第三章 作品の公開と不可能な廃棄

 前章とそれに続く章では、「もう卵は殺さない」という短編に含まれていた「卵の比喩」をもとに、作家が作品に対し特殊な思い入れを持つという仮説を立て検討してきた。しかし、その仮説に対する根本的な疑問として次のようなことがある。もし作品と作家がそのような絶対的な関係をもっており、子が文字通り比較を絶している「親子だけの世界」が当初は成立しているのだとしたら、どうして作品を公開し、ほかの有象無象の作品群に自分の唯一無二の作品を並列させなければならないのだろうか。作品を完成させたら、自分以外の誰の目にも触れさせないように、鍵のかかった棚やHDDに閉じ込め、時折ひそかに愛でるだけで十分なのではないか*1。

 これが実際の親子であれば、そうした親子だけの世界の永続はたしかに非現実的といえる。一定年齢になれば、親は子どもに教育を受けさせなければならないからだ。それが少なくともこの国では原則である。そうなると子は、他の子どもや教師など、親以外との人間とも関係を結ばなければならなくなる。そして親の目につかないところで、徐々に子どもだけの世界を広げていくことだろう。

 しかしながら、自分の創ったものを人目につかないところへ閉じ込めておくことに関しては、誰も難癖をつけることはない。作品が、作家との二者関係から勝手に脱出を試みることはありえない。つまり、作品を公開するかどうかという決定は、たいていその作者自身が望んでした決定である。なぜ、自分自身を罠にはめるようなこの決定が、当然のように日々行われているのだろうか。なぜ、作品と作家の幸福な関係を崩壊させてでも、作品は公開されるべきなのだろうか。

「承認欲求」だけでは答えにならない

 そんなのは単純明快だ、と思う向きもあるだろう。なぜ作品を公開するのかといえば、自分の子どもたる作品が素晴らしいと認められれば、自分の素晴らしさを他人に認められた気になれて嬉しいからだ。つまり、自分の能力を認めてもらいたいから作品を公開するのだ。たとえば朝井リョウの小説『何者』では、SNSでひねた文章を書く輩に対してこの論理が当てはめられる。

「思ったことを残したいなら、ノートにでも書けばいいのに、それじゃ足りないんだよね。自分の名前じゃ、自分の文字じゃ、ダメなんだよね。自分じゃない誰かになれる場所がないと、もうどこにも立っていられないんだよね」

(317頁)

「私、あんたはもうひとつのアカウントにロックかけたりツイートを消去したりなんかしないってわかってたよ」

「たまーに見知らぬ人がリツイートしてくれたりお気に入りに登録してくれたりするのが気持ち良くて仕方なかったんでしょ。だからロックなんてかけない。自分の鋭い観察力を誰かに認められたくて仕方がないから」

(305頁)

 私はこういった指摘が的を外しているとは思わない。だが、この指摘には一つ重要な前提が含まれていることに注意したい。それは、ある文章を認めることがそれを書いた者の能力を認めることになるということだ。この同一視が妥当なものであるかとさらに問うことはできるだろう。したがって、「承認欲求」を最後の言葉にできると思うなら間違いである。この点については、第四章で改めて取り上げる。

 ではこうした承認欲求を別とするならば、世の中に作品を公開するべき理由が他に何かあるのだろうか。

芦原妃名子「月と湖」

 ここからは具体的な作品をこの困難な問いの導き手としていくことにしよう。ここでいう作品も小説に限定することにしよう。

 「月と湖」という、少女マンガの短編作品がある。この作品においては、まさに「作品を公開すること」の是非が物語上で議論されることになる。作中では、ある作家が不倫の恋を描いた『月と湖』という架空の小説が登場する(以下、この小説のことは『月と湖』と記述)。この小説は書き上げられてから一切公開されなかったが、作家の死後に発見され出版された。そして当時この小説は、作者である市原有生が、それまで知られていなかった愛人との関係をモデルにしたものだとみなされた(市原は妻帯であった)。このスキャンダルが周囲の人間に与えた影響をめぐって、物語は展開していくことになる。

 『月と湖』の出版は、物語の主人公の一菜が当初思っていたように、妻に対する夫の裏切りの暴露であり、関係の人物全員にとって大きな害悪のようだった。作家の本妻(一菜の祖母)がその暴露によって長期間傷つけられただけではなく、作家の愛人として騒がれた実在の人物、水橋透子もその汚名を背負うこととなったからである。

 けれどもその二人でさえ、『月と湖』が出版されていることに対してある種の肯定をしているさまが、この物語では描かれている。なぜそんなことがありうるのか、すこし考えてみよう。

原稿を捨てていればよかったのか

 『月と湖』の原稿が作者の死後に見つかってしまったことが、すでに述べた不幸の始まりなのだった。すると、作者である市原有生がこの原稿を捨てていれば、すべては丸く収まっていたのだろうか。たしかに、彼は結婚から死去までの四十年間、水橋透子との関係を隠し続けることができていたとされる*2。では生きているうちに原稿を処分していたなら真実はまったく闇の中となったはずではないか、そう考えるのが妥当な推論である。しかし、私はそう解釈しない。なぜならその原稿をたとえ捨て去ったとしても、彼が書いたものは、もはや彼自身によっても消し去ることができないからである。

 これは記憶の問題というより、言語の問題である。『月と湖』の内容を市原有生がすっかり忘れ去ったとしても、その中で使った言葉、文体、比喩、シチュエーションは、彼の他作品のどこかで、あるいは彼の日常の発言の中で使い回されたに違いない、ということである。彼が何をしようが、何を差し控えようが、『月と湖』の全体を虚構として追放することは決してできなかった。それは彼に染みついた言語の技術を使って編まれたものであり、その言語は、彼の身体には収まりきらない社会的な実体なのだから。

