような感じというのがね。全部を持ち上げて浮かしてまっすぐに見るんだったらいいんだけど、地に足がついてるにもかかわらずねじって見るという、あの人の文体が好きじゃないんですよ。だから『お葬式』という非常仁恐ろしいテーマを、あんなふうにしゃれのめしてしまうことが……しゃれのめしちゃいないんだろうけれども、それも視点なんだろうけれども、それならもっとサラッとしたほうがよかったなと思う。それをわざわざ最後におかあさんにしゃべらして泣かしたりとかね。悲しくて悲しくてたまらないから思わず笑ってしまうというんじゃなくて、初めから笑う視点で見ちゃうと、悲しいものというのは、もっとむこうに行ってしまうんだよね。
———そこでやつぱり森田監督ということになる……。
松田 うん。あの人の場合は『メイン・テーマ』なんかを見てもわかるよう、まったくオーソドックスでしょう。きちっと下町を撮っていくでしょう。そのときになにも笑いはないし、あれは歩いているだけで元気になるし、悲しいしね。ということは、やっぱり悲しいこととか痛いこととかいうのがよくわかってるから、それをねじ曲げないでちゃんと見てるから、見てる先に笑いがあったりするからね。初めに笑いがあるんじゃなくて、こじつけたパロディがあるんじゃなくて、本質の先にパロディがあったりなんかするから。それを監督の独特なレトリックといわれやすいんだけれども、ぜんぜんちがいますよ、ものは。
———初めのところで、日本映画の状況がどうのこうのと泣いてるひまなんかねえんだと、元気になってアメリカから帰ってきたという話があったわけですけど、かなり絶望してた時期があるみたいですね。お客を呼べないような映画をつくってみたいといった発言があったリして.……。
松田 客を呼べなくていいというのは、そのときの言い草であって、めんどくさくなっちやうと、映画なんかなくなってしまえとか、映画館なんか一個あればいいんだとか、テレビは别として、映画なんかやる役者は懲役二年になるとか、そういう法律があったらやるやつは少なくなるんじゃないか、それでもやるんだ、おれは、という、そういう極端な言い草になるときがあるんだよ、頭にきたときは。
だから、初めから客が入ること狙ってつくるとか、ごたごた言ってると頭が痛くなってきちゃって、客なんか入らなくていいんだ、見にこなくていいんだ、バカヤロウっみたいな気分になるときもあるんですよ。だってめんどくさいもんね。田舍のあんちゃんたちはいちいち見に出てこなくていいよとか、地方なんか映画館がなくたっていいとか、失礼なことを思うときがあるもの。どうしても見たいやつだけが見にくればいいんじゃないかという……。ほんとうに見たいなと思うような映画がないから、こどもだましのような映画ぐらいしかないもんだからさ。
危機感を持つ必要はないけど、もっと慈しんで、楽しんで大事にしていくような思いを、役者さんたちが映画に対して持ってくれればね、もっとやりやすくなるんだろうけれども。テレビと映画を分けるつもりはないんだけども、たくさんかかえてやる人もいっばいいるでしょう。血がかよわなくたって、初対面でもすぐ芝居ができたり、わからないのね、おれは。それはもう、いい悪いじゃなくて、生き方がちがうなということで納得するしかないと思うんだ。
———優作さんの場合、仕事を選ぶときの最大のポイントはなんですか。
松田 まずはやっぱり共犯関係を持てる人を探すことが先決であって、その共犯関係のなかで、どこそこの銀行を襲おうというような計画ができて、今回は三菱銀行とか、また、共犯関係を持ってる人を集めて、こんどはどこを襲ったらいいだろうか、芝郵便局を襲おうとか、じゃ芝郵便局を襲うやつになろうかというふうな……。
———じゃあ、森田さんとはしっかり共犯関係してるわけですね。
松田 させてもらってますよ。
———それは、役者としての優作さんの立場から言うと、どういうところがいちばんしっくりくるわけですか。
松田 人間にはいろいろ、痛いとか、熱いとか、かゆいとかっていう神経があるでしょう、たくさん。その毛細血管みたいなところにからみついているような神経をつかみ出して、これは痛いやつでしょうとか、そういう神経を的確につかみ出して、丹念に拾っていく作業ができるという、お互いが。だから1ミリのずれも……もちろんおれたちがやってきた範疇だけども、その範疇のなかで、1ミリのずれもないぐらい拾ってくれたりなんかできるという……。
出会った直後だったら、言葉として印象をたくさんしゃべれるけれども、ここまであんな映画をやってくると、なかなか言葉じゃ言いにくいですよね。言ったら、マンガみたいになっちゃうからね。
———映像の行間を大事にするとか、1ミリのずれが許せないとか、それがつまり役者ということなんだろうけど、優作さんにしても役者じゃない時期があったわけでしょう。
松田 ありましたよ。自分の柄とか雰囲気とか、ピストル持って走ったりして、撃つことだけカッコよかったりすることだけを工夫してれば、なんとか画はつながると、そういう時期もありましたからね。そういう、観客に失礼な時期が。だから『太陽にほえろ!』のときは、役者じゃなかったんですよ。好きじゃなかったしね。あの映画は。自分のナチュラルな生理からいえば、ほとんどいやなところだったというか。人間関係とかね、実際に出ている役者さんなんかもね、ほとんど嫌いでしたからね。だから『太陽にほえろ!』に入って五週目ぐらいで、もうぶったたいたりとかね。
———だれをひっぱたいたんですか。
松田 助監督から、監督から、プロデューサーから役者まで、全部(笑)。
———だって、文学座の研究生かなにかから、あの人気番組に大ばってきされていったわけでしょう。
松田 だから、単なるガキだったんですよ。やめてもいいですって、いつも言ってたからね。おれをピックアップしてくれた日本テレビの某プロデューサーがいつもおさえてくれて、事なきを得てたんだけども。でも、とにかく一年やったらやめたいということを言って、よそで仕事ができないようにしてやるとか、いろいろ言われたけれども「けっこうです」なんて言って。一年もやれば少しは丸くなるだろうって、むこうはたかをくくってたんだけど。
———なんでそんなにいらいらしてたんですかね。
松田 はっきりした答えはわかんないんだけど、なんか、こういうんじゃないんだっていうのが自分のなかにあって……。だから、もっとあとで「遊戯シリーズ」なんかを村川透監督なんかとやってるときでも、いつも彼が言ってたことは、ほんとにおまえはいつも不満とか、そういうことばかり言ってるけど、少しは安心したらどうなんだとか。
———そういわれても、自分でその原因がわからないんじゃ納得できない。
松田 納得できない。そのうちだんだん村川監督自身が信じられなくなってきたりとか。
———役者さんのなかには、テレビは身すぎ世すぎであって、自分のほんとうの仕事は舞台なり、いわゆる本編(映画)なりにあるという姿勢をはつきり見せている人がかなりいるわけですけど、優作さんも、文学座や六月劇場時代から、自分で別に小劇団をつくって作演出までやってたわけですね。それとの対比で、テレビなんかくだらねえという感じはなかったんですか。
松田 いや、ドラマのメディアとしては、むしろテレビのほうがすぐれている場合が多いですからね、日本は。やっぱり、倉本聰さんとか、早坂(暁)さんとか、死んだ向田(邦子)さんとか、山田太一さんとか市川森一さんとか、すぐれた本を書いてますし、実際おもしろいし……。映画みたいに二時間なら二時間という制約がないから、日常に密着した ディテールをちゃんと書ききることができるしね。だから、むしろテレビのストロークでドラマをやっていくと、勉強になるケースが多くてね。
『太陽にほえろ!』にしたって、いやだ、いやだと言いながら、スタッフとの関係なんかは覚えたよ。カメラマンの助手とか、これから監督になろうとしてるやつとか、そっちとの関係のほうがおもしろくなってきてね。たとえば「遊戯シリーズ」なんか始めたりなんかしたときも、スタッフをピックアップする力、チョイスする力、力というよりも、そういう目をずいぶん教えてもらったという……。
———さっきの共犯関係につながるような。
松田 あ、そういう意味ではね。で、あるテレビ的なリズムはつかまえたんだよね。テレビ的というのは、テレビの機構そのものじゃなくて、テレビ映画をつくっていくその現場としてのリズムをつかまえてしまったものだから、なにもしなくてもすぐできちゃうということを、少し覚えちゃったのね。だから、気持ちは入っているんだけども、どうも前に進まないというような状態で。まあ、金は入ってくるしね。で、これはなんとかしなくちゃと思ってるときに、うまいこと事件があったりなんかするというのは、恵まれてるっていうかね、おれは(笑)。