 したがって、たとえ私たちがどれほど厳重に原稿を隠したり、ファイルを完全に削除したりしても、作品を本当の意味で廃棄することはできないのである。その作品を誰にも見せなくとも、忘れ去っても無駄である。そもそも作品が生まれてこなかったことにはならず、生まれてしまったことを認めないという統制が、そういった自己の在り方として、日々の会話や立ち居振る舞いに冴え渡るだろう。それこそ、すでに廃棄したはずの原稿に影響されることなのである。

 卑近なたとえ話をしよう。あなたが何かものを書いたとき、その原稿はHDDの奥底に、鍵のかかる引き出しにしっかりと隠してあるにもかかわらず、不意にその断片が口から飛び出ていた経験はないだろうか。読書家を自負するあなたは、最近読んだ本の中の概念や気のきいたセリフがつい口をついて出てしまったことはないだろうか。これらを、すぐ影響される人の行いだといって蔑むのは愚かなことだ。実際、作品が自分の内面にただ沈殿し、二度と浮かび上がらないとしたら、本を読む意味などあるのだろうか。そうして読んだものが沈殿すると、表面には出てこないけれども何らかよい効果があるといった神秘を信じるべきなのだろうか。

 私たちは自分が話したこと、書いたこと、聞いたこと、読んだことを、不断に、是非もなく引用している。じっさい自分の耳に入ってきた言葉を引用しないのなら、幼児期から今まで私たちは何を言うことができたというのか。  また、私たちは何かを引用するとき、引用元の媒体が今ここで堂々と提示できるかどうかなど考えない。そもそも今ここで堂々と提示できるなら引用する必要などない。私たちは自分の隠したいことも、忘れたはずのことも不用意に口に出し、書きつけるのである。

 『月と湖』に戻ってみるなら、市原の妻は、本当に水橋透子の存在に、というよりも水橋透子に惹かれていた市原有生がいたということに、気づかなかったのだろうか。帰ってきた夫の上の空に、確かな色があること、別離の寂寞があることを感じなかっただろうか。「体の中心を すうって冷たいものが走った」(132頁)ことはなかっただろうか。卓上の野菜料理を、遠い目で見つめる彼を見なかっただろうか。もしそうした経験があったとしたら、原稿の発見は衝撃というよりも答え合わせにすぎなかっただろう。彼女はたんなる創作や妄想で終わらないものを、「水橋透子に惹かれていた市原有生」の引用を、小説『月と湖』の中に見てしまった。だからこそ崩れ落ちるほど悲しかったのである。

 つまり彼女は、市原有生の『月と湖』の原稿が発見されるもっと前から、市原有生という人間との日々の関わりによって、すでに『月と湖』のテクストを部分的に読んでいたかのようだったのだ。それは同時に、市原有生は彼自身によって、隠したはずの『月と湖』の内容をある程度漏洩してしまっていたということでもある。その漏洩を完璧に防ぐには、家庭を含めたあらゆる社会と断絶するか、書いた後ですみやかに命を絶つかくらいしかなかっただろう。だが、そのような仮定にほとんど意味はない。

作品はつねにすでに公開されている

 私はこの章の最初に「なぜ作品は公開されるべきなのか」と問うたが、今やこの問いは成立しないのではないかと考えるに至った。なぜなら、「誰の目にも触れさせないように作品を軟禁できる」という前提、また「私たちはいつも自分自身で、自分の決めたタイミングで作品の公開を決意する」という初めの前提がいまや崩れることになったからだ。実際の親子と同じように、親たる作者は全面的には作品という子を管理することはできないということになる。

 このような状況は、「作品はどこまでが作品なのか」という混乱に読み替えることもできる。たとえば、『月と湖』はどこまでがその作品なのか。どこまで受け取れば、作品を完全に享受したことになるのか。見つかった原稿か、出版された本か、同時に持ち上がった作者の不倫騒動か、それとは両立しがたい水橋透子の語りなのか、あるいはそれらすべてを鑑みて一菜が再構成した物語なのか。驚くべきことに、短編少女マンガ「月と湖」はこの複数の『月と湖』の広がりを確実に認識している物語である。というよりそれは、小説『月と湖』が、分裂し変異しながら増殖していくさまを描いた物語でもあった。

 作品の無数の断片は、作者自身やその身辺を巻き込んでつねにすでに流通してしまっているものであるから、作品の公開は時間の一点を占めるように行われるのではない。原稿用紙にペン先を当てる前から、構想の段階からすでに作品は生まれつつあり、ある意味で公開は始まっているのである。

 何かを創る人が作品制作を途中で放り出したくないと思う理由も、この先立つ公開から理解できる。なぜ作品は一応の完成を見るべきなのか。それは、自分で書いて自分で読むその文章をすでに肯定し始めているからであり、そこから引き返すことはもはやできないからである。第二章で述べたように、構想段階で中絶したとしても、生まれかけの物語に対する心残り、あるいは肯定がある。作品を本当の意味で廃棄することができないというのは、その不可逆性のことなのである。

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*1:これは物を書く人にとってはさして珍しくもない思いつきである。「が、だとしたら、そもそもひとに原稿を見せる必要はないのではないか。見せなければコピー代の節約にもなる。いささか傲慢な言い方になるかもしれないが、本当に人に原稿を見せたくないのなら、どうして本を出す必要があるのか。書きあげた原稿は、銀行の貸し金庫に放りこんでおけばいいではないか。J・D・サリンジャーも最近はそうしているという噂を聞いたことがある。」スティーブン・キング『書くことについて』291頁。

*2:「月と湖」82頁を参照。