———ちょうど一〇年前ですね、週刊誌記者殴打事件があったり、鹿児島で予備校生とけんかして、その件で半年後に逮捕されるというところまでいく。そうするとあの事件でのブランクをきっかけに、今日の役者への道が開けたということですか。
松田 いやいや、役者になったかなというのは、この二、三年じゃないですか。
———じゃあ、その前後になんらかの転機があったと。なんですか、それは。
松田 どういう映画づくりをさせればいいのかというのと、関係があったみたいですけどね。ご存じのように、生まれてきた生い立ちとか、かなり厄介なあれだったものですから、そういう傷口みたいなものが、自分にとっての財産だと、そういうのでストロークを持ててきた時代もあったわけで……。
———つまり、私生児だったとか、生家が遊郭だったとか、けんか三昧の青春だとか、アメリカ放浪だとか……。
松田 うん。そういう傷口を宝物にしていくことによって、その傷口を少しずつ切り売りしながら、自分を神秘的に見せたり、神話化していったりとかいうようなことを、姑息に考えたり、やったりしていた時期があったと思うんですよ。だから、こどものころから、たぶんかなりの重さでのしかかっていた、そういうものの呪縛が断ち切れたときからでしょうね、生き方が変わってきたのは。
たとえば、三〇になろうかならないかという男が、こどもとも別れ、カミさんとも別れ、ということをおれもやったわけだけども、そっちの問題のほうが、これからの問題としては大きいのね、自分の過去がどうだったこうだったということよりもね。そうすると、かさぶたのようになったものをはがしていく作業というよりも、それは自然消滅していく問題であって、問題は常にいま、生(なま)のものという、その生の問題を見つめていくことが、より自分を前に向かわせるという、そういうなんか変なヒントがね……。
———それは、役者としてのあり方とかはまったく別の問題として、松田優作個人の生き方の問題だったわけですね。
松田 そう。役者とかなんとかぜんぜん考えないで、とにかくカミさんとこどもと别れた時点で、その当時一八ぐらいの女だったと思うけれども、それと生活することしか考えなかった。
———つまり、いまの奥さんですね。
松田 だから、彼女と暮らすことだけだったね、なんか。で、そのために生活の一個ずつを新しく拾い集めていくという作業とかね。
———その当時の作品というと?
松田 『陽炎座』。あの時期、芝居がわからなくなってしまったとかね、はっきり自分のなかで自覚症状が出てきた。芝居がおれはできないなとか……。それがちょうど重なってしまったときなのね。
———私生活上のこととね。芝居ができないというのは、どういう感じだったんですか。
松田 あの映画の、風景とか状況とかは自分なりのアンテナでわかってはいたんだけど、実際に鈴木清順さんという監督の現場というのはすごいですからね。スピードと。だから、そこにいる距離感というのが、頭ではすごく好きだったんだけども、できるものだと思ってたんですね、好きだったから。
———ところができなかった。
松田 うん。だから、いろんなところで言ってるんだけども、ものすごく広い遊園地があって、ジェットコースターだのなんだの、すごい乗り物がたくさんあるのに、おれだけ砂場から出られないというような……。最初は砂場でみんなで遊んでたんだけど、みんなは飽きちゃってほかの乗り物とかに行っちゃったのに、自分だけそこから出られないという……。
持ってた砂は手からザーッと落ちていくし、そのときに、ツーンという感じで音が聞こえるぐらいに自分のいる場所がわかった。だから、あれでやめようと思った、役者を。
———そこから立ち直るきつかけというのがなにかあったんですか。
松田 向田邦子さんですよ。向田さんが会いたいというので会って、それも妙な因縁なんだけど、漱石の『虞美人草』をやろうというんで、あんたしかいないと思うのよ、なんて言われて。それで、相手は桃井かおりで、プロデューサーは久世(光彦)さんで.……神頼みみたいにしてたおれも、恥をかいてやろうみたいな気分になって。でも死んじゃってね。向田さんの書くものは大好きでね。びっくりしましたけどね。
———向田さんが亡くなったんで、その話もなくなっちやったわけですね。
松田 なくなっちゃって。それでまた元の状態になって、そうこうしてるうちに、追悼番組をつくらないかということで、久世さんのほうから話があって、やはり桃井かおりとぼくで、向田さんの遺作になったんだけど『春が来た』というのをやろうと。かおりとは文学座時代からのつき合いで、現場に行ったのはいいものの、桃井かおりのすごさにまた驚いてしまって、いかに自分が時間として止まってたかというのがね。とにかく一個一個の人間の見つめ方がね。
別の時期ならまたちがったんだろうけど、ちょうど自分の生活が破綻して、また新しく若い女と暮らし始めて、一個一個、生活を拾い集めてた時期だから、よくわかったんですね、かおりが言っていることが。かおりに借りがあるみたいな。
———それからやっと『家族ゲーム』で森田監督との出会いになるわけですか。
松田 うん。『春が来た』とか、いくつかの仕事で、ぼちぼちやる気になって、自分でも企画して、映画は無理だったから、スペシャルとかやったりしながら…….。そのころ、ありとあらゆる人が每日のように家に来てたんですよ、すごい変なやつばっかりが。
———それは映画関係に限らず。
松田 限らず。その連中と、そのころ根岸(吉太郎)とか、相米(慎二)とか、あのヘんのディレカン(ディレクターズ・カンパニー)の連中とかイボみたいにばんぼん出てき始めていて、そのなかでだれがいちばんいいだろうという話のときに、こっちは映画はぜんぜん見てないんだけど、写真とか、顔とか、言ってることなんかを見ると、変なやつだなという、なにか気になる印象があって、いま(森田)芳光がいちばんいいじゃないかという話をしているときに、会いたいという話がむこうからきたんです。
それで会ったら、やっぱりすごい変なやつで(笑)、実はこれがあるんだというんで見せられたのが『家族ゲーム』だったわけです。もうぶっ飛んじゃってね。これしかないっていう……。
———話がようやく、いま優作さんが立っているところまでたどりついたと思うんで、あと、これからの問題ですけと、いずれは自分でプロデュースなり監督なりをやるんじゃないですか。
松田 いや、監督みたいな、ああいう分裂症みたいな商売はできないですよ。だって、ひとりの目と耳で、全部が見え、全部が聞こえてなくちゃならないわけでしょう。自分の役に集中している役者の持ってるナルシシズムの魔性みたいなものは、もう捨てられないしね。
———それほどの快感ですか。
松田 実際に自分の生きているリアルタイムと、それからその役に人格を吹き込んだときに、その人格が何センチか浮いたりなんかするとき、なぜ浮くんだろうというようなことを具体的に画にしていくという作業をやっていくときに、ナルシシズムとか、そういう言葉じゃなくて、やっぱり芸術してるとか、そういう気分になるときがあるんですよ。そのときは客もクソもないですからね。
———優作さんが『それから』の代助をやると聞いたとき、ご多分にもれず、ええっと思ったんですよね。だけど、きょうの話を聞くと、代助が高等遊民の快適な生活を放棄して、これから三千代といっしょに、優作さんの表現を借りると、生活を一個ずつ拾い集めていかなくちゃならない。優作さんはすでにそれをやってきた。その経験からいうと、代助と三千代はあれからどうなるんでしょうね。
松田 代助は、ここで何カ月間かをいっしょに暮らすかもしれないけど、三千代がまた出ていくという地獄を味わわなきゃいけないわけだよね。そういうことを考えるとね、この映画をやった意味があったという……。女のすごさ、怖さというものがね。そのときにこいつは『門』では仏門に参じるっていうか、そっちのほうに行ってるけれども、そういうふうになるのか……。
———それとも優作さんみたいに、生きるためのもがきが、自分の天職みたいなものの発見につながるのか……。
松田 いずれにしても、なにもかも捨てて三千代を得たにもかかわらず、三千代が離れていくということはわかっていると思うんですまね。代助はわからないかもしれないけと、いくつか女と地獄をやってきた男にはわかるでしょう。そうすると、それがまたゾクゾクするんだよね、おれは。かわいそうでね、代助が(笑)。
PLΑΥBOY○1985年12月号